第34話 最後の帰路 - 遠い昔の物語
洋館の木の床には、柔らかな絨毯が敷かれていた。
暖炉の火が静かに揺れ、室内を淡い橙色に染めている。
窓の外に広がる冷たい夜とは、まるで別世界だった。
祖父は椅子に腰掛けたまま、静かに周囲を見渡す。
そして視線を窓の外へ向けた。
漆黒の夜空。
細い月。
音もなく降り続ける雪。
彼は長いこと、それを眺めていた。
やがてゆっくりと目を戻し、向かいに座る二人を見る。
その眼差しは、どこか遠かった。
彼はかつて、この場所へ来たことがある。
ずっと昔。
まだ汚れて、腹を空かせ、逃げ回ることしかできなかった頃。
なぜか突然、ここへ連れて来られた。
その記憶は――
暖かく。
清潔で。
どこか現実味がなかった。
まるで夢のように。
だからこそ今では、思い出すほど本物だったのか分からなくなる。
祖父はぼんやりと目を細めた。
かつて持っていた鋭さは、もう消えている。
残っているのは、時間に削られかけた微かな懐かしさだけだった。
「……おじいちゃん」
小さな声。
けれど、少し震えていた。
祖父は一瞬だけ目を瞬かせる。
まだ完全には意識が戻っていない。
「どうやって探せばいいのか……ずっと考えてた」
夏玖微は俯いたまま、声を押し殺すように言った。
「やっと見つけたのに……」
そこで言葉が止まる。
喉が詰まったようだった。
次に口を開いた時には、もう声が乱れていた。
「こんなの……ひどいよ……」
最後の方は、ほとんど聞き取れなかった。
涙が、ぽろぽろと零れていく。
大声で泣くわけじゃない。
ただ、止まらない。
一滴ずつ。
静かに落ち続ける。
その小さな泣き声が。
ようやく祖父を記憶の底から引き戻した。
彼は目の前の少女を見る。
一瞬、呆然としたように固まった。
数秒後。
ようやく理解が追いつく。
「……夏ちゃん?」
掠れた声。
どこか信じ切れない響き。
まるで、認めるのが怖いみたいに。
夏玖微は顔を上げる。
目元は真っ赤だった。
「おじいちゃん、ひどすぎる……」
とても小さな声。
けれど、その一言は泣き声よりずっと重かった。
祖父は息を詰まらせた。
何か言おうとして、結局言葉にならない。
長い沈黙のあと。
彼は深く息を吐いた。
そして、不器用に手を伸ばす。
壊れ物を扱うみたいに、そっと彼女を引き寄せた。
「……爺ちゃんが悪かった」
低い声。
「ごめんな、夏ちゃん」
慣れていない謝罪だった。
不格好で。
でも、確かな後悔があった。
抱き寄せられた瞬間。
夏玖微は彼の服を強く掴む。
離したら、そのまま消えてしまいそうで。
涙が全部、服へ染み込んでいく。
まともに言葉も出せないまま。
彼女は途切れ途切れに泣き続けた。
陸念安は少し離れた場所で、その光景を静かに見つめていた。
そして、その時になって初めて気づく。
――自分は今まで、本当の意味で夏玖微の心を見ようとしていなかったのかもしれない、と。
◇
しばらくして。
夏玖微の感情は、ようやく少しずつ落ち着きを取り戻していた。
その表情にも、再び静かな真剣さが戻る。
「おじいちゃん」
彼女はまっすぐ祖父を見る。
「結局……何をしてる人だったの?」
祖父は少し黙った。
それから、ゆっくり口を開く。
「わしの仕事か……」
小さく息を吐く。
「ある人の代わりに、“裏世界”を預かっていた」
声音はあまりにも平坦だった。
まるで、ありふれた昔話でもするように。
夏玖微は、その答えをどこかで予想していた。
だから遮らず、静かに次の問いを重ねる。
「じゃあ、この本は?」
彼女の手の中に、黒い本が現れる。
「どうして……あの時、私に渡したの?」
紫の瞳が揺れる。
「おじいちゃんが管理者だったなら、なんで私に継承権があるの?」
祖父はその本を見つめた。
けれど、多くは語らない。
ただ、わずかに笑う。
「元々――それはお前のものだからだ」
軽く言ったはずなのに。
その言葉だけは、不思議なほど断定的だった。
夏玖微は微かに息を止める。
含まれている情報が大きすぎて、すぐには整理できない。
だが彼女は、それ以上問い詰めなかった。
少し間を置いて。
彼女は別の質問を口にする。
「おじいちゃんって……昔の話、全然してくれなかったよね」
「昔、何があったの?」
それは彼女がずっと抱えていた、数少ない疑問だった。
祖父は小さく溜息をつく。
「昔、か……」
かすかに笑う。
「多すぎるな」
「多すぎる?」
夏玖微はわずかに眉を寄せた。
「どういう意味?」
老人は、静かに考える。
――もし先生なら、話しただろうか。
そう思いながら、目の前の少女を見る。
白い髪。
紫色の瞳。
その瞬間、記憶の奥底に沈んでいた誰かの面影が、一瞬だけ重なった。
彼は深く息を吸う。
「わしはな……」
ゆっくりと言葉を落とす。
「生きすぎたんだ」
「何を経験したのかすら、曖昧になるくらいにはな」
少し間を置き。
静かな視線を夏玖微へ向ける。
「……本当に聞くのか?」
その声は重かった。
ただ過去を語るだけとは思えないほどに。
だが夏玖微は、穏やかなまま答える。
「おじいちゃん、もうすぐいなくなるみたいな言い方しないで」
「裏世界にいる限り、大丈夫なんでしょ?」
とても優しい声だった。
一言ずつ、壊れ物を扱うみたいに丁寧に紡がれる。
祖父は返事をしない。
ただ静かに目を伏せた。
そして。
ようやく、過去を語り始める。
「始まりは……たぶん数万年前だ」
一度言葉を切る。
まるで、時間そのものを探り当てようとするように。
「五万年か、十万年か……もう覚えとらん」
その数字は、彼にとって既に意味を失っていた。
「とても古い時代だった」
「文字すら、まだ存在しなかった頃だ」
窓の外では、夜が静かに流れている。
細い月。
降り続ける雪。
「そこに、一人の赤子がおった」
「その子には、族から名が与えられた」
祖父は微かに笑う。
「意味は――“火に焼かれるもの”」
「やがてその子は育ち、自分が“火祭”によって死ぬ運命だと知る」
「だから、生きるために集落から逃げ出した」
「そして行き場を失った時……奇妙な格好をした二人と出会った」
祖父はゆっくりと語り続けた。
自分が覚えている限りの、数え切れないほどの出来事を。
その物語の中では、時間さえ加速していく。
窓の外に浮かぶ永遠の夜の月が。
三日月になり。
満月へ変わり。
再び細く欠けていく。
「裏世界にあの本を安置した後、暫定管理権も一緒に置いてきた」
「凡人の身で、あれほど長く存在できたのは……むしろ幸運だったのかもしれんな」
老人は静かに続ける。
「その後、わしは木屋へ戻った」
「そして少しずつ、裏世界の権能がこの身から離れていった」
「死が近づいているのも、ずっと感じていた」
そこに、死への恐怖はない。
ただ長い旅路の終わりを受け入れる静けさだけがあった。
「わしはずっと、一人の人間を待っていた」
「……今思えば、ちゃんと待てたんだろうな」
その言葉と共に。
老人はようやく、自らの長い長い歳月を語り終えた。
けれど。
彼の中にはまだ。
何十年でも、何百年でも語り続けられるほどの記憶が残っていた。
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