第90話:魔王の最後通牒
【吉田視点】
状況はもはや、誰が誰と戦っているのかすら分からない混沌へと陥っていた。
魔導王たちは武器を構えたまま、騎士たちは俺たちを完全に包囲し、代表騎士たちの視線が片時も離れない。
そんな狂乱を前にしても、ナターシャ・ザリアだけは理解しがたい冷静さでその光景を見つめ続けていた。
突如、群衆をかき分けるような怒号と人波の騒がしさが響き渡る。
「道をあけろ! 早く!」
兵士たちが即座に左右へ退くと、複数の代表騎士に護衛された女王カミーユが広場へと姿を現した。最初は完璧な威厳を保ち歩んでいた彼女だったが、自身の王都の中心部で繰り広げられている異常事態を目にした瞬間、その表情が完全に崩れ去った。
正直、その気持ちは痛いほど分かった。
今この瞬間、彼女の王都はいつ爆発してもおかしくない極限状態の爆弾と化している。世界最高峰の存在たちが一堂に会しているのだ。五人の魔導王、魔王、聖者たち、魔神を自称する者、魔王軍の幹部、代表騎士、そして大罪人アレッシオ・ゼドリエル。
カミーユは信じられないといった様子で、絶望的に周囲を見回した。
「一体……ここで何が起きているというのです……!?」
誰も答えない。俺自身、彼女に返せる言葉など一つとして持っていなかった。
全身の骨が軋むように痛み、意識を保つのすら限界だった。だが、この惨状を目にして、俺は悟った。試みるなら、今以上のタイミングはないのだと。
たとえこれが最後になったとしても、俺は何かをなさねばならない。
瓦礫が散乱する地面に掌を押し当て、必死に身を起こそうとする。
「くっ……!」
疲労で腕が激しく震え、全身が悲鳴を上げた。それでも泥臭く膝をつき、途方もなく長い数秒を経て、俺は両足で立った。
その瞬間、何百もの視線が一斉に俺へと突き刺さる。
きっと奴らにとっての俺は、物語に語られる通りの存在なのだろう。街を破壊する怪物、忌むべき存在、そして血塗られた魔王。
だが、もはや奴らがどう思おうと知ったことか。ここにはまだ、俺を必要としてくれる奴がいるのだから。
かすれる声を必死に整え、広場全体に届くよう息を吸い込んだ。
「惨状については……本当に申し訳ないと思っている。だが、俺の言葉を聞いてほしい」
広場が静寂に包まれた。魔導王たちの激論すらぴたりと止まる。俺は全員の顔を見回してから、言葉を続けた。
「俺はもう、戦いたくない」
その時、上空を巨大な三頭のドラゴンが再び通過した。三つの首が空を旋回しながら放った凄まじい咆哮が、王都の建造物を激しく揺らす。
俺は唾を飲み込み、胸の中にある唯一の望みを吐き出した。
「戦争を望んでここへ来たわけじゃない。俺が求めるのは、たった一つだけだ」
視線を横へ向けた。そこには傷つきながらも、両手で黒剣を構え続けるローズの姿があった。
「俺の仲間を……連れて帰らせてくれ」
全員の視線が一斉にローズへと向けられる。一瞬の静寂ののち、代表騎士の一人が沈黙を破り怒号を上げた。
「ふざけるな、クソ野郎がッ!」
「奴は魔王だぞ! タダで逃がすわけがないだろうが!」
兵士たちからも即座に怒声が上がる。
魔導王たちは再び息の詰まるような殺気を膨らませたが、すぐには襲いかかってこなかった。
一方、女王カミーユは恐怖と怒り、そして重責の混ざり合った複雑な視線で俺をじっと見つめていた。
「貴方は魔王……この世界が直面する最大の脅威です」
カミーユの声が凛と広場に響き渡る。
「貴方をここから生きて帰すわけにはいきません」
場の空気があからさまに重くなった。
カミーユは周囲を見渡し、初めて真の危機に気づいたようだった。これほどの化け物どもが自分の街の中に立っているのだ。もし誰か一人でも本気で暴れだせば、ものの数秒で王都全体が灰燼に帰す。
「完全に手詰まりですね……」
女王は冷静さを保とうと深くため息をついた。
「魔王、五人の魔導王、聖者たち、『魔法の女神』を自称する者、大罪人アレッシオ・ゼドリエル、そして魔王軍の幹部……。全員が我が王都で惨状を引き起こし、そして魔王、貴方は我が国を直接攻撃した」
若き女魔導王の一人が、憤慨したように眉をひそめた。
「私たちは支援のためにここにいるのです!」
「分かっています」
カミーユは破壊された街並みを横目で見やりながら、冷たく遮った。
「幸いにも被害は中央部に留まり、民間人の死者は出ていません。ですが、我が国の勇敢な兵士たちが何人も命を落としました」
彼女は再び俺へと向き直り、その鋭い視線を突き刺した。
「答えなさい、魔王……貴方とローズのような二頭の化け物を、どうして許せというのですか?」
その忌々しい言葉が、再び俺の心を深くえぐった。
――化け物。
奥歯を噛み締め、湧き上がる憤怒を必死に抑え込む。
「俺はローズを連れ戻したいだけだ。お前たちを傷つけるつもりはない。彼女を引き渡してくれるなら、俺たちは立ち去る。それで全て終わりだ」
「愚かな屑めが……」
レヴ・ヴァレリウスの氷のように冷たい声が割って入った。
老剣士は緩やかな足取りで俺に向かって歩み始める。
カミーユがその名を叫んで制止しようとしたが、レヴは完全に無視し、次の瞬間には俺の視界から消え去っていた。
――ドゴォンッ!!
何の前触れもなく、奴は俺の目の前に現れていた。突き出された手、その指先は俺の胸元を正確に穿とうとしている。反応する猶予などコンマ一秒すら存在しなかった。
だが、俺の心臓が貫かれる直前――
――ガキィィィンッ!!
何かが奴の腕を完璧に受け止めた。
あり得ない速度で割り込んできた人影――ナターシャだ。
彼女はレヴの手が俺に触れる寸前、その腕を片手でしっかりと捕捉していた。
衝撃の余波が凄まじい風と砂塵を巻き上げ広場を覆い尽くしたが、二人の身体は一ミリたりとも動かない。
レヴは歯を剥き出し、足元の石畳を砕くほどの凄まじい力を込めたが、ナターシャは微動だにしなかった。世界最強と謳われる魔導王の攻撃を、髪一筋乱さず、冷徹な表情のまま完璧に殺してみせたのだ。
「なっ……なんだと……!?」
代表騎士の一人が、完全に言葉を失って呟く。
誰もが自分の目を疑った。あの老人がどれほどの脅威か見てきた俺自身、目の前の少女がまるで赤子の手をひねるかのようにそれを止めたことに戦慄していた。
「そこまでです」
カミーユの威厳に満ちた声が響き、レヴとナターシャは互いに距離を取った。女王は一歩前へ踏み出し、己の領域を主張する。
「私はこの国の統治者です。そして私の決断こそが、この広場で示される最後の意志となります」
そして彼女は俺へと振り返った。そこにはもはや恐怖の欠片もなく、純粋な決意だけが宿っていた。
「魔王。もし私がロゼット・ベイカーの引き渡しを断固として拒否した場合……貴方はどうするつもりですか?」
その瞬間、自分の頭の中で何が弾けたのかは分からない。
蓄積した疲労か、積み重なった怒りか、あるいは大切な者を再び失うことへの恐怖だったのか。思考を制する前に、言葉が口をついて出ていた。
「もし……拒むというのなら」
自分の声が、より暗く、重く変貌していくのを感じた。
「全軍を率いて、ワーウィック北部へ侵攻する」
広場が凍りつくような静寂に包まれた。俺はありったけの力を込めて拳を握り締め、女王カミーユを真っ直ぐに見据えて言い放った。
「たとえこの身が果てようとも……お前の国を完全に焦土へと変えてやる」




