第5章:女騎士、高校へ行く
【ローズ視点】
リュウジン先生の家に身を寄せてから、二日が過ぎた。
この数日間、私はずっと不思議な「もてなし」を受け続けている。
用意された清潔な服、身体の芯まで温まる食事、驚くほど静かな眠る場所。……正直、まだ慣れない。これほどまでに安寧な時間が、この世に存在していいものか。
そんな私の様子を察してか、キヨミさんは一本の木の剣を差し出した。
「もしかして、剣道をやっていたの?」
そう尋ねられた。
(……ケン、ドー? 何だそれは。新しい鍛錬の型か?)
……たぶん、見られていたのだろう。庭先で箒を手に、無意識に素振りをしていたところを。
(……みっともない姿を見せたな)
だが、仕方のないこと da。いつ魔王に遭遇してもいいように、何かしらの鍛錬を続けなければ私の魂は死んでしまう。
キヨミさんの贈り物は優しく、心に染みた。……けれど。本当は、私の剣がいい。あの聖剣を再びこの手に握りたい。
重い足取りで階段を降り、訓練に向かおうとした時だった。下から、誰かの言い争うような声が聞こえてきた。
「行きたいんだ。それだけだ」
吉田の声だ。低く、それでいて驚くほどはっきりとした拒絶の響き。
「……お前は本当に変わらないな」
応じるリュウジン先生の声は落ち着いていた。
「いいだろう。好きにしろ。だが、お前を一人で行かせるわけにはいかない」
「は?」
吉田の声に苛立ちが混じる。
「誰か付き添いが必要だ。万が一のことがあってからでは遅い」
リュウジン先生の足音が、迷うように廊下を往復する。
「キヨミは当直があるし、俺も手が離せない。……誰か、信頼できる人間がいればいいんだが……」
「いらないと言っているだろう。一人で十分だ」
……なるほど、そういうことか。
身内の口論に首を突っ込むのは騎士の領分ではない。私は静かに引き返そうとした――その瞬間だった。
手に持っていた木の剣が、指先から滑り落ちた。
(あ……)
コンッ、コンッ……。
静まり返った階段を木の剣が転がり落ちる音が、やけに大きく響き渡る。
ガタン!
ついに床まで落ちて、静止した。……最悪だ。気配を消していた意味がない。
「ローズさん?」
リュウジン先生の声が近づいてくる。私は慌てて階段を降り、できるだけ堂々と剣を拾い上げた。
「え、えと……リュウジン先生……。ローズ……参上、です……」
(……何を言っているんだ、私は)
私の失態を余所に、吉田はそのまま、音もなく動く銀の椅子に乗って去っていった。
その後、私はリュウジン先生から温かい茶を出された。心を落ち着かせる、深い味わい。
(……おちゃ、か。悪くない)
そして、私は一つの依頼を受けた。吉田に同行し、近くで見守ってほしい、と。
断る理由はなかった。彼らには多大な恩がある。それに、情報を集める場として、彼が向かう場所は悪くないはずだ。
「アイツは頑固でね。君がいてくれると助かるんだ」
リュウジン先生の話を聞きながら、私は別のことを考えていた。騎士としての本能が、未知の戦場への期待に高鳴っていたのだ。
「聞いているかい、ローズ?」
「え? ……あ、はい! わかった、です!」
咄嗟に毅然とした態度で答え、そうして私はここへやってきた。――「ガクエン(学園)」と呼ばれる場所へ。
朝の柔らかな光が、白いカーテンを透過して教室に差し込む。私は窓際の席に座り、身を強張らせていた。
……この「セイフク」という服。
リュウジン先生に言われて着用したが、おそろしく動きにくい。
教室の中は、ざわざわとした騒音に満ちていた。椅子の引きずる音、無数の足音。戦場とは違う意味で落ち着かない場所だ。
隣の席では、吉田が周囲に話しかけていた。
「えっと……おはよう……」
その声は小さく、どこか自信なげだ。
周囲の連中が一瞬だけ彼を見るが、すぐに視線を逸らし、聞こえないふりをして会話を続ける。
「ねぇ、あのアレ、見た?」
「なんか……空気が変じゃない?」
「ていうか、あの隣の子、白くない?」
陰湿な視線の礫。だが、吉田は怒ることもなく、ぎこちない笑みを浮かべて頷いている。……まるで、何もなかったかのように。
その笑顔は決して強くはない。けれど、嘘をついているようにも見えなかった。
(……これは、諦めなのか?)
一方で、私は何もしていないのに視線が集中していた。
「誰、あの子?」
「留学生かな。かわいい……」
数人の女子が、愛想の良い笑みを浮かべて近づいてくる。
「髪、すごく綺麗だね。どこから来たの?」
……落ち着かない。戦場において、向けられる視線は常に殺意と同義だ。だが、ここは違う。
私は軽く頷き、逃げるように窓の外の空を見上げた。あまりにも静かすぎる空を。
馴染もうとして拒絶される吉田と、何もしなくても視線を浴びる私。……どちらが残酷なのだろうか。
少しだけ、隣の彼を盗み見る。彼は、自分を無視する者たちを一人一人、記憶に刻むように見つめていた。……まるで、自分にはもう残された時間がないと悟っている人間のように。
その時、私の胸が激しく脈打った。
ドキ……ドキ……。
違う。これは同情ではない。……もっと、鋭い何かだ。
なぜ彼はここにいる。なぜ、居場所がないこの場所で笑おうとするのか。
私は堪えきれず、机の端を強く握りしめて立ち上がった。
ガタッ!
教室の空気が凍りつき、静寂が訪れる。
「どこ行くの?」
一人の男が声をかけてくるが、無視だ。私は一直線に吉田の元へ歩み寄った。
「来るな」
冷徹な声が、私を止めた。吉田だ。
「リュウジン先生が、私に……」
言いかけた言葉を、彼は無慈悲に遮った。
「俺は」
吉田は私を突き放すように、言葉を叩きつけた。
「何もいらない。助けも、同情もだ」
短く、硬い、鋭利な言葉。
胸が締め付けられ、私は無意識に拳を握りしめた。
……理解できない。この男は、ずっと冷たい。
一人の男が、ニヤけ面で近づいてくる。
「おいおい、新入りさん。そんなに怒るなよ。何か問題でもあるのか?」
周囲の視線が集まる。男は調子に乗り、吉田の首筋に手を伸ばそうとした。その手が触れる直前――私は、その手首を掴み取った。
ガシッ!
「やめろ」
万力のように力を込める。ギリ……と骨が軋む音が聞こえ、男の顔が苦痛に歪んだ。
「い……痛てぇ……! 放せよ!」
教室に悲鳴のような声が響き、私の内側に怒りが沸き上がる。だがその時――私は見てしまった。吉田の目を。
……違う。
そこにあるのは拒絶ではなく、どこか遠くを見つめるような、静かに沈んだ光だった。
……。
理解した。これ以上ここで暴れれば、状況はさらに悪化する。
私はゆっくりと手を離した。男は毒づきながら、逃げるように下がっていく。
吉田は、動かない。ただ、静かに私を見つめている。
……。
私は彼に背を向け、怒りを孕んだ足取りで教室を後にした。
もう一秒もいたくない。突き刺さるような好奇の視線。ひそひそ話。その全てが、私の背中に深く刺さる。
(……私は、一体ここで何をしているんだ)
子供の世話や、守りごっこをするためにここへ来たのではない。
騎士として、命令に従った結果がこれか。
……馬鹿げている。
あてもなく廊下を歩く。思考の海に沈み、周囲の景色は意識の端に追いやられていた。
同じような服を纏った者たちが、機械的な列を成して通り過ぎていく。
ざわざわ……。
雑音は気にしない。だが、ふと――私の足が止まった。
目の前にあるのは、金属製の古びた扉。表面は荒れ、時の流れに取り残されたようなその場所は、喧騒から隠れるには丁度良さそうに見えた。
静かに眠れる場所。そう直感して手を伸ばした――その時だった。
ガチャリ。
内側から扉が開き、一人の少女が姿を現した。肩で息を切らし、胸元には大切そうに数冊の本を抱えている。
「おや……」
ゆったりとした、独特の響きを持つ声。
「ごきげんよう」
「こ……ん……ば……んは」
不意を突かれ、私はたどたどしく挨拶を返した。
「ふふふ……」
彼女は静かに、どこか楽しげに笑った。
「これは『古書』。今はもう、これを開く人は少なくなってしまったけれど」
囁くような声。目の下には薄い隈のような影があり、乱れた髪がミステリアスな雰囲気を出していた。
「ノゾミよ。読書部の部長……まぁ、部員は私一人だけれどね」
「ローズだ。よろし、く」
「素敵な名前ね。物語の主人公みたい」
ノゾミは口角を上げ、そして――射抜くような視線を私に向けた。
「あなた……この世界の住人ではないでしょう?」
心臓が凍りついた。
「……え?」
動揺する私を余所に、彼女は扉を大きく開け放った。中には使い込まれた机と椅子、そして天井まで届きそうなほど積み上げられた古書の山。
「何か、探しものでもしているのかしら?」
……奇妙な女だ。だが、あの教室には戻りたくなかった。吉田を拒絶する者たちの視線も、彼自身の頑なな態度も、今は見たくない。
それに――本には惹かれる。この得体の知れない世界を知るためには、言葉の集積が必要だ。魔王の手がかりを探すためにも。
...
「どんな物語が好き?」
彼女がいくつか本を見せてくれた。そこには、騎士や王国、そして戦いの挿絵。……私のいた世界に近い。
私は必死に頁を捲るが、文字を追う速度が追いつかない。内容が理解できず焦る私に、ノゾミは穏やかに説明を始めた。
「これはね――この世界の、遠い昔のお話。ずっと、ずっと昔の……」
……。頭の中が真っ白になる。
(昔……? つまり、ここは――私のいた場所の『未来』なのか?)
胸が締め付けられるような感覚。私は核心を問うた。
「……悪者……魔王は、いるか?」
「悪者?」
彼女はくすくすと、喉を鳴らして笑った。思案するふりをしてから、彼女は首を横に振る。
「そうね……時には人間こそが、最大の悪かもしれないわね」
……。意味が分からない。やはりこの女は、私とは違う理で生きている。
「これ……借りてもいいか?」
話を切り替え、立ち上がる。ノゾミの表情が、一瞬だけ寂しげに曇った。
「ええ、もちろん。でも、気をつけて」
消え入りそうな小さな声。
「今はもう、物語を信じる人はいない。あなたが来てくれて、本当に嬉しかったわ。ローズさん」
……。
「また……来る」
自分でも驚くほど自然に、その言葉が口を突いて出た。
「本当?」
彼女の瞳に光が宿る。私の手を両手で包み込み、ぶんぶんと振り回した。
「待っているわ。また会いましょう」
少しの沈黙。
「忘れないでね」
……ただの別れの言葉。なのに、なぜか呪いのような重みを感じた。
図書室を出て、廊下を歩く。窓の外は、世界を燃やすような不気味な橙色に染まっていた。……夕焼け。すっかり時間が経ってしまっていた。
「くそ……!」
私は走り出した。放課後の廊下には、もう人影はない。
「お、おい……ローズ……!」
昼間の男が声をかけてきたが、無視だ。一直線に教室へ向かい、勢いよく扉を開け放った。
ガラッ!
……静寂。
机は整然と並び、椅子的脚も揃っている。昼間のあの不快なざわめきは、跡形もなく消え去っていた。
ただ一人。吉田だけがそこにいた。
背筋を伸ばし、凛とした姿で座っている。動かない。夕陽によって引き伸ばされた彼の影が、床に長く、孤独に伸びていた。……まるで、世界に取り残された遺物のように。
胸が、強く締め付けられる。
「吉田……」
反応はない。私は静かに歩み寄り――そして絶句した。
彼の唇には小さな裂傷があり、乾きかけた血が汗のようにこびり付いていた。
(……くそっ!)
奥歯が軋むほど歯を食いしばる。……何があったか、説明など不要だ。戦場で嫌というほど見てきた「敗北者」への仕打ち。……だが、ここは戦場ではないはずだ。
彼の前にしゃがみ込む。
「……すまない」
声が震えないよう、短く告げる。
「一人にするべきではなかった」
吉田がゆっくりと顔を上げた。そこにある怒りも、私を責める色もなかった。ただ、あの、ひどく疲れていて……それでいて優しい笑顔。
それが、今の私にはどんな刃よりも鋭く刺さった。
(不覚だ……)
...
「行くぞ……帰還の時間だ」
床に散らばった紙の束を拾い集める。丁寧に、指先を汚しながら。折れた角、破れた端、滲んだインクの跡。
手が微かに震えていた。これは恐怖ではない。純粋な怒りだ。……失敗した。リュウジン先生との約束も、彼を守るという騎士の矜持も。全て、私の油断のせいだ。
何も言わず、椅子を押し出す。出口へ向かい、扉を開けた――そこには。
いた。ノゾミだ。
扉の枠に寄りかかり、本を抱えたまま、最初からそこにいたかのように佇んでいた。
「遅かったわね」
彼女はぼんやりと微笑む。
「静かな場所ほど、残酷な物語が隠れているものよ」
……私は答えない。
「気に病む必要はないわ。傷のほうが、勝利よりも多くの真実を教えてくれるものだから」
彼女の視線が、私の隣の吉田へと注がれる。観察し、値踏みするような目。……ぞくりと、背筋に冷たいものが走った。
「また会いましょう、ローズ」
……なぜか、私は頷いた。その言葉の真意を、何一つ理解できていないというのに。
校舎の外へ出ると、夕焼けが世界を真っ赤に染め上げていた。
吉田の椅子を押し、二人の影が並んで伸びる。……言葉はない。だが、初めてこの世界に来て、一人ではないのだと実感した。
前方。一人の男が鉄の塊に寄りかかっていた。
リュウジン先生だ。
罪悪感で胸が重くなる。私の失態だ。隣の吉田も、同じように固い表情をしている。
「……そうか」
一言だけ。リュウジン先生の顔には、怒りも失望もなかった。
「あ、あの……す、すみません……」
謝罪の言葉を口にしようとしたが、遮られた。
「ローズ、気に病むな。言っただろう。あいつは頑固なんだ。これはあいつ自身が選んだ結果だ」
……え? それだけか? 怒らないのか? ……なぜだ。
結局、促されるまま鉄の塊に乗り込み、家へと向かった。私の、仮初の砦。
「……へんな日だ……」
窓の外、流れる街灯を見つめながら、私は小さく、誰にも聞こえない声で呟いた。




