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『二つの世界、一人の魔王』~東京2080からエヴァの大地へ~  作者: 黒猫
第九章:十代目の『魔法の女神』
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第93話:飛翔する帰路

 

【吉田視点】


 ドラゴンが巨大な翼を広げて羽ばたくたび、その狂風が俺たちの周囲を猛烈に巻き上げる。


 空を切って突き進む風が容赦なく体に打ちつける。だが、あのウォーリック王都で味わった絶望と死線を考えれば、この帰路こそが泥のように眠るべき最高の休日であるはずだった。


 俺はドラゴンの背中の前方に腰を下ろし、背後にはローズ、シェイリー、エレノア、そしてケン・アラタカという男が並んで座っていた。


 しばらくの間、誰も口を開こうとはしなかった。ただゴーゴーと吹き荒れる風の音だけが、虚しく耳を叩いていた。


 ――その時だった。


 ガツンッ!


「……てぇっ!?」


「ちょっと吉田ぁ! ローズと話さないわけ!?」


 頭部に重い衝撃が走り、俺は後頭部を押さえながらゆっくりと振り返った。


 そこには、空になった酒瓶を手に持った酔っ払い海賊が、邪悪な笑みを浮かべて立っていた。


(空気読めよこのクソ酔っ払い海賊……)


「痛ってえな! なんで殴るんだよ!」


「だってアンタ、さっきから死体みたいにボサーッと座ってんだもん」


 エレノアは瓶の底で後ろを指さした。


「なんか言うことないわけぇ?」


「……別に」


「一言も?」


(頼むから空気を察してくれ頼むから)


「ちぇっ、つまんないの」


 エレノアは盛大にケラケラと笑うと、どこに隠し持っていたのか、すでに準備されていた新しい酒瓶のフタを口で開けて煽り始めた。


 一方のシェイリーは、ローズと穏やかに言葉を交わしているようだった。だが、ここからでも分かる。ローズの様子は明らかにいつもと違っていた。どこか怯えるように静かで、口数も極端に少ない。


 俺が直接彼女を見つめようとすると、ほんの一瞬だけ、目が合った。


 ――サッ。


 彼女は慌てて視線を逸らし、俺も同じように気まずく顔を背けた。


 ……なんだこの空気。


 ウォーリックでの大惨事を乗り越え、俺たちは無事に一緒に帰れることになったはずだ。ローズは無事で、俺も死なずに済み、なぜかケンまで一緒に連れていくことになった。


 なら、なんでこんな息が詰まるような気まずい緊張感が漂っているんだ?


 ケン・アラタカもまた、何か複雑な思いを抱えているようだった。


 男は真剣な眼差しで、まるで解けない難問でも突きつけられたかのように、何分間も俺のことを凝視していた。


(……なんだよあの男、さっきから何考えてんだ?)


 意識するのをやめた。


 ちょっと風に当たりたかった。


 俺は慎重に立ち上がり、ドラゴンの背中の端へと歩を進めた。即座に強風が全身を襲い、目を細めざるを得なくなったが、視界に広がった光景に一瞬だけ嫌なことを忘れることができた。


 どこまでも続く、地平線の彼方までの群青の海。


 すでに夜は明け、昇り始めた太陽の光が海面をキラキラと黄金色に染め上げていた。雲は巨大な金色の綿あめのように漂っている。あの凄惨な戦いの後に見るこの静寂は、まるで現実感を失わせるほどに美しかった。


 冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。


「ふぅ……」


(癒されるな……)


 久々に心が解き放たれるのを感じた。


 ――まあ、そこで足場を過信したのが運の尽きだったわけだが。


 突如として吹き荒れた突風が、端ギリギリに置いていた俺の足元を直撃した。


「え?」


 体がグラリと傾く。


「待っ――」


 体勢を立て直そうとしたが、重力には勝てなかった。


「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!?」


 次に俺の視界に入ってきたのは、上空数百メートルから海面に向かって真っ逆さまに落ちていく自分の無様な姿だった。


「吉田ぁぁぁぁぁっ!?」


 シェイリーの悲鳴が聞こえた。


「ヒャハハハハハハハハハハハッ!!」


 そして、エレノアの爆笑が響き渡った。


(なんで笑ってんだよこのアマァァァァッ!!)


「エレノアァァァァッ!!」


 背中の荷物が一つ減ったことに気づいたドラゴンが、激怒したように咆哮をあげた。


「グルゥゥゥゥアアアアアアッ!」


 落下しながら、俺は己の愚かさを心の中で呪い倒していた。(ドラゴンから落ちるとかバカなのか俺は!?)


 その時、足首に冷たい感触が巻きついた。


 ガシャンッ!


 鎖――!?


「なっ……!?」


 ジャラッと鎖が限界まで張り詰め、俺の落下が一瞬で強制ストップした。


 ギュンッッ!


 そのまま凄まじい勢いで上空へと引き揚げられる。


「ぶへぇぇぇぇぇぇッ!?」


 数秒後、俺はドサッとドラゴンの背中にジャガイモの袋みたいに叩きつけられた。


 ドスンッ!


「痛ってぇぇぇっ!?」


 強靭な鱗の上に突っ伏し、荒い息を吐く俺。


 エレノアはチェーンを巻き取りながら、腹を抱えて大爆笑していた。


「ギャハハハハ! 見たぁ!? だから端っこに行くなって言ったじゃん!」


「アンタが煽ったからだろッ!!」


 するとエレノアは、意地悪なニヤニヤ顔を浮かべてローズの方を振り返った。


「まあでもぉ、アタシよりもずーっと心配してたヤツがここに一人いたけどねぇ?」


 ローズの体が跳ねるように強張った。


「……な、何よそれ」


「あれぇ? あんたヨシダのこと嫌いなんじゃなかったっけぇ?」


「な、何言ってるのよ急に!?」


 エレノアはニヤニヤをさらに深め、ローズに向かって身を乗り出した。


「顔見せてやりたかったわぁ、吉田。あんたが落ちた瞬間さ、『きゃあああ吉田ぁぁぁっ!』って死にそうな悲鳴あげて、自分も飛び降りようとしたんだから!」


 ローズの顔が、耳の先端まで真っ赤に染まった。


「つ、衝動的に身体が動いただけよ! そんなんじゃないわ!」


「嘘つけぇ~!」


「飛び降りようとなんてしてない!」


「目が飛び出そうな顔してたくせに~!」


「エレノアッ!!」


「ギャハハハハハ!」


 俺は目の前で繰り広げられる地獄絵図に呆気にとられていた。ローズは今にも爆発しそうなほど真っ赤になっている。


(あ、これマズい奴だ……)


「それにさぁ」エレノアは追い打ちをかけるようにニヤつきを深めた。「あんたがホントに死んだと思ったらしくて、あの顔――」


 ブワッ!


 ローズの放った拳が、エレノアの鼻先をかすめた。


「黙りなさいッ!!」


「あぁん!? やんのかコラッ!?」


「マジで黙らないなら、ぶっ殺すわよ!」


 エレノアは手にしていた酒瓶をサッと横に置いた。


「上等だゴルァ!」


 ――そして、大惨事が幕を開けた。


「喰らいなさいッ!」


 ドカッ!


「痛っ!? このクソガキがぁ!」


「誰がクソガキよッ!」


 ローズがエレノアに飛びかかり、二人は互いの髪の毛を掴み合いながらドラゴンの背中でドタバタと取っ組み合いを始めた。


「放しなさいよ!」


「あんたが先放しなさいよ!」


「痛い! 髪引っ張んじゃないわよ!」


「あんたが先に引っ張ったんでしょうが!」


「嘘おっしゃい!」


 もはや二人の格調高い騎士や海賊の誇りなど欠片もなく、完全に路地裏の泥沼喧嘩と化していた。


 見かねたシェイリーが割って入ろうとする。


「ちょっと二人ともやめなさい! 落ち着いて!」


「こいつが突っかかってくんのが悪いんでしょうが!」


「アンタが余計なこと言ったからでしょ!」


「どっちが先とかどうでもいいから! ドラゴンの上で喧嘩するのはやめ――」


 一瞬、シェイリーが二人を止めるかのように見えた。


 ……甘かった。


 エレノアがローズの拳を間一髪で回避した瞬間、体勢を崩したローズの手が、巻き込まれる形でシェイリーの顔面を捉えた。


 バコンッ!


「ぶふっ!?」


「あ、ごめシェイリー!」


「なっ……なんで私を殴るのよぉぉぉッ!?」


 惨状は混沌の渦へと飲み込まれていった。


 数メートル後ろで座っていたケン・アラタカは、一言も発することなく「助けてくれ」と全霊で訴えかけるような目でこちらを見ていた。


 俺とケンは視線を交わす。


(……どうする?)と彼の目が問う。


 ため息をつく俺。(知るかよ……)


 それでも俺は意を決して、おそるおそる三人の女たちの乱闘へと近づいた。


「おいおい、いい加減にしろって。俺たちドラゴンの上にいるんだぞ? 少しはまともな人間らしく――」


「黙っててヨシダッ!!」


「引っ込んでな!」


「あんたには関係ないでしょッ!」


「あ、はい」


 俺は静かに後退した。(絶対手を出したらダメな奴だこれ)


 だが運悪く、ローズが放ったエレノアへの大振りのストレートが空を切り、そのまま俺の顔面へとジャストフィットした。


 ドゴォッッ!!


「……」


 俺の体は吹っ飛び、ドラゴンの背中の上をゴロゴロと数メートル転がった。


「吉田ぁぁぁぁっ!?」


「ぎゃははは! なんでアタシが怒られてんだよ!?」と爆笑しながらエレノアが叫ぶ。


 俺は仰向けのまま、虚無の目で空を見上げた。(意味が分からん……)


 見かねたケンが、ついに動き出した。立ち上がり、シェイリーを乱闘から引き剥がそうと後ろから抱きかかえようとした――のだが。


 彼は人生最大のミスを犯した。


 彼の手が、誤ってエルフの豊満な胸を鷲掴みにしたのだ。


 ……時が止まった。


 ケンは完全にフリーズし、シェイリーも動かない。俺も息を呑んだ。エレノアの爆笑が止まり、ローズも目を見開いてその光景に固まっていた。


 ケンはゴクリと唾を呑み込んだ。


「あ……いや……これは――」


 ドゴォッ!!


 シェイリーの音すら置き去りにするような極悪な前蹴りが、ケンの股間へ一直線に突き刺さった。


 ケンの顔からすべての表情が消え去った。


「……」


 彼の体が、スローモーションのように折れ曲がる。


「……な……」


 膝から崩れ落ちる。


「……ご……ふっ……」


 そして、そのまま突っ伏した。


(……南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。)


 女たちの死闘はさらに数分間続き、最終的に全員が息を切らして体力を使い果たした。


 どうやって収拾がついたのかは分からないが、俺がようやく身体を起こした時には、静寂が戻っていた。


 安堵の息をつく。(助かった……)


 その時、小さな声が聞こえた。


「……吉田」


 顔を上げると、目の前にローズが立っていた。その瞳には、今にも溢れ出しそうな涙が溜まっている。


「え……?」


 問いかける暇すらなかった。


 ドカッ!


 彼女の拳が、容赦なく俺の顔面を打ち抜いた。


「ぶへっ!? ローズ!?」


 ドガッ!


「待てって!」


 バコンッ! ドカッ! ガンッ!


 一撃では終わらなかった。雨のような拳が俺に降り注ぐ。理由なんてさっぱり分からなかった。


「なんで俺を殴るんだよ!?」


 ローズは答えない。


 ただ溢れ出る涙をボロボロと零し、それが俺の顔にぽたぽたと落ちるのも構わず、必死に拳を振るい続けた。


 ドカッ!


「おい……ッ!」


 バコンッ!


「ローズ……ッ!」


 横で見物していたエレノアが、再びお腹を抱えて笑い始めた。


「ギャハハハハハハハハッ!」


 シェイリーは心配そうに目を見開いている。


「ちょっと、ローズ……」


 ケンは未だに地面に突っ伏したまま、虫の息でピクピクと痙攣していた。俺は俺で、もはやどう反撃していいかも分からなかった。


 ローズはついに俺を押し倒すと、馬乗りになって両肩を強く掴みつけた。


「待ってくれローズ!」


「あんたは……ッ!」彼女の声が震えていた。「あんたは本当のバカよッ!」


「は……?」


「私がどんな思いで……どんなに心配したか分かっているの!?」


 ――その瞬間、理解した。


 この沈黙の旅路の間中……彼女はずっと、俺のことを心配してくれていたのだ。


 急激な罪悪感が胸を締め付けた。


「……悪かった」


 ローズの表情が一瞬だけ揺らいだ。――が、これで落ち着いてくれたと思うほど、俺は甘くなかった。


「『悪かった』で済むわけないでしょぉぉぉぉッ!!」


 ドガァァッ!!


「ぐあぁぁぁぁぁぁっ!?」


 追撃の一撃は、さっきのパンチとは比べものにならない威力だった。(なんで謝ったら悪化したんだよ!?)


 バコンッ! ドカッ! ガンッ!


 視界が急速に闇に包まれていく。


 意識が遠のく中で最後に聞こえたのは、エレノアの高笑いと、シェイリーの焦った叫び声、そして未だに股間を押さえて悶絶する哀れなケンのうめき声だった。


 ローズは涙を俺の顔に降らせながら、なおも俺の胸をポコポコと叩き続けていた。


 なんとか意識を保とうとしたが、限界だった。


(まあ……ローズが無事なら、それでいいか……)


 そんな諦めにも似た思いと共に、俺の意識は深海のような暗闇へと深く、深く落ちていった。


 視界が完全にブラックアウトする。

更新を再開します! なんとかこの物語を最後まで書ききれるよう頑張ります(笑)

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