第23話 政略結婚~自分の立場をわきまえなさい、あなたの思い通りにはさせない~
執事は陸念安を連れて、脇の建物へと向かった。
足取りは乱れない。だが速い。
彼は振り返らない。
そして気づいてもいなかった――
その手の隣で――もう一つ、手が重なっていることにも。
夏玖微は静かにその隣を歩いていた。
影のように。
あるいは、存在しない何かのように。
三人は廊下を抜け、いくつかの角を曲がる。
彼女はただ何気なくついていき、まるで自分の場所みたいに、そのまま奥へ入り込んでいく。
そして――
精巧に作られた一枚の扉の前で、足が止まった。
「旦那様、お嬢様がお見えです。」
執事が低く告げる。
扉がゆっくりと開かれる。
室内は明るい光に満ちていた。
そこに座っていたのは、一人の老人。
背筋は真っ直ぐで、表情は厳格。
室内の配置は一分の隙もなく整えられている――
机、椅子、装飾品。すべてがあるべき場所に正確に収まっている。
余計なものはない。
そして、温もりもない。
「父さん、誕生日おめでとう。」
陸念安が口を開く。
その声音は淡々としていて、まるで決められた手順をなぞるだけのようだった。
老人は彼女を見る。
祝福に応じることはない。
「陸念安。今日はお前に話があって呼んだ。」
低く、ゆっくりとした声。
「……そう。」
彼女は短く応じる。
わずかに冷えた声で。
適当に近くの椅子へ腰を下ろす。
「何の話?」
「お前ももう若くはない。」
老人は彼女を見据える。
「そろそろ結婚について考える時だ。」
空気がわずかに張り詰める。
「結婚?」
陸念安は小さく笑った。
「まだ三十二だけど、もう結婚を用意される年齢?」
「今やらなければ遅い。」
老人の調子は変わらない。
「相手はこちらで選んである。」
「条件は申し分ない。家柄も釣り合っている。」
「若さもある。」
一拍置く。
彼女に受け止める時間を与えるように。
「お前は顔を出せばいい。あとは自然に話は進む。」
「ご親切にどうも。」
陸念安が口を開く。
声は少しずつ硬くなっていく。
「でも――私は、自分の人生くらい自分で決められる人間だと思ってる。」
彼女は顔を上げる。
「私のことは、私が決める。」
「これはお前一人の問題ではない。」
老人の声が一段低くなる。
「陸家、そして韓家にも関わる話だ。」
「政略結婚は、双方に利益がある。」
その瞬間。
陸念安の手が、強く握られた。
夏玖微の手を握る指が白くなる。
何かを押し殺すように。
「金融危機のあと――」
彼女はゆっくりと口を開く。
声は冷え切っていた。
「私たちの間の清算は、とっくに終わってるはずよね。」
まっすぐに彼を見る。
一切引かない視線。
「それに――」
一瞬、言葉を切る。
「どうしても政略結婚をさせたいなら――」
声を落とす。
「そういうのやりたいなら、自分の子供にでもやらせれば?」
「私を使わないで。」
部屋の空気が一気に凍りつく。
「最後に。」
陸念安は立ち上がる。
その声は静かで、ほとんど冷淡だった。
「陸さん。」
あえてそう呼ぶ。
「忘れていないと思うけど――」
「今、陸家と韓家で最大の株主が誰か。」
彼を見据える。
表情には一切の感情がない。
「それで? 他に用件は?」
返答はない。
あるのは沈黙だけ。
その瞬間。
彼女の中に残っていた、最後のわずかな期待が――
静かに落ちた。
音もなく、砕けた。
彼女は背を向ける。
もう振り返らない。
その手を握ったまま。
そのまま部屋を後にした。
ドアが閉まる。
音は大きくない。
だが――すべてを内側に隔てた。
室内はしばらく静まり返る。
老人の視線はドアに向けられたまま。
感情の揺れはない。
まるで何かを計算しているかのように。
「では、予定通り進めろ。」
淡々と告げる。
その声には、もはや迷いはなかった。
執事は傍らに立つ。
わずかに眉をひそめて。
「旦那様……このやり方は、あまり得策とは思えません。」
声を落とす。
「お嬢様の性格では……簡単には受け入れないでしょう。」
老人は小さく鼻で笑った。
「気性は荒い。」
「だが――体面は何より気にする。」
断言する口調。
すでに何度も確かめてきた事実を語るかのように。
執事は黙り込む。
それ以上は諫めなかった。
ただ軽く頭を下げる。
胸の奥には、不安が静かに広がっていた。
陸念安は足早に建物を出た。
夜風が正面から吹きつける。
わずかな冷たさを含んで。
足取りはまだ緩まない――
そのとき。
前方から一人の人影がちょうど向かってきた。
「ふん――運が良かったな。」
気だるい声。
どこか苛立ちすら混じっている。
言い終わると同時に。
片手で何かを放る。
クラフト紙の封筒が弧を描き、
正確に陸念安の手元へと落ちた。
彼女は反射的に受け取る。
顔を上げたときには――
もうその人物は遠ざかっていた。
振り返ることもなく。
「姉さん!」
すぐ後から別の声が追いつく。
年若い少年が、息を切らしながら彼女の前に駆け寄った。
「さっき兄貴があんな態度で……悪かった。」
頭をかきながら、気まずそうに笑う。
「気にしないでくれよ、あいつ、ああいう奴だからさ。」
異母の弟。
声音にはわずかな媚びと、慎重さが混じっていた。
「あなたには関係ない。」
陸念安は淡々と言う。
「もう行っていい。」
軽く手を振る。
彼を見ることもなく。
少年は一瞬固まる。
何か言おうとしたが――結局うなずき、そのまま去っていった。
再び、周囲は静けさを取り戻す。
陸念安は手元の封筒に視線を落とす。
ためらいはない。
そのまま開封する。
中には、ホチキスで綴じられた書類が二部。
A4サイズ。
表紙にはそれぞれ、鮮明な顔写真。
横には簡単な記載――
韓国系、仁川グループ長男:任秉宥
仁川グループ次男:任賢俊
夏玖微が横から覗き込む。
そのうちの一人の顔に視線が止まる。
わずかに動きが止まった。
――見覚えがある。
もう一度確認する。
間違いない。
さっき宴会で、向かいに座ってきた、あの自惚れたスーツの男だ。
彼女の目が、わずかに冷える。
その後。
二人は、まるで存在していないみたいにそこに立っていた。
周囲の人の流れは絶えず続いている。
だが――
誰一人として、彼女たちに注意を向けない。
陸念安は書類を開く。
視線を素早く走らせる。
そして――
眉が、徐々に寄っていく。
表向きには。
仁川グループの長男――優秀な経歴、申し分のない条件。
欠点はほとんど見当たらない。
一方、次男――遊び人で、私生活は乱れている。
それは――まだ表に出ている情報に過ぎない。
だが、書類に記されているのは――
それだけではなかった。
韓国での数々の行動。
グレーな領域。違法行為。
さらには、より汚れた取引まで。
あるべきものも、あるはずのないものも――
ほぼすべてが並べられている。
ただし。
財閥の影に守られ、
その大半は世に出たことがない。
最後のページをめくると。
一枚のメモが滑り落ちた。
――姉さん、今回はちょっと厄介だ。ここまでしか手伝えない。
(あとで陸氏グループのCEOにしてくれよ!!)
陸念安はそれを見て、
思わず小さく笑った。
「よく言うわ。」
小声で呟く。
珍しく、少しだけ力が抜けた声。
陸知遠。
表面は粗雑で、物言いも直線的な弟。
口では気遣うふりをしながら裏で計算する連中より――
よほど信頼できる。
彼女は書類をまとめる。
そして表情は、再び沈む。
状況はもう明白だった。
父の思惑は――
最初から、単なる「政略結婚」などではない。
問題は――
いつ、そのカードを切るつもりなのか。
夜の中で。
彼女はその場に立ち尽くす。
動かない。
その瞳の奥の感情は――
ゆっくりと――冷えていく。
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