第89話 『最強』……現る!
この小説を書くと不安がやわらぐんだよね、ハハハ!
【吉田視点】
俺は胃の底から込み上げる苦い血を吐き捨て、地面に倒れ伏すまいと必死で踏みとどまっていた。
全身が重い。まるで山一つ分の大地が背中にのしかかっているかのようだ。
そして俺の周囲でも、全く同じ光景が広がっていた。重厚な鎧を纏う騎士も、鍛え抜かれた精鋭兵も、果ては化け物じみた代表騎士たちでさえ、等しく膝をつかされ、その圧迫感の前に押し潰されている。
その時、広場の中央で乾いた衝撃音が響き渡った。
――タッ!
立ち上る猛烈な砂塵が、その人物の姿を数秒間覆い隠す。
砂煙などどうでもよかった。俺を恐怖させたのは、留まることを知らず膨れ上がり続けるその威圧感だ。
必死の思いで周囲を見回した俺は、正気を疑うような光景を目にした。
倒れ伏す無数の人間の中で、たった二人だけが平然と佇んでいたのだ。
一人は短く揃えた白髪に紅い瞳を持つ男、ジェイソン・ベイカー。
もう一人は、仮面で素顔を隠した仕立ての良い服の男――『軍神』。
それまで俺は、五人の魔導王など不敵無敗の化け物だと思っていた。だが彼らの顔に浮かんでいたのは、出会って以来見たこともない感情だった。
――恐怖。
彼らでさえ、一体何が起きているのか理解できていないのだ。
ゆっくりと砂塵が収まっていく。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
想像していたよりもずっと背が高い。短く切り揃えられた黒髪に、鋭い眼光、そして引き締まったしなやかな肢体。
だが何より俺の思考をフリーズさせたのは、彼女の服装だった。この世界の代物では断じてない。
どこか既視感のあるその装いは、東京にいた頃、写真や動画で目にした人々の姿を即座に連想させた。彼女の顔立ちにも、単なる偶然とは言い切れない異質な親近感が漂っている。
――東洋人の少女。
その瞬間、俺の頭の中は真っ白になった。何も考えられない。ただ呆然と、愚か者のように彼女を見つめることしかできなかった。
「……何者だ、お前は」
静寂を破り、レヴ・ヴァレリウスが問うた。
老魔導王はゆっくりと立ち上がり、荒れ狂うような魔力を解き放った。広場を覆う威圧と少女の発する圧力が衝突し、あたかも目に見えない巨大な壁同士が激突し合っているかのようだ。
少女はゆっくりと視線を巡らせた。冷徹に射殺すようなその視線に、一瞬「ここにいる全員が殺される」と戦慄が走る。
だが――彼女の視線が俺と交差した。
一瞬にして、空気が変貌する。
少女はその場に凍りついた。
まるで信じられないものを見たかのように、その目を極限まで見開く。
俺にも何が起きているのかさっぱり分からなかった。
「え……?」
呟くのが精一杯だった。
少女が隙を見せた、あるいは攻撃の予兆だと判断したレヴ・ヴァレリウスは、表情を険しく歪めて凄まじい速度で剣を引き抜いた。
――ジャキッ!
しかし、彼が腕を振るうことすら叶わなかった。
老剣士の握る刃の真ん中から、突如として亀裂が走る。
――パリィンッ!!
一秒にも満たない刹那、刃全体が千々の金属片となって弾け飛び、空中に散らばった。
――ガキンッ! チリンッ!
全員が絶句した。打撃の瞬間すら見えず、何が起きたのか誰一人として理解できない。
レヴは手元に残された虚無の柄を、信じられないという顔で見つめていた。
「なに……?」
だが少女は老魔導王に一瞥すらくれず、ただ驚愕と混乱が入り交じる複雑な視線を俺に向け続けていた。
「なんなの、これは……?」
彼女は呟き、そして後ろに控える仮面の男へと振り返った。
「大叔父様……これはどういう意味?」
広場が完全なる静寂に包まれる。俺には何一つ理解できなかった。
軍神は重々しいため息を吐き出した。
「相変わらず間が悪い娘だ」
「貴様ぁッ!」
怒号を上げるレヴ・ヴァレリウス。
仮面の男は平然と手を挙げ、彼を制した。
「静まりなさい、魔導王たちよ。まさか事態がここまでこじれるとは予期していなかったのだ」
その男はまるで全てを掌握しているかのように、この異常事態すら日常の一コマであるかのように淡々と語る。
「ここにいる若き女性の名は、ナターシャ・ザリア」
俺の心臓がドクンと跳ね上がった。脳裏を伝承の知識が駆け巡る。
――ザリア?
その名は何度も耳にしたことがあった。この世界で最も古くから語り継がれる一族の伝承。普通の人間では爪の垢ほども及ばない神々や化け物相手に、素手で渡り合ったという伝説の系譜。
だが、その一族は疾うの昔に絶滅したはずだった。
「ザリアだと……?」
レヴ・ヴァレリウスの声から傲慢さが消えていた。そこにあるのは、驚愕と強い警戒心だ。
軍神は何事もなかったかのように言葉を継ぐ。
「左様。彼女こそが、ザリア王朝の正統なる最後の末裔だ」
二秒間の沈黙。そして次の瞬間、広場が爆発した。
五人の魔導王が一斉に戦慄の表情を浮かべる。彼らは武器の柄に手をかけ、一気に引き抜いた。
――ジャキィンッ!
周囲の空気は再び絶望的な殺意で満たされる。騎士たちは恐怖で後退し、代表騎士たちですら緊張に顔を強張らせて互いを見合わせている。
対する少女は、意にも介さず短く切った髪を軽く整えると、心底退屈そうな顔で彼らを見下ろした。
「私の名はナターシャ・ザリア」
髪一本乱さぬまま、彼女は毅然とした声で言い放った。
「そして――十代目の『魔法の女神』よ」
……
は?
思考が完全に停止した。
魔法の女神……? 十代目……?
おい待て、冗談だろ。魔法の女神と言えば、この星において決して手が届かない最高峰の存在のはずだ。
一体全体、どうなってやがる?
この世界に来てから、その称号の凄まじさは何度も耳にしてきた。ロゼからだって聞かされたことがある。
だが、それが今、目の前に立っているなんて――頭が追いつかない。
「戯言を……!」
魔導王の一人が一歩前へ踏み出した。
「ショーン・エヴァンスはどうした!?」
「我らが認める魔導神は彼ただ一人だ!」
別の魔導王も剣を掲げて同調する。
「貴様など認めん!」
瞬く間に怒号が飛び交い始める。
「ザリア王朝は滅び去ったはずだ!」
「十代目の魔法の女神など存在するはずがない!」
「ふざけた真似を!」
俺はただ呆然と、その光景を眺めることしかできなかった。
本当に、何がどうなっているんだ?
その時、足音が聞こえた。最初は遠く、だが急速に接近してくる。
――タッ、タッ、タッ!
壊滅した街の隙間から一群の者たちが駆け付け、広場へと雪崩れ込んできた。
ヘッセンの救援騎士たち――七人の代表騎士だ。
「な……」
俺はかすれた声を漏らした。
ロゼが素早く振り返り、エレノアもシェイリーも俺と同じように困惑の表情を浮かべている。誰も状況を把握できていない。
レヴ・ヴァレリウスは深く息を吐き、平静を取り戻そうと努めていた。ジェイソン・ベイカーがその隣に並び立ち、険しい視線をナターシャへと注ぐ。
そして、この混乱の中に新たな声が割り込んだ。
「もうよいでしょう、ドッツの魔導王よ」
全員の視線が集まる。
戦火の痕が色濃く残る鎧を纏い、巨大な鉄槌を肩に担いだ男が、悠然と中央へ歩み寄ってきた。
アレッシオ・ゼドリエル。
男は不敵な笑みを浮かべ、周囲を見回した。
「一体全体、ここで何の騒ぎですかな?」
「それはこちらの台詞だ」
レヴが目を細めて吐き捨てる。
アレッシオは一瞬彼を見つめ、あっさりと告げた。
「我が方に鎮座する女神様へ、魔王討伐の要請状を送らせていただきました」
彼は顎でナターシャを指し示す。
「彼女はそのためにここへ赴かれたのです」
魔導王たちが即座に噛みついた。
「彼女を女神などと認めるものか!」
「我らの魔導神はショーン・エヴァンス様のみだ!」
ナターシャはうんざりしたように息を吐いた。この毛嫌い合いに心底疲れ果てている様子だ。
「手筈を無視したことは謝るわ」
そう言うと、彼女は再び俺を見た。……二度目だ。
まじで、なんでそんなに俺を見るんだ? 背筋に冷や汗が流れる。隣に立つロゼが眉をひそめていた。困惑しつつも、その少女が俺に向ける視線に対して明らかに不快感を露わにしている。
アレッシオは困り顔でナターシャを仰ぎ見た。
「ナターシャ様、しかるべき儀礼を執り行うべきかと。さもなくば、この者たちが納得することはありません」
ナターシャは一秒の躊躇もなく言い放った。
「断るわ」
……完全なる静寂。
アレッシオは諦めたように目を閉じた。
レヴ・ヴァレリウスが折れた剣の柄を再び握り締めると、途方もない魔力が再び噴き出した。
――ジャキッ!
「ならば、もはや交わす言葉はない……ザリアよ」
他の魔導王たちも一斉に武器を構える。兵士たちが包囲網を狭め、ジェイソン・ベイカーが一歩前へ踏み出す。七人の代表騎士たちもまた、臨戦態勢に入った。
アレッシオが鉄槌を握り直し、エレノアが二丁の拳銃を構え、シェイリーが弓の弦を引き絞り、ロゼが両手で黒剣を深く構える。
秩序も陣営も入り乱れる中、俺は未だに何一つ理解できていなかった。
だが、一つだけ確かなことがあった。これから始まる戦いは、もはや魔王討伐などという次元の話ではない。
この広場全体が、世界最高峰の化け物どもによる殺戮の場と化すのだ。
そしてその惨劇の中心には、彼女がいる。
ナターシャ・ザリア――十代目の『魔法の女神』。




