第84話:ライオンハート事件
ケンは一歩、足を踏み出した。
さらにもう一歩。
群衆の怒号も耳に入らなかった。
鳴り渡るラッパの音も、広場を埋め尽くす何千人もの喧騒も届かない。胸の内で激しく鳴り響く鼓動だけが、その場を支配していた。
何か、おかしい。
決定的に、狂っている。
身の内に渦巻く未知の焦燥感に苛まれながら、彼は黄金槍を握りしめる手に強く力を込めた。
この広場に足を踏み入れて以来初めて、若き代表騎士は、自分が本当にこの処刑を見届けたいのか疑問を抱き始めていた。
「ケン……」
肩を掴む手があった。
カールだ。
戦友は、明らかな懸念を瞳に宿してケンを見つめていた。
「見ない方がいい。部屋へ戻れ」
ケンは身じろぎ一つしなかった。
返事すら返さない。
その視線は、ひたすら処刑台の一点だけに固着していた。
処刑台の中央では、両手を鎖で縛られたローズが膝をついたまま伏している。広場全体に静寂が広がり始める中、執行人が巨大な処刑剣を緩やかに掲げ上げた。
自由を奪われたまま、ただ死を待つロゼット・ベイカーの姿があった。
そして――
群衆の感情が一気に爆発する。
「『処刑しろ!!』」
「『裏切り者に死を!!』」
「『首を撥ねろ!!』」
数千の叫びが同時に轟いた。
執行人は深々と息を吐き出す。
刃が、振り下ろされようとした。
その瞬間――
――グオオオオオオオオオオオオオンッ!!
王都全域を揺るがす地鳴りのような咆哮が、大気を引き裂いた。
窓ガラスが激しく振動する。
城旗が猛烈にたなびく。
参列者全員の足元で、大地が激動した。
一秒間――
何が起きたのか、誰一人として理解できなかった。
民衆が一斉に空を仰ぐ。
兵士たちも。
代表騎士たちも。
貴族たちも。
魔導王たちも。
ジェイソン・ベイカーすらも、生まれて初めて処刑から目を逸らし、空を見上げた。
そして……彼らは目にした。
巨大な影が、王都を覆い尽くしていく様を。
三つの頭を持つ巨竜の大きな翼が太陽の光を遮り、王都の上空へと緩やかに降下してくる。羽ばたきが引き起こす猛烈な暴風が、軍旗やマントを激しく吹き荒れさせた。
だが、参列者たちを真の恐怖に陥れたのは、竜そのものではなかった。
怪物の背の上に……
一人の男が立っていた。
黒い巨大な骨の板を組み合わせたかのような漆黒の鎧。背後には擦り切れた赤いマントがなびき、両手には全く異質な二振りの剣が握られている。
一振りは眩いばかりの白光を放ち、もう一振りは地獄の闇を宿したかのように昼の光を吸い込んでいた。
広場全体が、息をのむような静寂に包まれた。
ローズがゆっくりと顔を上げる。
瞳が激しく揺らめいた。
(違う……)
(あれは、吉田じゃない……)
空中に浮遊するその姿は――
――魔王、そのものだった。
少年は竜の背の上で一歩踏み出した。
手近な空へ跳躍した。
竜は猛烈な速度で天空へと去り、魔王はライオンハート要塞の上空に滞空したまま、眼下の群衆を見下ろしていた。
ケン・アラタカと魔王の視線が、初めて交差する。
不気味なほどの静けさを湛えた声が、王都全体へと降り注いだ。
「『俺の名は吉田加藤……』」
風すらも動きを止めたかのようだった。
「『……そして、魔王だ』」
誰も息をすることすら忘れていた。
「『その女を引き渡してもらおう』」
その言葉が響き渡ると同時に、執行人が本能のままに動いた。
「死ね、忌々しい裏切り者がぁッ!!」
刃がローズの首筋を目掛けて一直線に振り下ろされる。
――ズドンッ!!
一閃の銃声が響き渡った。
処刑剣はローズの首に触れる直前、数十の金属片となって爆散した。
ローズは驚愕に目を見開いた。
首を巡らせる。
雑踏の只中で――
二丁の拳銃を掲げ持ち、笑みを浮かべる一人の女の姿があった。
エレノア・アラソーン。
「間一髪ね」
完全な余裕を漂わせながら、彼女は悪戯っぽくウインクしてみせた。
観覧席の上では、女王カミールが絶句して立ち上がっていた。
「なっ……!?」
『五人の魔導王』たちすらも視線を交わし、薄く笑みを浮かべた。
ついに――
敵が姿を現したのだ。
広場は瞬く間に破滅的な混乱へと陥った。
空から再び巨竜の咆哮が響き渡る中、人々は狂乱して四方八方へと逃げ惑う。
――グオオオオオオオオオンッ!!
凄まじい音圧が周囲の建築物を揺らす。
泣き叫ぶ子供たち。
席を蹴って逃げ出す貴族たち。
もはや抑えようのない群衆の折り重なる将棋倒しを、兵士たちが必死に喰い止めようとしていた。
「魔王だ!」
「魔王が現れたぞ!」
「逃げろッ!」
そのまさに一瞬――
五つの圧倒的なプレッシャーが地上を離れた。
魔導王たちが、五色の光線となって天へと駆け上がる。
だが、彼らが竜へ到達するよりも早く――
一筋の影がその前に立ちふさがった。
デルガド王子。
その長い赤髪を激しくなびかせ、大鎌を構えている。
その両脇には、複数の魔族の将軍たちが姿を現していた。
言葉もなく――
両者の力が衝突する。
――ドゴオオオオオンッ!!
爆発が王都全体を震わせた。
すさまじい衝撃波が広場を駆け抜け、空では魔法の電光、炎、そして漆黒の闇が交錯し始めた。
戦端は開かれた。
地上では、処刑台の周囲にいた代表騎士たちが即座に反応を示した。
「逃がすな!」
瞬く間に剣が引き抜かれる。
ローズは未だ身動きが取れずにいた。
騎士の一人が、救出される前に彼女の息の根を止めんと果敢に踏み込んでくる。
だが、混乱の渦中へさらなる影が割り込んだ。
続いて、もう一つ。
さらにもう一つ。
七人の代表騎士が、同時に壇上へと躍り出たのだ。
――ガキンッ!
――ボガッ!
――メキメキッ!
凄惨な暴力をもって武器が交錯する。
予期せぬ混戦に巻き込まれ、ウォーリックの騎士たちは驚愕して後退を余儀なくされた。
打ち合いの真っ只中、乱入した代表騎士の一人がローズの元へと到達した。
素早い動作で鎖を破壊する。
そして、まるで羽毛でも扱うかのように彼女を担ぎ上げた。
ローズは反応するのがやっとだった。
見上げると――
その顔に見覚えがあった。
続いて、二人目。
さらに三人目。
呼吸が止まった。
彼らだ。
エリックを殺害した、アレッシオの代表騎士たち。
数週間前、彼女を無惨に打ちのめしたあの当事者たちだった。
「な、なにを……!?」
男は目線すら合わせなかった。
迫り来る騎士の攻撃を剣で一蹴しながら、どこまでも冷徹に言い放つ。
「喋るな、愚か者が」
剣撃を弾き飛ばす。
「我らは命令に従っているに過ぎん」
ローズは完全に硬直した。
何一つとして理解が追いつかない。
広場を飲み込む混沌に乗じ、代表騎士たちが脱出を図る中、少女はゆっくりと天へと視線を向けた。
そこには変わらず、吉田がいた。
空中に停滞したまま。
静けさを保ち。
微動だにせず。
未だ介入しようとすらしていない。
まるで……
さらに別の『何か』が起きるのを待っているかのように。
これからは物語の展開がさらに熱くなっていきます!




