第94話:国なんて納めたくない
【吉田視点】
意識を失った後、最初に感じたのは全身を突き刺すような凄まじい不快感だった。
ゆっくりと瞼を開けると、見覚えのない暗い天井が視界に入ってきた。
「……ここ、どこだ……?」
身体を動かそうとした瞬間、背中に激痛が走る。
「うぐっ……!」
数秒間固まった後、俺は慎重にその巨大なベッドの上で身体を反転させた。大人数人が余裕で雑魚寝できるほどの無駄な広さがある。
なぜかその心地よさが、妙に肌に馴染んだ。まあ……。
「……全身いてぇ」
シーツの海に埋もれながら、深々と溜め息を吐き出した。少なくとも生きている。それだけでも御の字だ。
天井を見つめながら、頭の中でこれまでの出来事を整理し始める。バカみたいに聞こえるだろうが、未だに自分がこの世界で経験してきたすべてを受け止めきれずにいた。だってそうだろ、あまりにも現実味がなさすぎる。
かいつまんでおさらいしてみよう。
俺とローズは事故でこの世界に落ちてきて、それ以来、文字通り右往左往しながら逃げ回る日々を送ってきた。
魔導王どもには命を狙われ。
ローズは処刑されかけ。
流れ着いたヘッセンでは、自分たちとは一切関係のない王位継承のドタバタ劇に巻き込まれ。
その戦争になんとか勝利したと思ったら、今度はローズが拐われ。
挙句の果てに俺は魔王に即位し、彼女を救い出すために乗り込んで……で、今だ。
今、俺は魔神帝国の宮殿内にある馬鹿でかいベッドの上で死んだように横たわっている。
「……」
考えれば考えるほど、ギャグとしか思えない。何もかもが目まぐるしすぎた。
日本で部屋に引きこもり、自分の病気にビクビクしながら絶望していた日常から、ほんの数ヶ月しか経っていないのだ。
それが今や、魔族の軍勢を率い、一国の命運を背負わされ、山ほどの敵から命を狙われている。――絶対、俺が思い描いていた人生の形じゃない。
だけど……もうそんなことをグチグチ考え続けても意味がないのかもしれない。ここまで来てしまった以上、この『魔王』とかいう存在が俺に与えた人生を、ただがむしゃらに生きていくしかないのだから。
「慣れるっきゃねえか……」
ゆっくりと身体を起こした、まさにその瞬間。部屋の扉が重々しく開いた。
「――お目覚めになられましたか、陛下」
扉の向こうから現れたのはデルガドだった。魔族の王子は相変わらずのクソ真面目な表情で入ってくると、背筋をピンと伸ばしたまま俺の前で立ち止まった。
「そんな堅苦しく接するなよ、デルガド」
「そうおっしゃられましても困ります、陛下。貴方様は我らが魔王なのですから」
「……」
この議論で俺が勝てる見込みはない。デルガドは軽く頭を下げた。
「お休みのところ大変恐縮ですが、一緒にお越しいただきたい場所がございます」
俺は眉をひそめた。
「……どこへだ?」
続きを聞く前に、まずはベッドから出ようと脚を動かした。その時、俺はある致命的な事実に気がついた。
(待て、俺……何も着てねえ)
「……」
デルガドは完璧な真顔のまま、俺の前に立ち続けている。
「……」
「……」
「服着てねえってなんで真っ先に教えねえんだよッ!?」
「はい?」
デルガドは一瞬だけ視線を落とした。
「……おや、これは」
「『おや』じゃねえよッ!」
「特に問題ないかと」
「大問題だろどう考えてもッ!?」
デルガドはただ無言で近くの椅子を指さした。その上には、整然と畳まれた一着の衣服が置かれていた。
「以前のお召し物は激しい戦闘で破れておりましたので、陛下の寸法に合わせて仕立て直させました」
俺はその服を手に取った。ブラックの学ランだった。
数秒間、それを見つめる。
「……」
(魔王が日本の学ラン着用……?)
あまりにもシュールな光景に、思わず吹き出しそうになった。
もし日本の同級生どもが今の俺を見たらなんて言うだろうな? 間違いなく「ついに頭がイカれたか」とドン引きされるに違いない。
ほんの数ヶ月前の俺にこの話をしても、絶対に信じなかっただろう。
俺は素早く着替えると、デルガドと共に部屋を出た。
宮殿の廊下は無駄に広大だった。
歩を進めるたび、立ち並ぶ魔族の兵士たちが道を譲り、完璧な敬礼の姿勢をとる。
「――陛下ッ!」
すれ違う者全員が深く頭を下げていく。
相変わらずムズ痒い感覚だ。誰かにこんな風に敬われることなんて慣れていないし、ましてやそれが厳めしい顔をした厳ついモンスターの集団となれば猶更だ。
廊下をしばらく歩いていると、巨大なアーチ状の窓の前に差し掛かった。俺は足を止めた。
「……待て」
デルガドも足を止める。俺は窓の外へ視線を向けた。
景色が、劇的に変貌していた。
かつて魔神帝国を永久に覆っていたはずの、あの絶望的に重苦しい灰色の空は見当たらない。草木一本まともに生えないと言われていた荒涼とした荒野も姿を消していた。
代わりに視界に飛び込んできたのは、地平線の彼方まで見渡す限りに広がる豊かな緑だった。立ち並ぶ樹木、青々とした草原、広大な畑……さらには、王都の幾つかの区画を横切るように清らかな小川すら流れている。
まるで別の国だった。
「……ここで一体何が起きたんだ?」
デルガドが誇らしげに口元を緩めた。
「陛下があの『光の剣』をお抜きになられた瞬間、我が帝国を縛り続けていた古代の呪いが霧散したのです」
俺は完全に思考がフリーズした。
初めてこの地を踏んだ時の光景が脳裏をよぎる。灰色で、貧しく、荒廃しきっていたあの世界。それが今や――。
「俺が……これをやったのか……?」
どう受け止めていいのか分からなかった。半ば事故のような形であの剣を抜き、その真の力すら理解していなかったというのに、俺は一国そのものを書き換えてしまっていたのだ。
歩みを再開する。幾つもの回廊を通り抜け、俺たちはついに巨大な石造りの大扉の前に到着した。
重装甲の魔族兵士二人が、即座に扉を押し開ける。
――ゴオォォォォン……!!
足を踏み入れる。そこは息を呑むほど巨大な大ホールだった。
中央には、作戦会議用としか思えないほど長大な石造りのテーブルが鎮座しており、その周囲にはすでに多くの面々が集まっていた。
ローズ、ケン、シェイリー、エレノア……最後の彼女は相変わらず泥酔しており、テーブルに突っ伏して幸せそうによだれを垂らしながら爆睡していたが。
「むにゃむにゃ……zzz」
「……」
突っ込まないでおこう。
さらには、ライオンハートの戦いには参加せず、怪我の治療のために帝国に残っていたルシアン、オーウェン、ガレス、ハロルドの姿もあった。
彼らの隣には、厳めしい肩書を持っていそうな魔族の将軍たちが居並んでいる。全員の視線が、一斉に俺へと注がれた。
俺は入り口で立ち尽くし、ただただ混乱していた。
「……これ、何の集まりだ?」
デルガドは俺の横を通り抜けると、自分の席へと着いた。
「閣議にございます、陛下」
「閣議……?」
全員が固唾をのんで沈黙を守っている。そこでようやく理解した。どうやらこの集まりは俺のために用意されたもので、しかも到底穏やかな雑談で終わるような雰囲気ではないらしい、と。
「陛下。貴方様は今や、この魔神帝国の頂点に立つ最高指導者であらせられます。故に、これより国を治めていただかねばなりません」
デルガドは反論の余地を与えない圧倒的な真剣さで言い放った。そして椅子を引くと、石造りの長テーブルの最上座を指し示した。
俺はその椅子を数秒間見つめた。
「治める……?」
その言葉が、自分の頭の中で酷く浮いて聞こえた。
意を決して歩み寄り、腰を下ろす。ただの椅子ではなかった。黒い石から削り出され、爪や牙を模した彫刻が施された、まさに『魔王の玉座』と呼ぶにふさわしい代物だ。
本来なら物語の中の悪役が座るような場所に、今の俺が座っている。
「うぐっ……」
困惑を隠しきれなかった。顔を上げ、ゆっくりと大ホールを見渡す。全員が固唾を呑んで俺の動向を見守っていた。
テーブルの反対側に座るローズも、一瞬たりとも俺から目を逸らそうとしない。その表情から感情を読み取ることはできなかったが、その射抜くような強い視線が、俺の緊張をさらに跳ね上げさせた。
ほんの少し前まで、自分がなぜこの世界に召喚されたのかすら分からずに右往左往していただけの男が、今や魔族の将軍どもを前に玉座に腰掛け、一国の統治を期待されているのだ。
一体、俺に何をしろっていうんだ?
「いや、その……」
適切な言葉が見つからず、口をつぐむ。頭の中はパンク寸前だった。
すると、テーブルの一角から爆笑が巻き起こった。
「ヒャハハハハ! バカシダの奴、何をすればいいのかさっぱり分かってない顔してるわ!」
エレノアがワインカップを掲げ、状況の重苦しさなどどこ吹く風で優雅に酒を煽った。
「『今日から全員酒代はタダにする!』って宣言しちゃいなさいよ!」
彼女はまるで国家の重大な戦略でも思いついたかのように言った。
「あるいは民に金目を配りまくるとか! 貧乏人はそれでコロッと喜ぶわよ!」
「まあ、逆に他国を襲撃して街を焼け野原にし、金銀財宝を追いはぎしてくるってのもアリだけどね! ギャハハハハ!」
「……」
俺は無言で彼女を見つめた。
酒に酔っ払っていること以上に、これが彼女なりの『一国の統治論』であることの方が恐ろしかった。
「そんな略奪行為をするつもりはサラサラない」
「ちぇっ、つまんないの」
エレノアは再び酒を飲み始め、俺は深々と溜め息をついた。
彼女を無視しようとした時、おでこに触れる髪の毛が鬱陶しく感じられた。前髪が目にかかっていたので、手で払いのけようとする。
――その瞬間、固まった。
俺の髪……真っ白じゃねえか。
ただの白ではない。光を浴びて妖しく輝く、透き通るような銀髪だ。
「……」
胸の奥がゾワリとした。つい最近まで、俺の髪はどこにでもある黒髪だったはずだ。
ライオンハートでの出来事と、あの聖剣を引き抜いた後に俺の身体に起きた変貌がフラッシュバックする。変わったのは髪だけではない。目にも、決定的な変化が起きていた。
「……確かに、変わってしまったわね、吉田」
シェイリーの声にハッと顔を上げる。エルフの少女がテーブルの横から静かな視線を投げかけていた。
「あなたのその目……ローズと同じ、深紅の血の色になっているわ」
心臓が跳ね上がった。無意識に自分の顔へ手を伸ばす。
俺の、目が……。
あの凄惨な戦いの後に目覚めた瞬間の記憶が蘇る。魔王の力、あの剣、そしてあの奇妙な精神世界で聞こえた謎の声。
点と点が一気に繋がり始めていく。
俺は勢いよく立ち上がった。
「俺の目が……赤くなってる……!?」
ローズは無言で俺を見つめ続けていた。一瞬、彼女が俺ではなく『全く別の誰か』を見ているような錯覚に陥る。
俺は……本当に、まだ『俺』なのか?
自分の両手を見つめ、髪に触れ、最後に視線を落とす。俺が思っている以上に、身体の根本から作り変えられてしまっているのかもしれなかった。
だが……俺はゆっくりと再び腰を下ろした。未だに理解すらできていない現象に対して、ここで取り乱したところで何の意味もない。
溜め込んでいた息を吐き出す。
「……ふぅ」
「……陛下?」
デルガドの声で正気に戻る。
「……あ、なんだ?」
魔族の王子は背筋を正したまま言った。
「滅相もございません。我らには議論すべき重大な課題が山積しております。この帝国を維持し、発展させていかねばなりません」
「あー……」
そうだった。帝国だ。
問題は、俺には国家を維持するノウハウなんてこれっぽっちもないということだ。
俺が返答に窮していると、テーブルの反対側に座っていた巨大な魔族の将軍が、重々しく首を傾げてきた。
体躯が規格外すぎるオーガの男だった。その逞しすぎる肉体は、厚い鎧すら小さく見せるほどだった。彼が魔族の言語で口を開くと、重低音のシビれるような声が大ホール全体に響き渡った。
『――陛下。今後の軍事行動を決定する前に、まずは我が国の優先課題を定義する必要があります……』
俺はその言葉にじっと耳を傾けた。
不思議なことに、以前の俺なら絶対に理解できなかったはずの異世界の言葉が、頭の中でスラスラと意味を結んでいく。
理由は分からない。だが、理解できるのだ。俺の脳が、その言語を自然と吸収し、解読していた。
俺は数秒間沈黙した後、口を開いた。
「……すまん」
全員が息を呑んで静まり返る。オーガの将軍も少し首を傾げた。
『……何か、陛下?』
俺は自分の頬をポリポリと掻いた。
「……そもそも、俺が一体何から手をつければいいのか、最初から噛み砕いて教えてくれないか?」
大ホールは、完全な静寂に包まれた。
エレノアの手から酒杯が止まり、シェイリーはパチパチとまばたきをし、ローズは僅かに目を見開いた。デルガドすらも数秒間金縛りに遭っていた。
そして俺は、自分がこの国の将軍たち全員の前で「俺、国の治め方なんてこれっぽっちも知りませ~ん」と堂々と告白してしまったのだと、ワンテンポ遅れて理解した。
毎日更新を目指して頑張ります、本当に……! たまに更新が滞って(あいて)いたら、「海外の作者だからな」と温かい目で見ていただけると嬉しいです(笑)




