第4話 ようこそ、私の世界へ~絶対領域へようこそ。「絶望」と呼ばれる終焉の地へ~
再び、あの教室へ戻ってきた。
扉の外からは、相変わらずクラスメイトたちの「優しい挨拶」が聞こえてくる。
本来なら恐怖に震えているはずの陸念安は——
ただ静かに、教室の後ろの扉へと歩いていった。
カチッ——
鍵が外れる音。
そのまま扉を押し開ける。
外にいたのは、見慣れたはずの顔。
けれどどれも歪みきっていて、まるで人の皮を被った悪意の塊のようだった。
「陸念安、言ったよね——」
一人の女子生徒が冷笑しながら近づいてくる。
言葉を言い終えるより先に、
その手が振り上げられた。
——パシッ。
その平手は、空を切った。
陸念安はわずかに身体を傾け、
風を避けると同時に相手の手首を掴み——そのまま捻る。
「っあああ——!!」
悲鳴が、引き金になった。
混乱が、一気に爆発する。
指先に力を込める。
拳はぶれず、動きは無駄がない。
横からの攻撃を上体を落として躱し、
次の瞬間——拳を打ち込む。
鋭く、正確に。
彼女の姿は人混みの中を滑るように動き、
まるで幽霊のように音もなく、速かった。
かつて自分を押し潰していた恐怖を——
今度は一撃一撃で、叩き返していく。
一人、二人、三人——
「いいクラスメイト」たちは、次々と倒れていった。
悲鳴が重なり、やがて最後の一人が崩れ落ちる。
陸念安はゆっくりと階段へ向かう。
一歩ずつ。
焦ることなく。
そして——
微笑んだ。
◇
誰もが言っていた。
陸念安の笑顔は、優雅で、上品で、完璧だと。
けれど——
誰も知らなかった。
彼女が一度も、本当に笑ったことがないということを。
彼女の人生は、夏玖微に語ったような「普通」なんかじゃなかった。
幼い頃、使用人にいじめられていたこともある。
その件は表向きには処理された——だが、心の傷は消えなかった。
両親の不在は、叱責よりも冷たかった。
だから彼女は学んだ。
仮面を被ることを。
優しさ、礼儀、上品さ。
それらで自分を何重にも包み込み——
本当の自分を、深く、深く埋めた。
冷たく、壊れた自分を。
彼女は笑えなかった。
笑いたいと思える出来事にも、出会えなかった。
時間は表面の傷を薄めても、
その奥にある影までは消せなかった。
高校に入ってからのいじめは、
彼女にとって“最も怖いもの”ではなかった。
本当に彼女を壊したのは——
誰も、何も言わなかったこと。
誰一人、立ち上がらなかったこと。
誰も、気にも留めなかったこと。
世界そのものに見捨てられたような感覚。
それこそが——最後の一押しだった。
そして彼女は、夏玖微に出会った。
裏世界での“結合”のあと——
心の中に溜まっていた闇が、少しだけ薄れた。
それが一方通行ではないことも、分かっていた。
夏玖微は、自分の中に閉じ込めていた過去も、
見たくもない感情も、全部受け止めた。
それでも——
目覚めた彼女の目にあったのは、
恐怖でも、拒絶でもなかった。
ただの——心配だった。
隠そうともしない、まっすぐな心配。
その瞬間——
何かが、ほどけた。
陸念安は笑う。
笑いながら、涙がこぼれた。
(ありがとう、玖ちゃん)
心の中で、そっと呟く。
この人生は——
親のためでも、世界のためでもない。
ただ一人。
自分を見てくれた人のために、生きる。
足音が廊下に響く。
コツ、コツ、コツ——
まるでカウントダウンのように。
彼女は階を一つずつ巡りながら、
クラスメイトたちに次々と“マーキング”を施していく。
◇
すべての標的に印を付け終えたあと、
彼女は足を止めた。
(……このまま戻るだけじゃ、足りない)
小さく息を吐く。
「そろそろ……変わらないと。」
そして——教師用の職員室へ向かった。
「先生、この書類にサインをお願いします。」
「ん?」
書類を差し出し、指が触れた——その瞬間。
空気が、わずかに歪んだ。
次の瞬間。
マーキングされた者すべて——教師も含めて。
一斉に、裏世界へと引き込まれた。
◇
陸念安が再び目を開けたとき——
そこに学校はなかった。
代わりに広がっていたのは、小さな洋館。
暖炉には柔らかな火。
窓の外には、しんしんと降る雪。
木の家具、柔らかな絨毯。
そしてテーブルの上には——赤ずきんの絵本。
それは、彼女が一度も持てなかった“家”。
何度も夢見た場所。
でも——決して与えられなかったもの。
そしてその隣には——
見慣れた少女。
「安ちゃん、どう?」
夏玖微が微笑む。
「……うん。好き。」
堪えようとしても——
涙は止まらなかった。
「ほらほら、泣かないの。」
夏玖微は優しく頭を撫でる。
「ここなら、いくらでもいられる。」
少し間を置いて——
「この空間、作るの結構大変だったんだから。」
そして、軽く肩をすくめる。
「でも外の連中も片付けないとね。
すぐ戻るよ。」
陸念安は、涙ぐみながら頷いた。
◇
「……よし、戻ってきた。」
現実に戻った夏玖微は、小さく呟く。
立ち上がり、服の埃を払う。
教室に戻ろうとした、そのとき。
——思い出す。
(あ、さっき誰かに押されたな)
「ごめんごめん、わざとじゃないって。
“たまたま”だからさ?」
階段の上から、男子生徒が笑う。
夏玖微は何も言わず、ゆっくりと階段を上がる。
一歩ずつ。
目の前で止まり——
肩に手を置く。
優しく。
そして——
次の瞬間。
引いて、踏み込んで、払う。
完璧な動き。
「ぎゃっ——!」
男子生徒はバランスを崩し、後ろへ転落。
ゴン、ゴン、ゴン——!!
階段を転げ落ち、床に叩きつけられる。
夏玖微は首を傾げた。
「……頭、打ったっぽいね?」
無邪気な声。
「手が滑っちゃって。」
微笑む。
「信じる?」
そのまま、何事もなかったかのように去る。
◇
「陸念安って、ほんと伝説級だよね!」
夏玖微がこっそり教室に戻ったとき、最初に耳に入った言葉だった。
彼女は一瞬足を止め、扉にもたれながら静かに聞き耳を立てる。
「高校卒業してすぐ、大学の頃から投資始めたらしいよ。元手は少なかったのに、センスがエグいって——」
「投資した会社、ほぼ全部が業界トップになってるんだってさ。」
「そのあと逆に仕掛けて、自分の親の会社にまで食い込んでいって……」
「今じゃ陸氏グループの47%、韓氏グループの39%握ってるらしいぞ……」
「もう裏で全部動かしてる黒幕じゃん。」
その話を聞きながら、夏玖微はわずかに眉を上げた。
(……だから聞き覚えあったのか)
この学校の有名な卒業生、ってわけね。
ゆっくりと口元が吊り上がる。
ひとつの考えが、頭の中で形になる。
(……これ、もっと大きくできるな)
「陸念安とかマジで憧れるわ~! 将来は私もビジネス界で無双したい!」
「はいはい、夢見すぎ。」
「ねえ……普通にちょっとカッコよくない?」
教室は騒がしいまま。
——そのとき。
「私は、普通に可愛いと思うけど?」
大きくもない声。
なのに、その一言で空気が凍りついた。
全員がゆっくりと振り返る。
いつの間にか、そこに立っていた。
「やだなぁ。」
夏玖微は首をかしげる。
「そんな楽しそうに話してるのに、私だけ仲間外れ?」
人混みの中から、一人の男子が出てくる。
鼻で笑いながら。
「お前が? 調子乗んなよ。」
上から下まで値踏みする視線。
「陸念安がどんな人間か分かってんのか?」
「俺らみたいな階層の人間じゃないと関われないんだよ——」
言い終わる前に。
ドンッ——!!
その体が宙を舞った。
机と椅子に激突する。
教室は、一瞬で静まり返った。
夏玖微はゆっくりと足を戻す。
何事もなかったかのように。
「さっきちょっと頭打っちゃってさ。」
落ち着いた声。
教室をぐるりと見回し、口元をわずかに緩める。
「ちょっと調子悪いんだよね。」
一拍置いて——
「大目に見てくれると助かるかな。」
◇
職員室。
「夏玖微! お前、何を考えてるんだ!!」
担任が机を叩いて怒鳴る。
「クラス全員に手を出したって、どういうつもりだ!」
「相手の親が誰か分かってるのか?!」
「この学校にどれだけ寄付してると思ってる!」
言葉はどんどん荒くなる。
「明日の三者面談——もう終わりだぞ!」
「今まで何度も庇ってやったのは、ここにいられるようにするためだ!」
「謝れば済む話だったのに、なんで分からない!」
「今回は違う! 親も全員来るし、校長も出る!」
大きく息を吸い込み——
声が冷たく落ちる。
「明日、午後四時。至善棟二階の多目的教室だ。」
「……覚悟しておけ。」
夏玖微が聞いていたのは、ただ一つ。
「全員来る」
その一点だけ。
彼女の目に、わずかな笑みが浮かぶ。
「いいね。」
立ち上がる。
「ちゃんと行くよ。」
◇
翌日、午後四時十分。
夏玖微はまだ寮にいた。
のんびりと荷物をまとめている。
服、洗面用具。
ひとつずつ、裏世界へ収納していく。
最後に、机の上の懐中時計を手に取る。
祖父の形見。
一度だけ見つめてから、ポケットへ入れる。
そのまま部屋を出た。
◇
多目的教室の前に着いたとき——
中はすでに騒然としていた。
「うちの息子殴っといて遅刻か?!」
「今日は絶対説明してもらうぞ!」
「何様のつもりだあのガキは——!」
罵声が飛び交う。
だが誰も気づいていない。
空気が——冷えていくことに。
じわじわと。
何かが、侵食している。
ギィ——
扉が開く。
耳障りな音。
一瞬、全員が黙る。
そして——
世界が、崩れた。
壁は剥がれ落ち、床はひび割れる。
新しかった机と椅子は、錆びた鉄と腐った木へと変わる。
照明は消え。
窓から差し込む灰色の光だけが残る。
湿った、腐敗した匂い。
「な、なんだこれ……?」
「何が起きてる?!」
恐怖が広がる。
生徒も、保護者も、教師も。
顔が一斉に青ざめていく。
そして——
視線が向く。
扉の前。
光と影の境界に立つ、少女へ。
夏玖微は、そこにいた。
両手をわずかに広げる。
迎えるように。
裁くように。
目の前に並ぶ、見慣れた顔。
そのすべてが——
今は歪で、滑稽に見えた。
彼女は笑う。
冷たい笑み。
「ようこそ——」
優しい声で。
ぞっとするほど、優しく。
「私の世界へ。」
【作者からのお願い】
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