第35話 最後の帰路 - 一ヶ月
祖父が長い時間をかけて語り終えた物語を聞き終えたあと。
二人はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
誰も口を開かない。
祖父はただ静かに向かいに座り、ゆっくりと二人の言葉を待っていた。
しばらくして、夏玖微がようやく小さな声で言った。
「それで……おじいちゃん、その後は?」
祖父はわずかに目を伏せる。
「その後か……」
一瞬の沈黙。
「……その後は、お前の物語だ」
小さく息を吐く。
「わしの物語は、ここで幕を下ろすべきなんだろうな」
「ここに、残ってくれないの?」
夏玖微は祖父を見つめたまま、抑えきれない拒絶の感情を滲ませる。
祖父は穏やかな表情のままだった。
「お前も知っているだろう。わしの人生は長すぎた」
「こうして生き延びてこられたのは、ある人との約束があったからだ」
少し間を置く。
「それも、もう終わった」
夏玖微は何も言えなかった。
喉が塞がったように、言葉が出てこない。
「それなら……少しだけでも残ってくれませんか」
横から陸念安が口を開いた。
小さな声だが、揺るがない響きだった。
祖父はわずかに目を見開く。
まるで、その言葉に何かを思い出したように。
「残る……少しだけ、か」
低く繰り返す。
この言葉は、かつて自分が誰かに向けて言ったものだった気がする。
数秒の沈黙の後。
「いいだろう」
「では……あと一ヶ月だけ、ここにいよう」
それからの時間、夏玖微は祖父にべったりだった。
彼女が手を軽く振るだけで、外の雪と永夜は、穏やかな夕暮れの午後へと変わる。
「おじいちゃん、こっち来て」
祖父の語る物語は、幼少期から始まる。
だがそのほとんどは、長い年月ゆえに春秋筆法のように省略されていた。
それでも、その簡潔な語りだけで、途方もない時間が流れていくのが分かった。
彼女は知っている。
死とは、祖父にとって安らぎであるのかもしれない。
それでも――
その瞬間を想像することだけはできなかった。
だから彼女は、些細なことを覚え続けた。
話すときの間。
カップの持ち方。
微笑み方。
◇
「ははは――」
「領域」で構成された小さな世界に、夏玖微の笑い声が響く。
もう何日目かも分からない。
陸念安は少し離れた場所で、その光景を静かに見ていた。
無防備に笑う夏玖微。
しかしその表情に、彼女はかすかな違和感を覚える。
この数日、夏玖微はずっと祖父と一緒にいた。
楽しそうに笑っている。
だが、その笑顔の奥には――
言葉にできない何かが潜んでいる。
陸念安だけが、かすかにそれを感じ取っていた。
それは彼女自身がまだ知らない種類の感情。
淡い、言葉にできない悲しみだった。
焼きたての洋風デザートを手に取り、二人の元へ向かう。
「小ちゃん、おじいちゃん、少し休憩しましょう」
夏玖微はすぐに駆け寄り、皿を受け取るとそのまま祖父の元へ戻っていく。
足取りは軽い。
何の重さも感じさせないように。
陸念安はその背中を見つめる。
心の中で静かに呟く。
彼女は大丈夫だ。
これからも、きっと大丈夫だ。
……それでも、その確信すら揺らいでいた。
彼女は洋館へ戻り、本棚の前に立った。
天井近くまで届く高い本棚。
そこには、これまで出会ってきた人々の物語が並んでいる。
ほとんどの人生は、一冊にも満たない。
短く、限られた記録。
だが今回――
祖父の物語だけは、一瞬で本棚の半分を埋めていた。
まだ整理は終わっていない。
陸念安は手を伸ばす。
指先から黒い影が流れ出し、ページの間に流れ込む。
文字が再構築され、整列していく。
語られた記憶を、一つずつ文章へと変換していく。
ぱたん。
一冊の本が閉じられる。
これで九冊目だった。
「あなた、彼女のところに行ってあげないの?」
少し年老いた声が、彼女の背後から響いた。
陸念安はわずかに動きを止め、振り返る。
老人はいつの間にかそこに立っていた。
ここ数日、彼はほとんど彼女に自分から話しかけてこなかった。
まるで彼女の存在を当然のように受け入れながらも、あえて距離を保っているようだった。
陸念安は彼に微笑んだ。
ただし、その笑みは薄い。
「だって、おじいちゃんは彼女にとってとても大切な人だからです」
「この一ヶ月は、邪魔しないようにしてるんです」
老人は彼女を見つめ、小さく首を振った。
「わしがここに来たのは、その話をするためじゃない」
少し間を置く。
「お前も、あの子にとって同じくらい大事な存在だ」
「夏ちゃんのこと……頼む」
陸念安はわずかに眉をひそめた。
「おじいちゃん、どうしてそんなことを?」
声には困惑が混じっていた。
同時に、ほんのわずかな警戒も。
老人はすぐには答えない。
ただ彼女の背後を見つめていた。
そこには、書棚の大半を埋め尽くす黒い精装本が並んでいる。
一冊、一冊、整然と。
「おじいちゃん!なにしてるのー!早く来てよ!」
遠くから夏玖微の声が響いた。
笑い声を含んだ、明るい呼びかけ。
老人はそちらへ振り向き、ゆっくりと歩き出す。
その声は、距離とともに薄れていく。
「わしが子どもの頃……二人の人間に出会った」
「とても大きな書斎を持っていた」
「そこにはたくさんの本があってな……ほとんどは読むことができた」
「だが、黒い本だけは――触れてはいけなかった」
「理由は、最後まで教えてくれなかった」
声は次第に遠ざかり、やがて風に溶けた。
陸念安はその場に立ち尽くす。
視線はゆっくりと、黒い本たちへと戻る。
そして、先ほどの言葉を何度も反芻した。
「おじいちゃん、次の古戦場見せて!」
その数日間、夏玖微は次々と願いを口にした。
彼の記憶の中にある場所。
史書に残されていない古の戦場。
そして人生の重要な瞬間。
「領域」は彼の手によって自在に書き換えられ、過去の光景を次々と再現していく。
◇
日々が過ぎるにつれ。
彼と過ごす時間が増えるほどに。
夏玖微の胸には、喜びとは別の感情が静かに芽生えていた。
空虚。
やりたいことは、もうほとんどやり尽くしていた。
毎日は充実している。
それなのに――
残り時間を意識した瞬間、気づいてしまう。
すべてやったはずなのに、何も残っていない気がする
そして最終日。
彼女は歩みを止めた。
「領域」の空は一瞬で満天の星へと変わる。
静かで、圧倒的な輝き。
荒野に並んで座る二つの影。
無限の星空の下では、その存在さえもあまりに小さい。
夏玖微は長い間、何も言わなかった。
心がゆっくりと沈んでいく。
やがて、ようやく口を開く。
「おじいちゃん……子どもの頃、一番好きだった遊びって何?」
老人は少し考えた。
「……たぶん、“九秒”だな」
彼女は彼を見る。
「九秒?」
「ああ」
老人は微笑む。
「懐中時計を使う遊びだ」
「まだ何も知らなかった頃だが……」
「自分で動くものがある、それだけで夢中になった」
静かに息を吐く。
「本当に、手放せなかった」
声には、遠い時間への懐かしさが滲んでいた。
夏玖微は静かに彼を見つめる。
そして、ポケットから懐中時計を取り出し、差し出した。
「じゃあ……もう一回、やってみる?」
【作者からのお願い】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
「続きが気になる!」と思ってくださったら、下にある【ブックマークに追加】と、【評価の☆☆☆☆☆】をポチッと押していただけると、執筆の大きな励みになります!
皆さんの応援が、物語を動かす力になります。よろしくお願いします!




