第95話:未来を見据えて
【吉田視点】
会議は、一言で言えば「完全なる大惨事」に終わった。それが一番控えめな表現だと思う。
事の発端は、エレノアだった。いったい何杯ワインを流し込んだのか分からんが、彼女は魔族の将軍の一人に絡み始めたのだ。
何について議論していたのかすら覚えていない。次に俺の視界に入ってきたのは、テーブルに身を乗り出したエレノアが、哀れな将軍の真上から豪快に吐き捨てている姿だった。
「……」
「……」
「……」
数秒間、大ホールに死のような沈黙が満ちた。魔族の将軍は完璧に静止し、「自分の人生のどこで選択を狂わせたのか」を本気で問うような表情を浮かべていたが、突如として弾かれたように立ち上がった。
「貴様ぁぁぁッ!!」
「なによぉ」エレノアは手の甲で口元を拭いながら悪びれもせずに返した。「人が吐いてる姿くらい見たことあるでしょ?」
「貴様、今私の上にぶち撒けただろうが!!」
「え? 厳密に言えば『あんたの真上』で吐いたのよ。バカシダに直接ぶち撒けたわけじゃないわ」
「何が違うんだよこのアマァッ!!」
そうして大乱闘が始まった。魔神帝国の未来を決めるはずの閣議が、なぜ大酒を飲んだ後の路地裏の泥酔酒場と化しているのか、俺の理解の範疇を超えていた。
シェイリーが「ここは重要な会議の場よ!」と叫んで止めに入ろうとしたが、近づいた瞬間に別の魔族にうっかり掴まれ、そのまま混沌の中心へと引きずり込まれた。
「なんで私まで巻き込むのよぉぉッ!?」
「知るかァッ!」混戦のどこからか怒号が飛ぶ。
一方のローズは、エレノアの髪を引っ張りながら「いい加減にしなさい! 酒を飲むのをやめなさい!」と暴れる海賊を必死に押さえつけようとしていたが、当の海賊は断固拒否とばかりに暴れまわる。混沌が急速に拡大していく中、ケン・アラタカだけは自分の席に座ったまま微動だにせず、完全に彫像と化していた。
俺は数秒間、彼を見つめた。
状況は悪化の一途をたどり、ついに俺の堪忍袋の緒が切れた。俺は両手でバンッ!とテーブルを叩きつけ、立ち上がった。
「――いい加減にしろぉぉぉっ!!」
俺の声が大ホール全体に激しく響き渡る。するとどういう訳か、王都の近くに聳え立つ山々から、宮殿の壁を突き抜け、窓を激しく震わせるほどの耳をつんざく咆哮が返ってきた。
『――グオオオオオオオオオオアアアッ!!』
三頭の大竜が目を覚ましたのだ。
俺を含め、全員がその場にフリーズした。
(……マジかよ)
魔族たちは少しずつ取っ組み合いをやめ、ローズはエレノアの髪から手を放し、シェイリーは自分を押し潰していた戦士たちの山から這い出し、ケンはついにパチパチとまばたきをした。
しばしの間、完全な静寂がその場を支配した。
俺は再びドカッと椅子に深々と身を沈め、大きく深呼吸をした。
「……よし」
俺はテーブルをぐるりと見渡した。
「……これでまともな話し合いができるな?」
誰も返事をしなかったので、俺はその沈黙を無言の了解と受け取ることにした。
その時、ヘッセンの四騎士が立ち上がった。最初に口を開いたのはルシアン卿だった。数分前の混沌とは程遠い、重々しく恭しいトーンで言葉を紡ぐ。
「吉田卿。我らはヘッセンの近衛騎士にございます。本来であれば、我らの誓いにおいてこのテーブルに座ることすら許されぬ身。しかし、我らは貴方様をお助けするために遣わされ、そして自らの意思で貴方様にお仕えすると決めました」
他の三人の騎士も無言で頷き、ルシアンが言葉を続けた。
「こう見えても我らは長年、先の国王陛下やカサンドラ姫殿下に仕えた大臣たちの身辺警護を務めてまいりました。彼らは、戦争が始まる前のヘッセン王国に最も豊かな繁栄をもたらした立役者たちです。長きにわたる警護の中で、我らは執政、経済、外交、そして統治の知見を深めてまいりました」
彼の言葉に、俺の目はわずかに見開かれた。そこでデルガドが全員の注意を惹くように口を挟んだ。
「経験……それこそが、今我が国に必要なものにございます、陛下」
俺は額にじっとりと冷や汗が伝うのを感じながら、魔神帝国のデルガド王子を見つめた。
まあ、知っている知識がないわけじゃない。日本で学校に通い、歴史も、数学も、科学も……要するに学生が知っておくべき「基本」は一通り習ってきた。
だが、魔族が住まう中世レベルの帝国を治めるとなると、話は根底から変わってくる。
(マジで何から手をつければいいのかさっぱり分からん……)
俺は引きつった笑みを浮かべた。
正式な返答を待つ参加者全員の視線が集中する。ゴクリと生唾を飲み込んだ。
「ははは……」俺の引きつった笑い声が大ホールに響く。「喜んで、お前たちの言葉に耳を傾けよう」
俺がその言葉を発した瞬間、出席者たちの間で税制、食糧生産、貿易ルート、軍事、農業、インフラ整備、そして俺の頭では到底追いきれないような専門用語の議論が激しく交わされ始めた。俺は取れる限りのメモを頭の中に残そうと努め……というか、パニックにならないよう必死に耐えた。
一日の終わりには、完全に魂が抜け落ちていた。
自室に戻った時には、服を脱ぐ気力すら残っていなかった。そのまま巨大なベッドの上に倒れ込み、天井を無言で見つめ続けた。
あまりにも多くの出来事が、短期間に押し寄せすぎた。
ゆっくりと身を起こし、バルコニーへ足を向けた。両開きの扉を開けると、夜の冷たい風が頬を打ち、俺は初めてこの高所から王都の夜景を一望した。
昼間見る魔神帝国は異様で圧倒的な巨大さを誇っていたが、夜の姿はまったく異なっていた。街道は小さな篝火や遠くのランプが点々とともるだけで、市街地からは煙の柱が立ち上り、周囲の巨大な山々が暗い夜空に溶け込んでいた。
広大な街だが、胸が痛むほどに貧しかった。
数週間前に自分が歩いた場所を思い出しながら、手すりに両手をついた。傷んだ家屋、悪路、荒れ果てた畑、満足な食料もない家族、そして裸足で歩く子供たち。
今や、それらすべてが俺の肩に重くのしかかっている。
(……デカすぎるんだよ、この帝国は)
胸の奥に、恐怖とは違う、罪悪感によく似た妙な圧迫感を抱いた。俺はあの街を歩き、あの顔を見たのだ。玉座にふんぞり返って「自分の知ったことではない」と突っぱねることなんて、できるはずがなかった。
「いったいどうやって、これを全部立て直せばいいんだよ……」
壁に背中を預け、頭の中で必死に解決策を模索する。
その時、ふと歴史の授業を思い出した。
(そういや、歴史の授業でやったな……。かつて西洋の強国に比べて孤立し、遅れをとっていた日本が、どうやって近代化を果たしたか……)
熱弁していた教師の顔が浮かぶ。明治維新という大きな変革が、教育、産業、鉄道、近代的な軍隊、そして行政改革を推し進め、国を俺の知る豊かな日本へと変貌させたのだ。
頭の中で、一つのアイデアが急速に形を成し始めていた。最初は小さな閃きに過ぎなかったが、それは瞬く間に激しい熱量を帯びていく。
(待てよ……)
ゆっくりと目を開き、再び眼下に広がる広大な王都を見下ろした。
目の前にあるのは貧しい帝国だ。だが、圧倒的な人口、豊富な自然資源、広大な領土、そして根本からの改革を求める土壌はある。
心臓がドクドクと高鳴り始めた。上手くいくかどうかも、どれだけの時間がかかるかも分からない。だが、この世界に来て初めて、自分自身の手で真の変革を起こせるかもしれないという確信が芽生えていた。
俺の口元に、笑みが浮かんだ。
「日本にできたんだ……」俺は遠くに見える王都の灯りに視線を向け、静かに呟いた。「……俺たちにできない道理はないだろ?」
一つのアイデアが、今まさに産声を上げた。
そして俺自身すら知る由もなかったが、そのアイデアこそが、魔神帝国の命運を根底から塗り替えようとしていたのだった。




