第88話:軍神
ケンは荒い息を吐いていた。
苛烈な死闘の反動で、全身が激痛に悲鳴を上げている。鎧は粉々に砕け散り、顔は痛々しく腫れ上がり、拳には乾いた血がこびりついていた。それでも彼は黄金の槍を支えにして、泥に塗れながらも立ち上がった。
「くそっ……」
小さな吐息が漏れる。
その時、温かな光が彼の身体を優しく包み込んだ。
視線を向けると、そこには数分前に街角で出会った、身なりをやつした片目の少年が佇んでいた。
少年は片手を差し出し、その周囲を小さな魔法陣がゆるやかに旋回している。
「大したことはできないけど……痛みを和らげるくらいなら」
心地よい感覚がケンの全身を駆け巡る。激痛が引き波のように去っていき、打撲の痛みも嘘のように和らいでいく。
ケンは驚愕に目を見開いた。
「治癒魔法……?」
少年はただ、静かに微笑んだ。
「これで、まだ戦えるでしょ」
ケンは何も問わず、力強く頷いた。
「……礼を言う」
立ち上がると、彼は一瞬の躊躇もなく足を踏み出した。
槍の柄を硬く握り締め、彼は全力で駆け出した。
――タッ! タッ! タッ!
崩壊した路地を駆け抜け、建物の瓦礫を跳び越え、連鎖する爆音を頼りに中央広場へと引き返していく。
そして戦場に辿り着いた瞬間――ケンは息を飲んだ。
数百の騎士たちが、その場を隙間なく取り囲んでいたのだ。
掲げられた大盾、引き抜かれた白刃、そして狙いを定める無数の弓矢。
その包囲網の中央で追い詰められていたのは、全身傷だらけの吉田やローズ、エレノア、シェイリー、そしてデルガド王子だった。
彼らと対峙するように立ちはだかる五人の魔導王。そしてその数歩後方には、ジェイソン・ベイカーの姿があった。
誰も言葉を発しない。動こうともしない。広場を支配するのは、肌を刺すような息苦しい緊張感だった。
レヴ・ヴァレリウスが一歩前へ踏み出し、重々しい声を響かせる。
「包囲は完了した。もはや貴様らに逃げ場はない」
ローズは無言で漆黒の大剣を掲げ、その尖端をまっすぐに彼の顔面へと突きつけた。
レヴは数秒間彼女を見つめ、静かに深く息を吐き出した。
「魔王を討つべく遣わされたというのに……」
その表情を険しく歪ませる。
「見損なったぞ」
広場全体に、数十の刃が鞘を払う金属音が重なって響いた。
――ジャキッ!
――ガキンッ!
警備隊の隊長が一歩前へ進み出た。
「魔導王様! 中央区画の避難は完了いたしました!」
別の将校も腕を突き上げる。
「周辺に一般市民の姿はありません!」
レヴの瞳に静かな殺意が宿った。
「ならば……終わらせよう」
彼は静かに愛剣を引き抜いた。
――チャキン……
直後。
常軌を逸した圧力が広場全体へとなだれ込んだ。大気が激しく震え、足元の石畳が圧力に耐えかねて砕け散る。魔導王の膨大な魔力が、周囲の全てを潰しにかかる。
――ドォォォォンッ!!
あまりの圧迫感に、多くの騎士たちが恐怖で膝をついた。兵士たちは呼吸を奪われ、誰もが全身から冷や汗を吹き出していた。精鋭たる代表騎士たちでさえ、思わず足を引いた。
それはもはや人間の領域ではなく、天災の如き威圧だった。
シェイリーは歯を食いしばり、エレノアは膝の震えを抑え込めず、デルガドは倒れるのを防ぐために大鎌を深く石畳に突き立てた。
吉田に至っては、かろうじて意識を保っているのがやっとの状態だった。
その時――石畳を突く重厚な音が響いた。
――コツン。
突き立てられた黄金の槍。
ローズが驚愕して隣を仰ぎ見ると、そこにはケン・アラタカが並び立っていた。
ボロボロの鎧を纏い、息を切らしながらも、その手は固く槍を握りしめている。
「……ケン、あなた何を……?」
ローズの問いかけに答える間もなく、兵士たちの間に動揺が波紋のように広がる。
「おい、あれは……ケン代表騎士じゃないか!?」
「なぜ奴が敵側に立っているんだ!?」
「バカな……『破壊の聖者』様が我々を裏切ったというのか!?」
誰もが自分の目を疑った。ケンはウォーウィック王国が誇る最高峰の騎士の一人。その彼が魔王の陣営に立ち、武器を構えているなど狂気の沙汰だった。
レヴ・ヴァレリウスは失望に目を閉じ、静かに首を振った。
「……興が削がれたな」
瞼を開いたその瞳には、怒りよりも深い悲哀が満ちていた。
「ウォーウィックも自らの誇りをドブに捨てたか。誉れ高き二人の代表騎士が、揃って叛逆者に成り下がるとは」
重苦しい静寂が再び広場を覆う。誰もが最終決戦の火蓋が切られる瞬間を確信した。
――その時、酷く穏やかな声が静寂を破った。
「やあやあ……これはまた、実に興味深い状況ですね」
全員が同時に振り返った。
一人の男が、壊滅した街並みから緩やかな足取りで歩み寄ってくる。
上質な絹で仕立てられた衣服に、顔全体を覆う奇妙な仮面。
鎧も着けず、刀剣の類も身につけていない。戦場の渦中であることなど気にも留めない様子で、散歩でもするかのように優雅に歩いていた。
軽やかな足音が響く。
――コツ……コツ……コツ……
ローズは警戒に眉をひそめ、吉田はゆっくりと顔を持ち上げ、息を呑んだ。
仮面の男は首を少し傾けた。
「おや……これは予期せぬ事態だ」
ローズが目線だけで吉田を伺う。
「吉田……あの男を知っているの?」
吉田は喉を鳴らし、掠れた声を出した。
「……いや」
「彼は……『軍神』だ」
虚無の世界で魔王から告げられた言葉が脳裏をよぎり、吉田の血が凍りつく。
ローズは意味が分からず、困惑の表情を浮かべた。
「どうしてそんなことを……?」
吉田は仮面の男から片時も目を逸らさずに言った。
「あいつは……」
「――シッ」
男は人差し指を口元に当て、静寂を促した。
ローズは男の発する異様な威圧感に気圧され、言葉を失って硬直した。
「それ以上口を開けば……」
語尾は途切れたが、言葉を最後まで口にする必要はなかった。
刹那、世界の様相が一変する。
爆発も、光の閃光もなかった。ただ、完全なる「無音」が空間を支配したのだ。
風が止んだ。上空の竜の炎、兵士たちの怒号、荒い息遣いすらもが唐突に消え去った。
大気が異常なほど重く沈殿していく。
兵士たちは息を吸おうとして呼吸ができず、まるで酸素そのものが消滅したかのように苦悶した。手足は抑えようもなく震え、正体不明の恐怖が全員の理性を侵食していく。
シェイリーは思わず一歩後退し、エレノアは背筋に激しい寒気を覚え、あのジェイソン・ベイカーすらも戦いの中で初めて表情を険しく引き締めた。
五人の魔導王たちは吉田から視線を外し、狼狽と驚愕を隠せない様子で周囲を警戒し始めた。レヴ・ヴァレリウスの額を、冷や汗が一筋滑り落ちていく。
「……これが……『マナ』だというのか……?」
かすかな呟きに、応える者は誰一人としていなかった。
ついにストックが底をつきました笑 あらまあ…ここからの毎日更新はなかなかハードな挑戦になりそうです!




