第6話:警告
【ローズ視点】
一つ。
二つ。
三つ。
木剣の重みが、容赦なく私の腕にのしかかる。
振るうたびに軌道がぶれ、肺の奥が焼けるように熱い。呼吸は乱れ、うまく空気を吸い込めない。まるで、この世界そのものが私を拒んでいるかのようだった。額から流れた汗が、庭の冷たい地面へと吸い込まれていく。
私のいた世界では、マナは常に私の意志に応えてくれた。だが、ここには――何もない。
ただ、不気味なほどの静寂だけが広がっている。
身体が重く、鈍い。どこか大切な機能が失われてしまったようだ。自分のものではない、合わない鎧を無理やり着せられているような、得体の知れない違和感。
私はもう一度、木剣を振り上げた。かつて無意識にできていた動きを、必死に身体へと叩き込んでいく。
そのときだった。
――カンッ。
乾いた音が、まだ眠りの中にある朝の空気に響いた。
顔を上げると、東の空がようやく白み始めたところだった。廊下の向こうを、リュウジン先生が駆け抜けていくのが見えた。着替えもせず、その表情は見たこともないほど焦りきっている。後を追うキヨミさんも、髪を乱したまま、隠しきれない恐怖を顔ににじませていた。
考えるより先に、身体が動いた。私は木剣を放り出し、二人の後を追う。
廊下はやけに狭く、空気は淀んでいた。待ち伏せに遭う直前のような、肌を刺す緊張感。辿り着いた部屋の扉は、乱暴に開け放たれていた。
そして――私は見た。
血だ。真っ白なシーツが、毒々しい赤に染まっていた。
吉田は激しく咳き込み、自由の利かない身体で、溢れる血を口からこぼしていた。声は出ない。ただ、壊れた鎧に押し潰された兵士のように、必死に空気を求めてもがいている。
リュウジン先生は彼を抱え、震える声で必死に呼びかけ続けていた。キヨミさんは見たこともない道具と薬を手に取り、祈るような必死さで処置を施していく。
その光景のすべてがあまりにも速く、私はただ立ち尽くすことしかできなかった。
足が床に張り付いたように動かない。戦場では、常に成すべきことがあった。命令があり、守るべき仲間がいて、倒すべき敵がいた。だが、ここにはそれがない。ただ、消えゆく命を無力に見守ることしかできなかった。
やがて騒動は収まり、吉田は深い眠りへと落ちた。荒れていた呼吸も、少しずつ、穏やかになっていく。
だが、その後に訪れた静寂は――どんな戦場の叫びよりも、重く、苦しかった。
◆
それでも。今日は、また「教室」という場所にいる。
まるで昨日の出来事など、最初からなかったかのように。
教室には能天気なざわめきが満ち、窓から差し込む光が机を照らしていた。吉田は笑っていた。近づいてくる生徒たちとぎこちなく言葉を交わし、何事もなかったかのように振る舞っている。
誰も、彼の昨夜を知らない。
誰も、彼が死の淵を彷徨っていたことなど思いもしない。
あの少年が、どれほど細い糸一本でこの世界に繋ぎ止められているのかを――。
私は机に頬を預けたまま、無意識に彼を見つめていた。前髪の隙間から覗く彼の唇は、わずかにひび割れている。肌は白く、陽の光を透かして消えてしまいそうなほど儚かった。
どこか、物悲しい。名前の付けられない感情が、胸を焦がす。
(どうして――どうして、お前は笑えるんだ?)
昨日、お前は死にかけていたはずだ。それなのに、なぜ平然とした顔でここへ来る。
私の視線は、自分でも制御できないほど長く彼に留まっていた。それは単なる好奇心ではない。もっと別の、言葉にできない衝動。
やがて、教室のざわめきは「タナバタ」という言葉を中心に回り始める。
屋台、遊び、花火。よく分からない単語が飛び交う。生徒たちは未知の祭りの話で盛り上がっていた。途切れない雑音となって耳に刺さるが、彼らにとっては、一年に一度の大切な行事らしい。
その時だった。あの男が現れた。以前、吉田を馬鹿にした男だ。自信ありげな、嫌な笑みを浮かべてこちらへ歩み寄ってくる。
「おい、ローズ。一緒に祭り行かねえか? 俺が案内してやるよ」
言葉の意味は分からない。だが、その下品な視線と、馴れ馴れしい態度だけで目的は分かった。
一瞬、教室が静まり返る。私は机の下で、無意識に拳を握りしめていた。
脳裏に浮かぶのは、昨夜の光景。血に染まったシーツと、動けないまま苦しんでいた吉田の姿。
目の前の男を殴り飛ばす光景が頭をよぎったが――私は、それを抑え込んだ。
ただ、冷たい視線で男を射抜く。それだけで十分だった。
男は気圧されたように引きつった笑みを浮かべ、後ずさりしながら離れていった。その後も数人が近づいてきたが、そのすべてを私は無言で撥ね除けた。ここは私の世界ではない。馴れ合うつもりはなかった。
ふと視線を向けると、吉田が誰かに話しかけようとしていた。唇がわずかに動く。だが、言葉になる前に、周囲の会話は彼を置き去りにして流れていく。
やがて彼の顔から笑みが消え、諦めたような、冷めた表情に変わった。最初から、こうなることを知っていたかのような顔。
それを見て、私は理解した。彼は行きたいのだ。だが、自分にはその資格も権利もないと、思い込んでいる。
その時、教室の扉が開いて教師が入ってきた。
その手には、色とりどりの細長い紙の束――「短冊」と呼ばれるものが握られている。教室の隅には、いつの間にか青々とした竹の枝が用意されていた。
教師がその紙を配り始めると、教室は一気に浮き足立った空気に包まれた。誰もが嬉々として自分の「願い事」を書き込み、それを竹の枝に結びつけていく。彼らはそれを、一年に一度の特別な儀式として楽しんでいるようだった。
だが、私の隣の席では――吉田が配られた紙を前に、ただじっと手元を見つめていた。
周りの賑やかさから切り離されたように、彼の紙には何も書かれていない。白紙のままのそれが、彼の諦めを雄弁に物語っているようで、見ていて妙に腹が立った。
私は正式な生徒ではない。ただ吉田に付き添う「観察者」に過ぎない。だから、この場に縛られる必要もなかった。
私は静かに席を立った。教師は軽く頷き、私の行動を黙認する。廊下の空気は、教室よりも少しだけ軽かった。
◆
当てもなく歩き、階段の先にある鉄の扉を押し開ける。その瞬間、強い風が私の頬を打った。
――屋上。
空はどこまでも広く、灰色の街を見下ろしていた。下界の喧騒が遠ざかり、ようやく一息つける気がした。
「少し、現実逃避かしら?」
声は、不意に背後から聞こえてきた。
振り向くと、一人の少女が扉の傍らに立っていた。入ってきた気配などまったくなかった。最初から、そこに溶け込んでいたかのように。
穏やかな笑みを浮かべているが、その瞳は――まるで私の正体を見透かしているようで、居心地が悪かった。
「退屈よね、学校なんて。特に、何一つ理解できない『異邦人』にとっては」
私は眉をひそめた。彼女の言う言葉の意味がすべて分かるわけではない。だが、「異邦人」という響き、そして彼女が放つ独特の空気が、肌をチクリと刺した。脅威は感じない。だが、言葉以上の何かを知っている。
少女は私の隣に並び、街並みを見下ろした。
「今日は七夕の話ばかり。人は一年に一度、特別な誰かと時間を分け合いたがるもの。……ねぇ、一つ忠告をしておくわ」
彼女は風に髪をなびかせながら、軽い調子で続けた。
「ノゾミという子には、あまり深入りしないこと。悪い子ではないけれど、彼女は他人を自分の『物語』に巻き込む癖があるの」
忠告というよりは、冷ややかな観察結果のように聞こえた。
「吉田はね、本当は行きたいのよ」
ぽつりと、独り言のように彼女は零した。「ヨシダ」という響きに、私の意識が向く。
「でも、あの子は……助けを求めるのが、絶望的に下手だから」
私は目を見開いた。彼女はすでに扉へと歩き出していた。
「祭りはね、誰かに強引に誘われるほうが楽しいものよ。特に――未来を諦めてしまった人にとってはね」
そう言い残し、彼女は去っていった。……何者だ、あいつは。
再び訪れた静寂の中で、私は街を見下ろした。脳裏には、言葉を飲み込んだ時の吉田の顔、そして白紙のままのあの紙が焼き付いて離れない。
私には関係のないことだ。私の世界ではない。
……それでも。
私は小さく息を吐き、拳を固く握った。
(あんな顔……これ以上、見たくはない)
2080年の街ってどうなってんだろ?色々考えてるんだけど、その時代の生活習慣とか世界観を文章にするの難しすぎてマジで禿げそうwwwwww 要する en な話、作中の未来描写が全然思い浮かびませんwwwwww




