第7話:魔王の都の祭典
【ローズ視点】
屋上から校舎の中へ戻る頃には、私の中ですでに一つの決断を下していた。
やがて――。
キーンコーンカーンコーン……。
この世界特有の、規則正しく無機質な鐘の音が響く。退屈な授業の終わりを告げる合図だ。毎日同じ時間に正確に鳴るこの音は、まるで人々を統制するための奇妙な呪術のようだといつも思う。
次の瞬間、静まり返っていた教室は一気に喧騒に包まれた。椅子を引く音、弾けるような笑い声、そして今夜の「マツリ」の話題。誰もが浮き足立ち、誰かと共に過ごす約束を交わしている。
――私たちを除いて。
私は何も言わず席を立ち、彼の机の横へと歩み寄った。吉田は相変わらず銀の車椅子に深く腰掛けたまま、周囲の熱狂に背を向けるようにして、静かに時が過ぎるのを待っていた。
「行くぞ」
短く、拒絶を許さないトーンでそう告げる。
彼は驚いたように小さく目を見開いた。
私は車椅子の取っ手を握り、そのまま教室を後にした。放課後の廊下は人で溢れかえっていたが、私たちが近づくと、周囲の生徒たちは気圧されたように自然と道をあけていく。好奇の視線が突き刺さるが――そんなものは、今の私には戦場の風よりも軽い。
校舎の外へ出ると、夕暮れの涼しい空気が肌を撫でた。空はゆっくりと、燃えるような橙色へと溶け始めている。
正面にはリュウジン先生の「鉄の塊」が待機していた。
だが、私はすぐには進まなかった。
自分でも理由が分からない。だが――このまま真っ直ぐ帰ることに、微かな抵抗を感じたのだ。
「……ねえ」
不意の呼びかけに、彼がわずかに顔を向ける。
「タナバタ……行くか?」
その言葉に、彼の目が大きく見開かれた。だが、彼はすぐに逃げるように視線を逸らした。
「俺は……行かねえよ」
短い沈黙の後、絞り出すような声が返ってくる。
「一緒に行くやつなんて、いねえし」
何でもないことのように、彼は自嘲気味に笑った。だが、その声は脆い仮面で塗り固められているように聞こえた。私は無意識に、取っ手を握る手に力を込める。
「ならば」
一拍置いて、私は告げた。
「私と、行くぞ」
その瞬間、周囲の喧騒が消え去ったかのように感じられた。
吉田は何度も瞬きを繰り返し、理解が追いつかないといった呆然とした表情で私を見上げる。
「……え?」
彼の白い肌が、夕焼けよりもゆっくりと、鮮やかな赤に染まっていく。
「お、俺と……行くのか?」
私は無言で頷いた。
「ただ、共に行く者がいるか尋ねたまでだ」
彼は視線を落としたまま、何かを噛みしめるように黙り込んでいた。
「……悪いな」
ぽつりと、消え入りそうな呟き。
「でも……行く。……一緒に行かせてくれ」
その言葉は小さかったが、確かな重みを持って私の胸に届いた。
私は何も答えない。ただ、その肯定だけで十分だった。
「……ありがとう」
それ以上の言葉は、もう必要なかった。
◆
その夜。
この静かで不思議な街で――私は初めて、その光景を目の当たりにした。
「マツリ」は、眩いばかりの光に溢れていた。
軒を連ねる赤い提灯が夜の闇を優しく照らし、甘い蜜の香りと香ばしい肉を焼く匂いが混ざり合って、むせ返るような熱気を作り出している。走り回る子供たちの影、寄り添って笑う恋人たち、遠くから聞こえてくる奇妙な太鼓の旋律。
すべてが――騒がしくて、泥臭いほどに生きていて、けれど不思議なほど温かい。
この日のために、キオミさんが私に「ユカタ」というこの国の伝統的な装束を貸してくれた。軽くて柔らかな布地は、戦士である私にはあまりにも頼りなく、まるで防具をつけずに戦場に立つような心細さがあった。だが、その滑らかな肌触りは、私の世界の遥か東方にある国をどこか思い出させた。
周囲からの視線は、依然として私に注がれている。
だが、それは戦場で向けられる恐怖や憎悪とは決定的に違っていた。
驚き、興味、そしてどこか敬意を含んだ眼差し。彼らが何を囁き合っているのか、完全には理解できないけれど。
一方の彼は、兄から借りたという「ジンベイ」という衣装を纏っていた。首から下を動かすことはできず、車椅子にただ静かに身を預けているだけだったが、普段の病弱で今にも消えてしまいそうな彼とは、少しだけ違って見える。
――初めて見た。
心の底から溢れ出たような、柔らかな笑顔。
私は人混みの中、細心の注意を払って車椅子を押し進める。最初は緊張で身体を硬くしていた彼も、次第にその表情を緩めていった。
立ち並ぶ屋台を、一つひとつ慈しむように見て回る。そのすべてを、二度と忘れないように記憶に刻んでいるかのようだった。
「……きれいだな」
漏れ出た小さな独り言に、私は黙って頷いた。
なぜ人々が、これほど単純な催しをこれほど熱心に楽しむのか、私にはまだ分からない。
だが――彼の横顔を見て、少しだけ理解できた気がした。
祭りそのものが重要なのではない。
「ここに、誰かと共にいること」そのものに、意味があるのだと。
◆
やがて、人々が示し合わせたように空を見上げ始めた。私もそれに倣い、夜の深淵を見つめる。
その瞬間――。
ドォォォォン……ッ!
漆黒の夜空に、巨大な光の花が弾けた。
赤、金、青。
私の世界において、夜空に弾ける光と炎は常に「破壊」と「死」の象徴だった。敵の魔術、あるいは城壁を焼き落とせる炎。だが、この場所では違う。
人々は頭上に咲く炎の塊を「ハナビ(花火)」と呼び、それを見上げて笑うのだ。
なんて奇妙で、平和な世界なのだろう。
周囲から地鳴りのような歓声が上がる。
激しい光の粒子が夜空を埋め尽くし、連続する轟音が鼓膜を激しく揺さぶる。
その爆音の最中、すぐ目の前で、吉田の唇が微かに動くのが見えた。
地響きのような歓声と爆発音にかき消されそうな、本当に小さな、掠れた声。
「……生まれ変われるなら、動く身体が欲しいな……」
胸を突くような、あまりにも重い呟きだった。
それは誰に聞かせる風でもない、夜空の炎に吸い込まれて消えるはずの、彼の本音。
指一本動かせず、ただ他人の手を借りて生きるしかない少年の、魂の底からの祈り。
私は言葉を失い、ただ彼の背中を見つめることしかできなかった。
遠くの喧騒と、私のすぐ前で繰り返される吉田の穏やかな呼吸音だけが、世界のすべてであるかのように。
再び夜空に光が弾け、その輝きが彼の瞳の中に反射していた。
やがて、彼はゆっくりと私の方を振り向いた。
「……ありがとな」
その声は小さく、消え入りそうなほど繊細だった。
私はすぐには答えなかった。先ほどの彼の言葉が、胸の奥に刺さって抜けない。なぜ感謝されているのか、その理由が分からなかったからだ。私はただ、ここに立っているだけなのに。
胸の奥が、奇妙に重くなる。
重苦しいのに、どこか温かい、未知の重力。
私は堪えきれず、視線を夜空へと逃がした。
「……ローズ」
しばらくして、再び声がした。
「……なんだ?」
「来てくれて……よかった」
その言葉に、私は返す言葉を持ち合わせていなかった。
だから――私はただ、深く頷いた。
彼には、私の顔が見えていなかったとしても。
最後の一発が、ゆっくりと夜空の天辺へと昇っていく。
正式な終わりの合図。
ドォン……。
真っ白な閃光が、一瞬だけ世界を昼間のように照らし出した。
やがて、再び闇が戻る。
祭りは終演を迎え、人々は名残惜しそうに家路へとつき始めた。笑い声は遠ざかり、屋台の明かりが消え、賑わいは静かな余韻へと姿を変えていく。
私は再び、車椅子を押し出した。
「……帰るぞ」
「……ああ」
出口へと向かう途中で、私はふと気づいた。
この世界に降り立ってから初めて――。
一度も、魔王のことを考えていなかった。
終わりのない戦のことも、背負わされた使命のことも忘れて。
ただ、静かな夜を歩いている。
それが――少しだけ、恐ろしかった。
自分の一部が、この穏やかな日々に慣れ始めている。
あまりにも、心地よく。
私は最後にもう一度だけ、夜空を見上げた。
忘れてはいけない。自分がここにいる理由を。
――だが、この夜だけは。
考えるのを、やめることにした。
ちょっとしたこぼれ話ですが、ローズは作中だとかなりの美少女設定だったりします(笑)。
ちなみにキャラのイメージソースは、MOMOLANDのナンシーさんです!脳内でぜひあの美しさに変換して読んでみてくださいwww




