第18話 君のために存在する-ゼロの存在感~必要とされない男×誰にも気にされない自殺志願の少女~
「それで、それがあなたが『異世界』に来た理由なの?」
その淡々とした語りを聞き終え、夏玖微はわずかに眉をひそめた。
信じがたい色が混じっている。
思わず突っ込みかけた言葉が、喉の途中で止まった。
——そうだ。
人生の意味って、いったい何なんだろう。
今、自分がしていることだって、結局は上へ上へと登り続けているだけじゃないのか。
強くなるために、裏世界の怨念を消し続ける。
束縛されたくないから、自分を追い込み、さらに強くなろうとする。
けれど——
自分は、何のために生きている?
その問いが、初めて彼女を沈黙させた。
「それで、その後は?」
気づけば、声は少しだけ柔らいでいた。
「人生の意味を見つけたって言ったけど……それは何?」
山田は一瞬黙り、それからゆっくりと口を開いた。
彼は、当時の自分の反応に思わず笑ってしまったことがある。
「異世界転生」——そんなものは、学生の頃だけ信じていられる幻想だ。
笑いながらも、胸の奥には言葉にできない空虚が広がっていた。
彼はまだ二十七歳。
それなのに、かつて夜更かししてアニメを見ていた自分とは、何世紀も隔たってしまったように感じていた。
彼は、その荒れ果てた世界を歩いていた。
方向もなく、目的もなく、ただ歩き続ける。
歩いているうちに、ふと子どもの頃のことを思い出した。
未知の世界へのあの純粋な期待——それはもう、とっくに消えていた。
彼は考え始めた。
もし自分がいなくなったら、会社は気づくだろうか。
この世界は、何か変わるのだろうか。
それとも——何も起きないのだろうか。
その時、彼は一枚の扉を見つけた。
何もない場所に、ぽつんと立っている扉。
彼はそれを押し開けた。
扉の向こうにあったのは——会社の階段室だった。
彼は目を瞬かせ、見間違いではないと確かめると、そのまま中へ入っていった。
席に戻り、パソコンを開き、また残業を続ける。
まるで、何もなかったかのように。
その時は、ただの夢だと思っていた。
◇
だが翌日。
「おはようございます。」
いつも通り、先輩たちに挨拶をした。
——誰も返事をしない。
忙しいだけだと思い、もう一度声をかける。
それでも、反応はない。
同僚の前で手を振る。
反応はない。
肩に触れてみる。
相手は——まるで何も触れられていないかのように振る舞った。
彼はすぐに理解した。
無視されているのではない。
——自分が、他人の認識から消えているのだ。
出勤もできる。
打刻もできる。
報告書も書ける。
一見、すべては普通に見える。
だが——誰一人として、彼を「認識」できない。
透明なのではない。
世界の認識から、彼という存在だけがすっぽり抜け落ちていた。
一か月が過ぎた。
誰も彼の消失に気づかない。
給料も支払われない。
彼は迷い始めた。
貯金はまだあった。
だが気づいてしまった。
——自分は、生き方そのものを、もう思い出せなかった。
次の一か月。
彼は何もせず、ただ他人の人生を眺めていた。
狭い賃貸の部屋で、一晩中キャンバスに向かい続ける絵描き。
指先は冷えて赤くなっているのに、それでも一筆ずつ修正を重ねていた。
授業後、生徒に袖を引かれ、ただ一つの質問に答えただけで、安堵の笑みを浮かべる教師。
大きな荷物を背負い、駅のホームで適当に切符を買い、行き先も決めずに旅立つ人。
彼は初めて気づいた。
この世界には、こんなにも多くの「生き方」があるのだと。
成功なんて、決して一つの答えじゃない。
それでも——
彼は、どの人生も、自分という存在を必要としていないようにしか思えなかった。
選択肢が少ないからではない。
——どの人生も、自分という存在を必要としているようには思えなかった。
◇
彼はリュックを背負い、街の中を歩いていた。
存在感はほとんどゼロ。だがそれは、これまでの人生と大差なかった——仕事以外で、彼に目を向ける人などほとんどいなかったのだから。
むしろ、誰にも見られなくなった今になって、
彼はようやく気づき始めていた。
これまでの人生には、自分が本当に望んでいたものなど、ほとんどなかったのだと。
立派な大学に入ることも、激しい競争の企業に入ることも、
本当はそれほど望んでいなかったのかもしれない。
彼が本当に望んでいたのは——
ただ静かにこの世界で生きて、
一日一日を、平凡でささやかな日々として過ごすことだったのかもしれない。
けれど長い間、他人の視線と期待の中で、
彼は逆に、自分自身を閉じ込めていた。
道は次第に人通りが減り、寂れていく。
もう一本橋を渡れば、アパートに戻れる。
そして——彼女を見つけた。
若い女性が、橋の欄干に立っていた。
すでに、飛び降りる寸前だった。
周囲には誰もいない。
まるでかつての自分のように——誰にも気づかれない存在。
彼はほとんど反射的に駆け出した。
落ちる瞬間に彼女の腕を掴み、引き戻す。
「……え? 誰かいるの?」
女性は驚いて辺りを見回した。
その反応に、彼は息を呑んだ。
——自分の存在を感じ取れる人間がいる。
「ここにいる!」
山田は慌てて声を出した。
だが、彼女には聞こえていないようだった。
彼女は再び欄干へ向かい、もう一度飛び降りようとする。
焦った山田は、リュックから小さなノートを取り出し、鉛筆で書いた。
「ここにいる」
それを地面に置く。
「え……?」
女性はノートを拾い、そこに書かれた文字を見つめた。
「ごめんね、こんなところ見せちゃって……でも、本当にもう生きたくないの。」
彼女は小さくため息をついた。
山田はすぐに書き足す。
「そんなこと言わないで。まだ、もっといい人生を知らないだけかもしれない。」
女性は苦笑した。
「でも、私の人生はもうぐちゃぐちゃなの。誰も私に生きてほしいなんて思ってない……未来が良くなるかなんて分からないけど、もう耐えられないの。」
山田は少し考え、また書いた。
「もう夜だし……ご飯は食べた?」
女性は一瞬きょとんとする。
「……ちょっとお腹すいたかも。」
山田は自分の夕食を差し出し、書いた。
「これ、食べて。もし本当に死ぬなら——明日の夜、またここに来て。」
女性はその言葉を見つめ、しばらく黙った。
「……分かった。」
ため息をつきながらも、
その胸には、ほんの少しだけ温もりが生まれていた。
◇
翌日の夜。
同じ橋の上。
女性は足元を見下ろし、地面に置かれたノートに気づいた。
「まだ死なないで。聞きたいことがある。全部聞いてからでも遅くない。」
彼女は呆れたように笑い、欄干にもたれかかった。
「いいよ、何でも聞いて。」
「仕事は?」
「Vtuber。」
「いいね。昔よく見てたよ。」
最初は落ち着いた口調だった。
だが話し続けるうちに、声が少しずつ震え始める。
「私……本当は、この仕事がすごく好きだったの。」
「誰かを楽しませられるって、そう思ってた。」
彼女は俯いた。
「でもそのうち、ファン同士が揉め始めて……」
「何が起きてるのかも分からないまま、巻き込まれて。」
「別のVtuberのアンチに叩かれて……」
「それで……自分のファンまで、私を責めるようになった。」
声はどんどん崩れていく。
何を言っているのか、自分でも分からなくなっていた。
「ファンを大事にしてないって。」
「変わったって。」
「応援する価値がないって。」
「会社は数字しか見てなくて。」
「配信時間は長くなるし、プレッシャーもどんどん増えていって。」
彼女は息を吸い込む。
声は、今にも途切れそうだった。
「でも誰も……」
「私が、もう限界かどうかなんて……聞いてくれなかった。」
そう言いながら、彼女はその場にしゃがみ込み、小さく泣き出した。
しばらくして、山田はノートに書いた。
「さっき飛び降りるって言ってたよね? それとも疲れた? 明日にする?」
彼女は泣きながら、少し笑った。
「……明日にする。」
その瞬間、山田は彼女の無力さと孤独を見た。
かつての自分と同じように。
そして——その時。
彼は、人生の一つの目的を見つけた気がした。
——彼女を、生かすこと。
「まだ死なないで。聞きたいことがある」
それは毎晩、ほとんど決まりごとのように繰り返された。
◇
「名前は?」
「白石小透。」
……
「最近ちょっと寒いね。このマフラーあげる。今飛び込んだら汚れちゃうし、明日にしよう。」
……
「最近、アンチ減ってきたんだ。」
……
「登録者、50万人いったよ。」
……
「山田くん、普段どこに住んでるの?」
……
「その状態で、どうやって働いてるの?」
日々はゆっくりと積み重なっていった。
山田の世界にも、少しずつ色が戻っていく。
初めて感じた。
——自分の存在が、必要とされている。
たとえそれが、目に見えないものであったとしても。
◇
その日は、彼女の誕生日だった。
彼はケーキを買って向かった。
だが工事で遠回りさせられ、大きく遅れてしまう。
橋に着いた時には、すでに時間を過ぎていた。
思わず叫ぶ。
「飛び降りるな——!」
白石はその声の方へ振り向いた。
そこに——一人の青年がいた。
それが、彼女が初めて「彼」をはっきり見た瞬間だった。
彼女は、ふっと笑った。
「ねえ……私、まだここに来る理由が“それ”だと思う?」
山田は言葉を失う。
「……見えてるの?」
二人は同時に固まり、
そして同時に笑い出した。
だが次の瞬間——彼の姿はまた消えた。
「え? 人は?」
白石はきょとんとする。
「さっきのイケメンどこいったの?」
山田は顔を赤くしたが、誰にも見えない。
彼は慌ててノートに書く。
「ケーキ、どうぞ。誕生日おめでとう。」
白石はそれを見て、嬉しそうに笑った。
「ありがとう。」
少し間を置いて。
「ねえ……恋人とか、考えたことある?」
山田は一瞬、言葉に詰まった。
「でも、あなたは私を完全に見ることも、ちゃんと認識することもできない。」
白石はその文字を見つめながら、小さく言った。
「私、本当はここに来たの、自殺するためだったのに。」
「でも今は……毎日、あなたを待ってる。」
◇
やがて二人は、一緒に暮らすようになった。
小さな作業部屋を作り、
彼女は配信をし、彼は仕事を請ける。
一緒に食事をし、世間の声に向き合いながら、生きていく。
彼女は彼の存在を感じ取ることができた。
だが山田は、ずっと負い目を感じていた。
「ごめん。普通の恋愛はできない。」
抱きしめることも、キスすることもできない。
白石はただ微笑んだ。
「大丈夫。一緒にいるだけで、安心できるから。」
それでも山田は諦めなかった。
「存在を取り戻す方法」を探し始める。
そして気づいた。
——自分は時々、ほんの短い間だけ“見える”ようになる。
そのたびに、彼女は彼を強く抱きしめた。
そして、ある日。
買い物の途中、世界の奥にひび割れのような違和感を感じた。
その気配を追いかける。
そして——
彼は「裏世界」へと引き込まれた。
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