第36話 最後の帰路 - さようなら
おじいちゃんは、玖微が差し出した懐中時計を受け取った。
それはすでに「領域」の力に包まれていた。
漆黒の中に、わずかに色彩を孕んだ光を放っている。
それは彼の一生の中で――
最後まで到達できなかったものだった。
彼はその懐かしい懐中時計を見つめ、強く握りしめる。
右手を背後へ回し、静かにボタンを押した。
心臓の鼓動が、一拍、一拍と刻まれる。
彼はその秒を数えていた。
カチ——
次の瞬間、再びボタンを押す。
時計はその瞬間に止まった。
彼はそれを目の前へ持ってくる。
九秒まで――あと八分の一秒、足りなかった。
「次はお前だ」
おじいちゃんは懐中時計を差し出す。
「私が?」
夏玖微はわずかに目を瞬かせる。
「“九秒”は二人でやる遊びだ」
「どちらが九秒により近いかを見る」
「じゃあ、賭けをしよう」
夏玖微は彼を見つめ、少し明るい声で言った。
「絶対に私が勝つ」
少し間を置く。
「賭けの代わりに、おじいちゃんがもう少しここに――」
言葉は途中で途切れた。
彼女は小さく息を吐く。
それ以上は言わなかった。
彼女は懐中時計を背後に回し、ボタンを押す。
少しして、もう一度押す。
そして前へ戻す。
――ぴたりと九秒。
寸分の狂いもない。
「どうしてこんなに正確か分かる?」
夏玖微は祖父を見る。
祖父は首を振る。
夏玖微は懐中時計を彼へ向けた。
操作などしていない。
だが「領域」の力の中で――
針は自ら、一目ずつ動いていた。
それを見た祖父は、最初こそ驚いたが。
やがて、静かに苦笑した。
――そうか。
自分がこの世界を離れる前に。
理解できなかったことのすべてに、ようやく答えが与えられていく。
彼はそれ以上何も言わなかった。
ただ背を向ける。
ゆっくりと洋館へと歩いていく。
夏玖微はその背中を見つめた。
彼女は分かっていた。
時間だ、と。
祖父は屋内のソファに横たわっていた。
呼吸は次第に弱くなっていく。
暖炉の火だけが、静かに揺れている。
部屋には、薪のはぜる音だけが残っていた。
彼は傍らに立つ二人へ視線を向ける。
すでに焦点は合っていない。
やがて、ゆっくりと手を上げた。
その掌の上に、灰緑色の珠が浮かんでいる。
かすかな光を放つそれは――
途方もない時間を内包していた。
「これは……お前に」
声は限りなく弱かった。
今にも消えてしまいそうなほどに。
夏玖微は震える指で、それを受け取る。
その瞬間――
「領域」が祖父の手から離れた。
彼の気配は明らかに衰えていく。
皮膚はさらに乾き、命の輪郭は急速に薄れていく。
夏玖微は一歩、前に出た。
唇が震える。
だが、言葉は出ない。
祖父の視界はすでに曖昧だった。
すべての輪郭が溶けていく。
それでも、かろうじて見えていた。
目の前に立つ二つの影。
その影は、記憶の奥底の誰かと重なっていく。
先生。
姉。
――ああ。
やはり、まだ会えたのか。
一筋の涙が、老人の頬を伝う。
しかしその表情に苦しみはない。
ただ、長い旅路の果てに辿り着いた静けさと。
満たされたような安堵だけがあった。
「……さよならだ」
かすれた声が落ちる。
それは遠い世界への別れの言葉のようだった。
次の瞬間。
彼の存在は静かに「領域」の中へ溶けていく。
部屋は再び静寂に包まれた。
ただ暖炉の火だけが、変わらず燃え続けていた。
おじいちゃんが消えた、その瞬間。
夏玖微は、自分が思っていたよりも――ずっと静かだった。
ただ、思う。
見なければいい。
触れなければいい。
そうすれば、すべてはまだ「そこにある」ままだ。
温かな手が、そっと彼女の指先を包んだ。
冷え切った指に、わずかな温度が戻る。
夏玖微はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
暖炉の火がゆらめく音さえ、遠く感じるほどに。
やがて、彼女はゆっくりと振り向いた。
「行こう」
その声はあまりにも静かだった。
まるで、自分には関係のない出来事を語るように。
次の瞬間、二人は再びモーテルの部屋へと戻っていた。
存在感を徐々に調整した後、夏玖微はベッドの端に腰を下ろす。
ただ静かに待つ。
アメリカの秘密機関が来るのを。
陸念安は彼女の隣に立っていた。
驚くほど静かな表情の少女を見つめる。
しかし胸の奥では、不安だけが強くなっていく。
そっと、その身体を抱きしめた。
長い時間、ただ抱きしめ続けた。
けれど――
その温度が、本当に彼女に届いているのかは分からなかった。
しばらくして。
夏玖微は、奇妙な視線を感じ取った。
能力のようなもの。
建物の外、百メートル以上離れた場所から、誰かが彼女を見ている。
その視線は鋭く、確かにこちらを捉えていた。
しかしやがて、その気配は急に慌ただしくなり――
車が発進し、遠ざかっていく。
それでも、しばらくは「見られている」感覚だけが残り続けた。
山道を長く走り去ったあと、ようやくその気配は消えた。
「行こう」
しばらくして、玖微が淡々と口にした。
彼女は立ち上がり、階下へ向かう。
陸念安はその手を離さず、静かに後に続いた。
車庫のシャッターがゆっくりと開く。
一台の車が外へ出る。
簡単なチェックアウトを済ませると、そのまま山道へと入っていく。
目的地は、祖父の家。
いつもは静かな山道に、この日は妙に車が多かった。
数台のSUVやバンが、同じように山へ向かっている。
しかし――
かつてあったはずの地雷や伏兵は、もうどこにもなかった。
まるで、すべてが最初から存在しなかったかのように。
再び木造の家へと続く小道に入る。
すでに数台の公用車が停まっていた。
森林調査の名札が貼られた車両。
夏玖微は足を止めない。
ただ、一歩ずつ石段を登っていく。
一歩。
また一歩。
そのたびに、胸の奥が締めつけられる。
見たい。
でも、怖い。
それでも確かめなければならない。
やがて高台へと辿り着く。
視線を上げる。
そこにあったのは、あの木造の家だった。
扉は開かれている。
夏玖微の瞳がわずかに見開かれた。
次の瞬間、彼女は駆け出した。
中は空だった。
数人の調査員と警官が、無言で作業を続けている。
彼女は祖父の部屋へ向かう。
そこにも、何もない。
ただ、ベッドのそばに――
四角い焦げ跡だけが残っていた。
眉がわずかに歪む。
すぐに警官へ歩み寄った。
「通報します」
声が震えていた。
「祖父が、行方不明になりました」
分かっている。
もういないのだと。
それでも、可能性に賭けたかった。
名前、生年月日、身分証番号。
すべてを伝える。
返ってきたのは――
「該当者なし」だった。
その一言だった。
その瞬間。
胸の奥が、空洞になったように痛んだ。
何かが抜け落ちる感覚。
スマートフォンの画面には、祖父の身分証の写真。
それを見つめながら、玖微は静かに呟く。
「おじいちゃん……どこに行ったの……」
その声は、あまりにも小さかった。
誰にも届かないほどに。
帰りの車内。
陸念安は何も言わず、ハンドルを握っていた。
隣から漏れる、押し殺したような声を聞きながら。
胸の奥が痛くなる。
もしかすると。
時間がすべてを薄めてくれるのかもしれない。
車は山道を走り続ける。
そして二人は――
記憶の中にしか存在しない木の家から、静かに遠ざかっていった。
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