表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔王に恋した若き女騎士が二つの世界の運命を変えた話 〜ロゼット・ベイカー戦記〜  作者: ケン・アラタカ
第一章:異世界から来た女騎士、2080年の東京に降臨する
7/75

第6話:警告

  【ローズ視点】


 一。


 二。


 三。


 木剣の重みが、容赦なく私の腕にのしかかる。


 振るうたびに軌道がぶれ、肺の奥が焼けるように熱い。呼吸は乱れ、うまく空気を吸い込めない。まるで、この世界そのものが私を拒んでいるかのようだった。額から流れた汗が、庭の冷たい地面へと吸い込まれていく。


 私のいた世界では、マナは常に私の意志に応えてくれた。だが、ここには――何もない。

 ただ、不気味なほどの静寂だけが広がっている。


 身体が重く、鈍い。どこか大切な機能が失われてしまったようだ。自分のものではない、合わない鎧を無理やり着せられているような、得体の知れない違和感。

 私はもう一度、木剣を振り上げた。かつて無意識にできていた動きを、必死に身体へと叩き込んでいく。


 そのときだった。


 ――カンッ。


 乾いた音が、まだ夜が明けきらない朝の空気に響いた。


 顔を上げると、東の空がようやく白み始めたところだった。廊下の向こうを、リュウジン先生が駆け抜けていくのが見えた。着替えもせず、その表情は見たこともないほど焦りきっている。後を追うキオミさんも、髪を乱したまま、隠しきれない恐怖を顔ににじませていた。


 考えるより先に、身体が動いた。私は木剣を放り出し、二人の後を追う。


 廊下はやけに狭く、空気は淀んでいた。待ち伏せに遭う直前のような、肌を刺す緊張感。辿り着いた部屋の扉は、乱暴に開け放たれていた。


 そして――私は見た。


 血だ。真っ白なシーツが、毒々しい赤に染まっていた。


 吉田は激しく咳き込み、首から下が完全に麻痺したその身体で、溢れる血を口からこぼしていた。手で口を覆うことも、寝返りを打って息の通り道を作ることもできない。声すら出ず、ただ、壊れた鎧に押し潰された兵士のように、必死に眼球を動かして空気を求めてもがいている。


 リュウジン先生は彼を抱え、震える声で必死に呼びかけ続けていた。キオミさんは見たこともない道具と薬を手に取り、祈るような必死さで処置を施していく。


 その光景のすべてがあまりにも速く、私はただ立ち尽くすことしかできなかった。


 足が床に張り付いたように動かない。戦場では、常に成すべきことがあった。命令があり、守るべき仲間がいて、倒すべき敵がいた。だが、ここにはそれがない。ただ、消えゆく命を無力に見守ることしかできなかった。


 やがて騒動は収まり、吉田は深い眠りへと落ちた。荒れていた呼吸も、少しずつ、穏やかになっていく。


 だが、その後に訪れた静寂は――どんな戦場の叫びよりも、重く、苦しかった。


 ◆


 それでも。今日は、また「教室」という場所にいる。

 まるで昨日の出来事など、最初からなかったかのように。


 教室には能天気なざわめきが満ち、窓から差し込む光が机を照らしていた。吉田は車椅子に身体を預けたまま、笑っていた。近づいてくる生徒たちとぎこちなく言葉を交わし、何事もなかったかのように振る舞っている。


 誰も、彼の昨夜を知らない。

 誰も、彼が死の淵を彷徨っていたことなど思いもしない。

 あの少年が、指一本動かせぬまま、どれほど細い糸一本でこの世界に繋ぎ止められているのかを――。


 私は机に頬を預けたまま、無意識に彼を見つめていた。前髪の隙間から覗く彼の唇は、わずかにひび割れている。肌は白く、陽の光を透かして消えてしまいそうなほど儚かった。


 どこか、物悲しい。名前の付けられない感情が、胸を焦がす。


(どうして――どうして、お前は笑えるんだ?)


 昨日、お前は死にかけていたはずだ。それなのに、なぜ平然とした顔でここへ来る。


 自分でも制御できないほど、私は長い間彼を見つめていた。それは単なる好奇心ではない。もっと別の、言葉にできない衝動。


 やがて、教室のざわめきは「タナバタ」という言葉を中心に回り始める。

 屋台、遊び、花火。よく分からない単語が飛び交う。生徒たちは未知の祭りの話で盛り上がっていた。途切れない雑音となって耳に刺さるが、彼らにとっては、一年に一度の大切な行事らしい。


 その時だった。あの男が現れた。以前、吉田を馬鹿にした男だ。自信ありげな、嫌な笑みを浮かべてこちらへ歩み寄ってくる。


「おい、ローズ。一緒に祭り行かねえか? 俺が案内してやるよ」


 言葉の意味は分からない。だが、その下品な視線と、馴れ馴れしい態度だけで目的は分かった。


 一瞬、教室が静まり返る。私は机の下で、無意識に拳を握りしめていた。

 脳裏に浮かぶのは、昨夜の光景。血に染まったシーツと、動けないまま苦しんでいた吉田の姿。


 目の前の男を殴り飛ばす光景が頭をよぎったが――私は、それを抑え込んだ。

 ただ、冷たい視線で男を射抜く。それだけで十分だった。


 男は気圧されたように引きつった笑みを浮かべ、後ずさりしながら離れていった。その後も数人が近づいてきたが、そのすべてを私は無言で撥ね除けた。ここは私の世界ではない。馴れ合うつもりはなかった。


 ふと視線を向けると、吉田が誰かに話しかけようとしていた。唇がわずかに動く。だが、言葉になる前に、周囲の会話は彼を置き去りにして流れていく。

 やがて彼の顔から笑みが消え、諦めたような、冷めた表情に変わった。最初から、こうなることを知っていたかのような顔。


 それを見て、私は理解した。彼は行きたいのだ。だが、自分にはその資格も権利もないと、思い込んでいる。


 その時、教室の扉が開いて教師が入ってきた。

 その手には、色とりどりの細長い紙の束――「短冊タンザク」と呼ばれるものが握られている。教室の隅には、いつの間にか青々とした竹の枝が用意されていた。


 教師がその紙を配り始めると、教室は一気に浮き足立った空気に包まれた。誰もが嬉々として自分の「願い事」を書き込み、それを竹の枝に結びつけていく。彼らはそれを、一年に一度の特別な儀式として楽しんでいるようだった。


 だが、私の隣の席では――吉田が配られた紙を前に、ただじっと手元を見つめていた。

 周りの賑やかさから切り離されたように、彼の紙には何も書かれていない。自分ではペンを握ることすらできないその事実と、彼の諦めを雄弁に物語っているようで、見ていて妙に腹が立った。


 私は正式な生徒ではない。ただ吉田に付き添う「観察者」に過ぎない。だから、この場に縛られる必要もなかった。

 私は静かに席を立った。教師は軽く頷き、私の行動を黙認する。廊下の空気は、教室よりも少しだけ軽かった。


 ◆


 当てもなく歩き、階段の先にある鉄の扉を押し開ける。その瞬間、強い風が私の頬を打った。


 ――屋上。


 空はどこまでも広く、灰色の街を見下ろしていた。下界の喧騒が遠ざかり、ようやく一息つける気がした。


「少し、現実逃避かしら?」


 声は、不意に背後から聞こえてきた。

 振り向くと、一人の少女が扉の傍らに立っていた。入ってきた気配などまったくなかった。最初から、そこに溶け込んでいたかのように。


 穏やかな笑みを浮かべているが、その瞳は――まるで私の正体を見透かしているようで、居心地が悪かった。


「退屈よね、学校なんて。特に、何一つ理解できない『異邦人』にとっては」


 私は眉をひそめた。彼女の言う言葉の意味がすべて分かるわけではない。だが、「異邦人」という響き、そして彼女が放つ独特の空気が、肌をチクリと刺した。脅威は感じない。だが、言葉以上の何かを知っている。


 少女は私の隣に並び、街並みを見下ろした。


「今日は七夕の話ばかり。人は一年に一度、特別な誰かと時間を分け合いたがるもの。……ねぇ、一つ忠告をしておくわ」


 彼女は風に髪をなびかせながら、軽い調子で続けた。


「ノゾミという子には、あまり深入りしないこと。悪い子ではないけれど、彼女は他人を自分の『物語』に巻き込む癖があるの」


 忠告というよりは、冷ややかな観察結果のように聞こえた。


「吉田はね、本当は行きたいのよ」


 ぽつりと、独り言のように彼女は零した。「ヨシダ」という響きに、私の意識が向く。


「でも、あの子は……助けを求めるのが、絶望的に下手だから」


 私は目を見開いた。彼女はすでに扉へと歩き出していた。


「祭りはね、誰かに強引に誘われるほうが楽しいものよ。特に――未来を諦めてしまった人にとってはね」


 そう言い残し、彼女は去っていった。……何者だ、あいつは。


 再び訪れた静寂の中で、私は街を見下ろした。脳裏には、言葉を飲み込んだ時の吉田の顔、そして白紙のままのあの紙が焼き付いて離れない。

 私には関係のないことだ。私の世界ではない。


 ……それでも。


 私は小さく息を吐き、拳を固く握った。


(あんな顔……これ以上、見たくはない)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ