第96話:すべてが変わった日
【吉田視点】
その夜は、どうしても眠れなかった。
目を閉じるたびに新しいアイデアが頭の中に溢れ出してくる。バカげたものから、実現不可能と思えるもの、そして未だにどうやって実行すればいいのか見当もつかないものの、確かな手応えを感じさせるものまで様々だった。
正直に言おう。俺はビビっていた。
誰だってそうなるだろ?
一夜にして魔王に祭り上げられ、世界の半分から命を狙われ、挙句の果てにはろくに知りもしない巨大な帝国を統治しなきゃならないんだから。
俺が『魔王』の称号を受け入れた理由は、実にシンプルだった。
ただ、ローズを取り戻したかった。
力が必要だった。仲間が必要だった。そして彼女を護るための場所が必要だった。
だが、こうして帰還を果たした今、この国は俺のものとなり、それは同時に俺の責任になったことを意味していた。
「はぁ……」
天井を見つめながら、溜め息を漏らす。
自分なりの『明治維新』を起こそうという試みに、少しばかり胸が高鳴っていた。
翌朝、宮殿の廊下を歩いていると、城内の雰囲気が激変していることに気づいた。
バッ、バッ、と魔族の兵士たちが完璧に整列された陣形で目まぐるしく行き交い、何人もの将軍たちが書類を改め、部下たちに矢継ぎ早に指示を出している。
中には悲壮感漂う真剣な表情で廊下を走り抜けていく者さえいた。
何が起きているのか、俺にはさっぱり分からなかった。
(な、なんだ……?)
数時間後、俺は巨大な会議室の最上座に腰掛けていた。
隣には、いつの間にやら俺の右腕を自称し始め、当然のようにその立場に収まっているデルガドが控えている。
(おいおい……)
目の前にはヘッセンの四騎士が並び、さらにはローズ、ケン、エレノア、精神的に復調したシェイリーの姿もあった。
エレノアに至っては、誰も割り当てていない席にこれみよがしにふんぞり返り、やけにくつろいでいた。
「なんであいつらがここにいるんだ?」
俺は小声で尋ねた。
デルガドは眉一つ動かさない。
「おそらく、自らに同席する権利があると確信しているのでしょう」
「……」
まあ、エレノアと押し問答をするくらいなら、おとなしく同席させた方が安全か。
だが、これが更なる混沌の始まりだった。
ギィィ……と重々しい音を立てて会議室の巨大な両開き扉が開き、一つの集団が入ってきた。続いて別の集団、さらにまた別の集団……。
俺は眉をひそめた。
「デルガド……」
「はい、陛下」
「俺、こんなに大勢呼んでないぞ」
王子は俺に向かって軽く一礼した。
「帝国各地の諸侯、ならびに各部族の長たちです。陛下が会議を召集されたとお聞きになり、馳せ参じた次第です」
「全員がか?」
「時間内に到着できた者、すべてでございます」
俺の口から魂が抜けかけていた。
ほんの数分のうちに、会議室はオーク、オーガ、エルフ、ドワーフ、ミノタウロス、そしてワーウルフたちで足の踏み場もないほど埋め尽くされた。
生まれて一度も見たこともないような怪異な生物たちも混ざっており、厳めしい軍用鎧を纏う者もいれば、貴族と見紛うばかりの絢爛な衣装に身を包む者もいる。
さらには人語を操る獣の姿まであった。一匹の軍服を着た獣が、人狼の男と平然と言葉を交わしている。
俺は巨大な玉座から、その光景を呆然と眺めることしかできなかった。
中世ファンタジーのコスプレ会場のど真ん中に放り出された気分だった。
致命的なのは、ここにいる全員が俺の『重大な発表』を固唾をのんで待っているということであり、当の俺は掻き集めたばかりのけなげな勇気をすでに完全に失っていたことだった。
ゴクリと生唾を飲み込む。
その時、ゾクッと鋭い視線を感じた。
テーブルの遠くの端で、ローズが俺をじっと凝視していた。
その瞳に宿っていたのは敵意ではなく、どこか異様なものを見るような違和感だった。
まあ、無理もない。自分自身でさえ、姿形が激変して目覚めたこの体に戸惑っているのだから。
「……」
ワイワイガヤガヤとざわめきは大きくなる一方だった。
互いに議論を交わす者、警戒感を露わに俺を品定めする者。様々な声、唸り声、聞き取れない雑多な言語が大ホールに満ちていく。
これが、この帝国の部族長や地方領主たちとの初めての対面だった。
状況が限界に達しようとしたその時、デルガドが手にした武器の石突きで激しく床を叩いた。
ズゾーンッ!!
「――静粛にッ!!」
怒号のような一撃が大ホールに響き渡り、シーン……と瞬時に静寂が訪れた。
(そんな大声出す必要ある……?)
デルガドは至極真面目な顔で俺に向き直った。
「魔王陛下より、お言葉がございます」
おでこを冷や汗がたらりと伝うのが分かった。
(デルガド頼むから……これじゃ俺が宣戦布告でもするみたいじゃないか)
俺はゆっくりと席から立ち上がった。
全員の視線が一斉に突き刺さり、想定していたよりも遥かに胃が痛む状況を作り出す。
深呼吸をし、引きつった笑みを浮かべ、胸の奥からせり上がってくる強い焦燥感を必死に押し殺した。
「皆の者……」
思いのほか声が掠れてしまったため、一度言葉を区切る。
「急な召集で混乱している者も多いだろう。何が起きたのか、事態を把握できていない者もいるはずだ」
誰も答えない。
冷徹な眼差しを向ける者もいれば、魔王にふさわしい覇気溢れる演説を期待している者もいるようだった。
当の俺はと言えば、『魔王って一体なんなんだ?』という哲学的な問いと絶賛葛藤中だったのだが。
「俺は……吉田……」
言葉を止める。
違う。本気でこの連中に話を聞かせたいのなら、『吉田』なんて名前で名乗っている場合じゃない。
背筋をシャキッと伸ばした。
「……いや。俺は、魔王だ」
喉がカラカラに干からびるのを感じる。
「……帰ってきたぞ」
なぜか、会場の奥から盛大な咳払いが聞こえた。
「――ゴホンッ! コホンッ!」
チラリと横目で見やる。
(煽られてるのか俺……? いや、まさかな……そう思いたい)
俺は言葉を続けた。
「だが、俺に国を治めるつもりはない」
その瞬間、参加者たちの間で猛烈なざわめきが巻き起こった。
「な、なんだと!?」
「では、なぜ戻られたのだ!?」
「我らを統治する気がないというのか!?」
「――静粛にッ!」
デルガドの威圧的な声が再び全体を押し潰す。
俺は息を深く吸い込んだ。
「治めるつもりはない、なぜなら――」
大ホールを見渡す。
誰もが俺の言葉の続きを待っていた。その時、俺はなぜこの称号を受け入れたのか、その原点を思い出した。
野心から魔王になったわけじゃない。誰かが俺に、この場所を護ってほしいと願ったからだ。
「……それが、魔族に対する俺の義務だからだ」
声は低く、ざわめきの中に消えていった。
最後の言葉まで聞き取れた者は誰一人おらず、俺自身ですらまともに発声できていなかった。
すると、デルガドがゆっくりと頭を垂れた。
彼の纏う雰囲気が一変し、ドロッと肌を刺すような凶悪なオーラがその巨躯から滲み出し始める。
「……」
大ホールは完璧な静寂に包まれ、参列者全員が背筋を正した。
俺は彼を横目でじろりと睨みつける。
絶対に後で言っておかなきゃダメだ。誰かが口を開くたびに殺気を振り撒くなんて真似は、全力でやめさせなければ。
……いや、待てよ。
案外、こういう威圧感のある右腕を控えさせておくのも悪くないかもしれない、と一瞬だけ思い直した。
「俺は、この帝国を改革し、共に繁栄する道を選ぶことに決めた」
その言葉を発した途端、今度こそ大ホールが爆発した。
「改革だと!?」
「どういう意味だ!?」
「魔神帝国に改革など必要ないはずだッ!」
奥の方から野次が飛び始め、怒号のボルテージは跳ね上がり、宮殿の壁を揺らすほどの不快な騒音と化した。
(くそっ……)
額にピキッと青筋が浮かぶのを感じる。
『改革』を宣言するのが一筋縄ではいかないことくらい分かっていたが、まさか「今日からこの国をコンビニチェーンにします」とでも宣言したかのような大拒絶反応を示されるとは思わなかった。
なんとか説明を続けようと試みる。
「聞け! 俺はただ、説明したいだけで――」
「――改革など断固反対だッ!!」
(なんでそんなに怒鳴り散らしてんだよッ!?)
その時、デルガドが俺に向かって静かに身を乗り出してきた。
相変わらずの真顔だったが、その声は驚くほど穏やかだった。
「陛下。お考えを皆様へ『伝達』なされるのが宜しいかと。無用な議論を交わすよりも、遥かに効率的です」
俺は困惑して彼を見た。
「伝達……? 考えをか?」
「はい」
デルガドは短い間を置いた。
「思念伝達(念話)でございます」
「念話ぁ!?」
「魔族の神聖なる血を引く者のみが扱える高位の対話術です」
俺はパチパチとまばたきをした。
神聖な血? 初耳なんだが。
「悪い、デルガド……俺、そんなやり方さっぱり分からん」
俺が彼と出会って以来初めて、その完璧な仮面が崩れ、明白な『失望』の色が浮かぶのを目撃した。
「……左様でございますか」
(なんでそんなあからさまにガッカリしてんだよ! 教わってもない魔法を使えるわけねえだろ!)
デルガドは再び距離を詰めてきた。
「目を閉じられるだけで結構です、陛下」
「え?」
「暗黒の空間を思い浮かべ、他の思考を一切捨て去ってください。正しく行われれば、私が陛下の思考を読み取ります」
俺は数秒間彼を不信感いっぱいに見つめた。
「おい……それ、なんかすごく怪しく聞こえるんだが」
「正常な手順でございます」
「お前にとってはな!」
それでも俺は折れた。
目を閉じ、暗闇をイメージしようと試みる。
最初は「なんて胡散臭いんだ」という雑念ばかりが浮かんだが、次第に心を無にし、デルガドが言っていた漆黒の空間に集中していった。
数秒が過ぎ、一分が過ぎ、さらに時間が経過した時――彼の声が頭の中に直接響いた。
『――理解いたしました』
カッと目を開ける。
デルガドは目の前に立っていたが、その顔には明らかな動揺が浮かんでいた。
額に薄っすらと汗をかき、眉をひそめ、これまで見せたこともないような混乱と困惑の表情を浮かべている。
(……一体俺の頭の中で何を見たんだよ?)
問い詰めずにはいられなかった。
彼の俺を見る目は、まるで「決して踏み込んではならぬ禁忌の領域」から命からがら戻ってきたかのような眼差しだった。
「デルガド……大丈夫か?」
彼は答えなかった。
ただコホンと一つきつい咳払いをすると、いつもの姿勢を取り戻し、堂々と大ホールの全員の前に進み出た。
「――魔王陛下の御意に従うことこそ、我らが絶対の義務であるッ!!」
彼が大声を張り上げると、場は一瞬にして静まり返り、全員が金縛りに遭ったように固まった。
(おお……マジで効いてる)
デルガドは数秒間タメを作ってから、言葉を続けた。
「陛下の御名において宣告する! ルシアン卿、ガレス卿、オーウェン卿、そしてハロルド卿! 貴公ら四名を、帝国の四大学区を統括する大領主に任命する!」
その瞬間、地鳴りのような咆哮が上がった。
「――なッ!?」
「人間にだと!?」
「陛下は人間に我らの土地を治めさせるおつもりかッ!?」
魔族たちが激しい怒りを露わにし、ガタンッ!とテーブルを叩きつけ、席を立ち上がる。
一方の俺は、口ぐちに叫ぶ彼らを前に完全に硬直していた。
(……え?)
デルガドを見る。
俺、そこまで口に出して言ってないぞ……。
いや、確かに頭の中ではそう考えていた。だが一言も発していない。
ってことは、マジで俺の思考を全部読み取ったのか。
デルガドは魔族たちの猛抗議など一切意に介さず、朗々と宣告を続けた。
「さらに、正規帝国軍の編制、帝国全土を統括する法令の制定、そして来るべき大戦に備えるためのあらゆる準備を進めること! これもまた、魔王陛下の御意であるッ!」
俺の口がぽかんと開いた。
待て、え? 大戦……?
「……戦争か?」
思わず声が出た。
デルガドは一瞬だけ俺に視線を向け、そして完璧に無視した。
(なんで無視するんだよッ!?)
しかし、魔族たちの反応は、俺の想像とはまったく異なる方向へと爆発した。
「帝国軍の編成だと!?」
「ついに……ついにこの時が来たかッ!」
「戦争の準備だと!? 腕が鳴るぜッ!」
「人間どもに血の復讐をッ!」
先ほどまでの怒号は、瞬く間に狂熱的な歓声へと塗り替えられていく。
ドドドと拳を叩きつけ、大ホール全体が割れんばかりの拍手と勝どきに包まれる。
違う……俺が言いたかったのはそんなことじゃない。
国を護るための組織化された軍隊が欲しかっただけで、法を整え、生活水準を上げ、この国を貧困から救いたかっただけだ。世界大戦を起こしたいわけじゃない!
「陛下が我らを戦争へと導いてくださるぞッ!」
「魔王陛下万歳ッ!!」
(なんでそんな嬉しそうなんだよお前らぁぁぁッ!?)
デルガドは満足そうに頷くと、まるで長年俺の代理で摂政を務めてきたかのような手際で矢継ぎ早に指示を飛ばし始めた。
「ケン・アラタカ、ならびにロゼット・ベイカー」
二人が顔を上げる。
「貴公ら両名には、これより魔王陛下の直属近衛隊の創設を命じる」
ケンは数秒間フリーズしていたが、俺が出会って以来初めて、心底破滅的な混乱を露わにした表情を浮かべた。
「……はぁあぁぁ……!?」
一方のローズは、完全に石化して硬直していた。
俺もショックのあまり二人の顔を見つめ返すことしかできない。(直属近衛隊……!?)
「ちょっと待て、デルガド――」
事態がこれ以上カオスになる前に止めようとしたが、彼の爆走は止まらなかった。
「四大学区の領主たちは直ちに任地へと赴き、主君に誓った責務を果たされるべし!」
ルシアン、ガレス、オーウェン、そしてハロルドが重々しく頷いた。
展開の早さに、恐怖すら覚えた。
俺はただ自分のアイデアを説明し、いくつかの意見を聞くつもりでこの会議に臨んだはずだった。
それがどうだ。一時間も経たないうちに地方政府が立ち上がり、軍が再編され、新たな法律の策定が決まり、なぜか世界戦争の準備まで宣言されてしまったのだ。
(一体全体どうなってんだよ……)
最も奇妙だったのは、俺が玉座に就いたばかりで統治のやり方すら知らない新参者であるにもかかわらず、魔族たちが直接反乱を起こさなかったことだった。
確かに多くの者が俺を疑いの目で見つめていたが、デルガドの言葉に直接異を唱えようとする者は一人もいなかった。
その時、ようやく理解した。
デルガドはこの帝国において、絶大な尊敬と畏怖を集める存在なのだ。彼が語れば誰もが耳を傾け、彼が「魔王の意志だ」と言えば、誰もそれを疑おうとしない。
つまり……。
操られているのは、完全に俺のほうだった。
笑えない皮肉だった。
俺は『魔王』でありながら、実際に命令を下しているのは自称・右腕の男。手綱を握られているのは俺のほうだった。
(素晴らしいぞ吉田。マジで最高の仕事をしてくれたな)
その日は、あっという間に過ぎ去った。
宮殿からは矢継ぎ早に新たな勅令が発せられ、休む間もなく動き出していく。軍の再編、役人の任命、行政改革、地方開発の準備、新法の制定、軍事訓練、さらには新たな交易ルート開拓の議論まで。
その報せは燎原の火のごとく帝国全土へと駆け巡った。
すべては、俺が絶望の淵で絞り出したあの一言――「この国を改革したい」から始まったのだ。
今にして思えば、俺は甘すぎたのかもしれない。
夜、俺は自室に戻り、バルコニーへと出た。
暗闇の空の下、眼下には広大な街並みが広がっている。街道にはぽつんと灯りが灯り、民家や工房からは細い煙が立ち上り、遠くに聳え立つ巨大な山々のシルエットの中に溶けていく。
静寂の中で、そのすべてを見つめた。
この帝国はあまりにも巨大で、胸が痛むほど貧しく、そして今や俺のものだった。
手すりに両肘を預け、長く深い溜め息を吐き出す。
今日は完全に制御不能の嵐に巻き込まれてしまった。
「思ってたより……ずっと茨の道になりそうだな……」
街の灯りを再び見つめながら、ぽつりと呟いた。
この時俺はまだ知る由もなかった。
今日という日が、魔神帝国の運命を根底から変え尽くす、壮大な変革の「第一歩」となったことを。




