第92話:魔神帝国への帰還
仕事と勉強の都合で毎日の更新が難しくなったため、しばらくの間お休みをいただきます。またしっかり執筆に専念できるようになりましたら更新を再開します (;_;)
【吉田視点】
ついに俺たちは、ライオンハートの王都を後にした。
あの広場での大惨事、そして息もできないほどの絶望的な緊張感を潜り抜け、俺はローズ、エレノア、シェイリー、そしてケンという男と共に街の外へと護送された。
特にケンという男のことはよく知らなかったが、確かローズの知人であり、元々は敵として立ちふさがったものの、今や俺たちと同じ『追放者』となった男だ。
俺たちが歩を進める中。
代表騎士の群れが武器の柄に手をかけたまま両脇を固め、そして最悪なことに、レヴ・ヴァレリウスまでもが俺たちに同行していた。
まあ、俺を完膚なきまでに叩きのめした張本人だ。床を磨く雑巾みたいに俺を痛めつけた男の監視下に魔王を置くのが一番安全だと、誰かが考えたのだろう。
だが妙なことに、あの塔での会話を終えてからというもの、あのクソ野郎はどこか穏やかになったように見えた。
相変わらず血が凍りつくような威圧感は放っていたが、少なくとも、まばたきをするたびに破滅の魔法で俺の胸をぶち抜こうとするような気配は消えていた。
……対話に意味があったのか。
それとも、ただ俺を殺すための格好の言い訳を待っているだけなのか。
レヴという男の真意は、誰にも分からない。
王都の郊外に辿り着いた俺は、ようやく俺たちの規格外な移動手段を目にすることになった。
巨躯を横たえる三つの頭を持つ大竜。数時間前に自分が巻き起こした滅びの大混乱など露知らずと言わんばかりに、広大な平原の真ん中で羽を休めていた。
三つの首は草原に投げ出され、巨大な翼は背中に折りたたまれている。重々しく、緩やかな呼吸を繰り返すたびに、足元の大地が微かに震えていた。
「……こいつも、寝るんだな」
俺はその姿を見つめたまま、金縛りに遭ったように立ち尽くした。
俺はこの伝説の野獣がライオンハートの空を翼の影で覆い尽くし、街一つを数秒で灰燼に帰す灼熱の炎を吐き出すのを目撃している。
だが今この瞬間、こいつは激動の一日を終えて休息を取る、ただの眠れる巨神にしか見えなかった。
なぜこいつが俺に対してこれほど従順で大人しいのか、未だにさっぱり分からない。
俺はこの規模の化け物の忠誠を得るようなことなんて、何一つやっていないのだ。
この獣はデルガドを別の大陸に残し、ただ俺を探すためだけに空を翔けて戻ってきた。このレベルの生物とどうやってそんな精神的絆を結んだのかすら見当もつかない。
いつか、その答えが分かる日が来るのだろうか。
俺たちは、鱗に覆われた巨人の前に集まった。
シェイリーは重い沈黙を守り、顔色は未だに蒼白で、全身には痛々しい傷跡が刻まれていた。一方のエレノアは、王都を滅ぼしかけた大戦の直後とは思えないほど、酒場から出てきたばかりのような呆れるほどの余裕をかましていた。
ローズは、みんなから少し離れた場所にぽつんと立っている。
そして俺たちの隣には、ケン・アラタカ。
彼は今や正式な裏切り者であり、ウォーリック王国からの追放者だった。
彼がここにいるという事実が、未だに現実味を帯びない。
ほんの数時間前までは、あの国で最も尊敬されるエリート騎士の一人だったのだ。それを、ただ俺たちの側に立つと決めただけで、すべてをドブに捨てた。
心から感謝すべきなのか、それとも頭のネジが飛んだのか尋ねるべきなのか、俺には分からなかった。
その時、背後から空気を破る声が届いた。
「……あの」
全員が一斉に振り返る。
ナターシャだった。
魔法の女神。
彼女は数メートル離れた場所に立ち、適切な言葉を探すように自分の指先をいじくり回しながら、妙に気まずそうな雰囲気を醸し出していた。
「タイミングが悪いのは分かっているけれど……」
その声は途切れ途切れで、どこか恥ずかしそうですらあった。
俺は開いた口が塞がらなかった。
レヴ・ヴァレリウスの必殺の一撃を片手で、まばたき一つせずに受け止めた怪物じみた瞬間を目撃した後だけに、その同じ存在が俺たちと話すのに緊張しているだなんて、頭の処理が追いつかない。
俺たちは警戒しながら歩み寄った。
ナターシャは深呼吸をし、冷静さを取り戻そうとした。
「自分たちの力で生き残ったと思っているかもしれないけれど、魔王」
彼女は少し言葉を切り、その瞳を俺の目に真っ直ぐ刺し込んできた。
「本当はね……私があなたたちの命を救ったのよ」
「……は?」
バカみたいな顔で、間抜けた声を漏らすことしかできなかった。
ナターシャは、裏で動いていた糸について説明し始めた。
話によれば、ライノエル・ゼドリエルから緊急の救援要請の手紙が届いたのだという。それを受け取ったナターシャは、化物同士の衝突が悲惨な流血沙汰で終わることを察し、全速力でライオンハートへ飛んできたのだそうだ。
彼女が『魔法の女神』の称号を継承してから、まだそれほど時間が経っていないらしい。
太古から続く掟も知らず、諸国間に張り巡らされた腐敗した政治の網目も理解していなかった。
正直、その話を聞いて多くの疑問が氷解した。
彼女が喋っている間、俺は思わず彼女の姿に見入ってしまった。
言葉を失うほど美しかった。
艶やかな黒髪、吸い込まれそうな瞳の深み、そして繊細な目鼻立ち。そのどれもが、恐ろしいほどに聞き覚えと見覚えのある面影を残していた。それに、彼女の存在感には、日本のトップアイドルでも気圧されるような、独特の雰囲気を纏っていた。
極めて濃い東洋の面影を残しているからかもしれない。
だが、それ以上深く考えるのはやめた。
俺の脳みそは、なだれ込んでくる情報の処理だけで限界を迎えていた。
しかし次の瞬間、ナターシャが口にした一言が俺の血を凍りつかせ、現実に引き戻した。
「ところであなたたち、聖遺物(神器)の使い方をもっと訓練した方がいいわね」
全員が凍りつき、一言も発することができなくなった。
ナターシャは過剰なまでの真面目さで俺たちを見つめた。
「上空から見ていたけれど……雑魚の集団にボコボコにされて惨殺されかけていたじゃない」
……。
……おい待て。この子、今その天使みたいな顔と声で、俺たちのこと面と向かって雑魚扱いしたか?
「……地味に刺さるな……」
自尊心にダイレクトアタックを受け、俺は掠れた声で呟いた。
エレノアは我慢できずに爆笑した。
シェイリーは唇を噛み締め、気まずそうに視線の先を逸らす。
ケンはただ真剣な表情を崩さず、その事実を受け止めていた。
当のナターシャは、己の発言が俺たちのメンタルにどれほどの壊滅的ダメージを与えたかも理解せず、無垢にパチパチとまばたきをしていた。
「まあいいわ。私はこれからある人物たちと会わなければならないし、魔導王たちも準備が必要なの。だから、気を抜かないことね」
ケンが警戒を強め、眉をひそめた。
「準備……だと? 何の準備だ」
ナターシャは氷のように冷ややかな視線で彼を数秒間見つめた。
「そのうち分かるわ」
不吉すぎる返答に、嫌な後味が胸に残った。
ほんの数時間前までは、生きて帰れぬ捨て身の自殺志願だと思われた状況だったのだ。
ローズは生きている。
ライオンハートという地獄から生きて死線を越えた。
人間に壮大なブラフをかまして、一時停戦の交渉を取り付けた。
そして天の戯れか、あの圧倒的な破壊力を誇る魔導王たちが俺たちを見逃すことに同意したのだ。
だが、暗い直感が告げていた。この平和は、暴風雨の前に訪れるかりそめの静けさに過ぎないと。
まるで、もっと巨大で凶悪な影が、この世界を覆い尽くそうとしているかのように。
その時、ナターシャがゆっくりと俺の方へ顔を向けた。
「加藤吉田」
「……え?」
彼女の唇が、小さく温かな笑みを象った。
「お会いできて、光栄です」
次の瞬間、彼女は上体を完璧な角度で前へと傾けた。
一分の隙もない、綺麗な「お辞儀」だった。
俺は完全にフリーズし、胸の中で心臓が跳ね上がった。
日本の伝統的でありふれた、一目でそれと分かる挨拶。
衝撃のあまり、俺の目は見開かれた。
他の連中は、その見知らぬ仕草の意味が分からず、首を傾げることしかできない。
「……あ、どうも」
母国語で、反射的に喉から言葉が漏れ出た。
なぜ自分の意識がそう反応したのかすら分からなかった。
ナターシャはどこか懐かしそうな瞳で、再び微笑んだ。
なぜだか分からないが、その短いやり取りは俺の頭の中に疑問の渦を巻き起こした。
この少女は、一体何者で、どこから来たんだ?
だが、思考を巡らせる時間は残されていなかった。
大竜が目を覚まし始めると、大地が激しく揺れ動いた。
三つの巨大な頭部が夜空へと持ち上がり、裂けた瞳が開いて暗闇の中で怪しく光を放つ。
「……くそっ」
――グオオオオオオオオッ!!
腹に響く咆哮が平原全体に轟き、足元の大地がきしみ声を上げた。
俺たちは慌ててその鱗をよじ登り、背中に取り付けられた補強木製の鞍へと乗り込んだ。
『このドラゴン、大勢がいると気が短くなるくせに、俺とデルガドにだけは異様なほど大人しいんだよな……』
それは大陸間の飛行に耐えうる頑丈な構造物だったが、標高数千メートルの上空でシートが壊れ、虚無へと真っ逆さまに落ちていく感覚など誰も味わいたくはない。
俺は全力で取っ手を掴んだ。
ローズは俺からほんの数メートル離れた席に座っている。
だが、俺は何も言わなかった。
近寄ることもしなかった。
潜り抜けてきた地獄と、お互いが抱える心の傷を思えば、言葉が喉に引っかかって出てこなかったのだ。
なんて声をかければいいのか分からない。
どんな顔をして彼女の目を見ればいいのかすら、分からなかった。
だから俺はただ沈黙を守り、風に想いを委ねることにした。
全員の固定が完了した時、俺は置き去りにしていく壮大な王都へ最後に視線を向けた。
遠く地平線の彼方に、ウォーリックの騎士たちのシルエットが浮かび上がっていた。
その隣には、彫像のように佇む数人の代表騎士、そしてレヴ・ヴァレリウス本人の姿があった。
全員が、読み取れない複雑な表情で俺たちの旅立ちを見つめている。
ナターシャには乗り物など必要なかった。彼女の身体は人知を超えた優雅さで浮遊し始め、夜空の彼方へと真っ直ぐ昇っていく。
彼女の姿は、満月の圧倒的な輝きの真下でぴたりと止まった。
夜の銀色の光が、彼女のシルエットを神聖で眩いオーラで包み込む。痛々しいほどの数秒間、彼女はまるで世界の運命を見守る太古の真の女神のように見えた。
荘厳で、恐ろしいほどに美しい光景だった。
俺は強く目を閉じ、肺の空気をすべて吐き出した。
「……よし。行くか」
これから先にどんな恐怖や試練が待ち受けているのか、見当もつかない。
だが、少なくとも俺たちは息をしている。不可能な生存を成し遂げたのだ。
巨大な竜が、金属音のような羽ばたきと共に翼を広げた。
――バサァァァァァァッ!!
猛烈な暴風が平原を吹き荒れ、草を押し潰し、凄まじい土煙を巻き上げる。
三つの頭が一斉に天地を揺らす大咆哮を上げ、巨躯が雲の彼方へと躍り出た。
「しっかり掴まってろよッ!」
足下に広がる世界が、目まぐるしい速度で小さくなっていく。
ライオンハートの巨大な王都は遠くの光の点へと縮小し、上空の凍てつく風が、容赦なく俺たちの顔を打ち据える。
ついに……ついに帰るのだ。
俺たちの最終目的地は、魔神帝国。
目の前に無限に広がる夜空の深淵を眺めながら、俺の唇には小さく、疲れ切った笑みが浮かんでいた。
悪夢を駆け抜け、ボコボコにされ、幾度となく死の淵をなぞった後だ……。
今夜くらいは、これを完全なる勝利と呼ぶ権利が俺たちにあってもいいはずだ。
……少なくとも、報われない俺の心が、そう信じたがっていた。




