第4話:魔王の都
【ローズ視点】
息を吸うたびに胸がきしんだ。 肩で荒く呼吸しながら、私は暗い路地を進んでいた。何が起きているのかまったく分からない。
後ろを振り返り、誰かが追ってきていないことを確認してから、再び歩き出す。鎧も剣もないのに、身体はもう限界だった。
記憶が一気に押し寄せる。剣を取り戻さなければ。魔王を倒さなければ。そして、この見知らぬ土地で生き延びなければ。
一筋の光が呼ぶように揺れていた。その光に導かれるように路地を抜けると――世界が突然、白く開けた。
それは太陽でも、松明の炎でもなかった。冷たく、途切れず、どこまでも不自然な光だった。顔を上げた瞬間、息が止まる。
目の前には巨大な塔が立ち並んでいた。 どの城よりも高く、どの聖堂よりも白く、滑らかで、光沢のある壁面はまるで磨き上げた水晶のようだ。その表面には、絶え間なく色を変える奇妙な光の紋が走り続けている。私にはそれが、未知の魔法のようにしか見えなかった。
足元の地面は硬くて平らで、白い線が完璧な直線で描かれていた。まるで幾何魔法の術式の上を歩いているようだった。人々が、私の横を素通りしていく。軽い布の服をまとい、急ぎ足で、私を無視するように。
(ここが……魔王の世界?)
そんな馬鹿な――そう思いたかった。
甲高い音とともに、目の前の光が緑へと変わった。私は反射的に後ずさり、誰かにぶつかった。咄嗟に腰に手を伸ばす。
――剣はもう無い。
喉がつまる。この夜は不自然なほど明るかった。松明も、火も、月明かりすらいらないほどに。すべてが眩しく、すべてが動き、すべてが脈動している。
「……ここはどこ?」
呟きは雑踏に飲まれて消えた。これは王国じゃない。城塞都市でもない。どちらかというと、戦場――そのくらいの息苦しさだ。
深く息を吸い込む。
(落ち着け、ロゼット・ベイカー。考えろ……)
光が変わり、耳を裂くような機械音が響く。そして巨大な鉄の塊が道を進んでいく。しかも、中には人が乗っている。 馬もいない。魔力もない。従者すらいない。
私は慌てて飛び退いた。身体がもう限界で、足がうまく動かない。そのとき――肩にそっと手が触れた。
振り返る。身構える。
――彼だった。
あの若い医師。汗ばんだ額。追いかけてきたらしい。
「本当に速いね、ローズさん」
彼は必死に笑みを作りながら言った。
「大丈夫。君を傷つけたりしない」
(……“さん”?)
懐かしい響き。すると、青い服を着た人たちが現れ、さらに小型の白い馬車に乗って近づいてきた。赤い光が魔法陣のように明滅している。
一人が短く言葉を発した。聞き取れたのは “danger” と “どうぞ” だけ。警告だと直感した。医師は両手を上げて落ち着いた声で言う。
「大丈夫です。彼女は怪我人です」
(“だいじょうぶ”……“けが”……)
その響きは分かった。警官たちは距離を保ったまま、決して私に触れなかった。ただ、見守っていた。
医師はそっと私の腕に触れ、道の端へ誘導する。動きはゆっくりで、威圧も力もない。
「ローズさん、本当に大変だったね」
私はもう抵抗する力さえなかった。
「大丈夫。もうすぐ落ち着くから」
彼の声は優しくはなかった。でも、私の足の震えは少しずつ止まっていった。
そのとき、白い馬車が横に止まり、大きな口のように側面が開いた。中には、光と奇妙な道具に囲まれた人々が待っている。
「……入らない」
私は思わず後ずさる。医師は苦笑した。
「ただの馬車だよ。……いや、オートだ。馬のいない馬車みたいなものだ」
(……ゴーレム。それなら納得できる)
気付けば私は彼の後をついて中へ入っていた。内部は豪華ではないが、清潔で整っていた。儀式場のような無機質で冷たい空気が漂っている。
私は背筋を伸ばして座る。まるで隊長の尋問に備えるように。
動き出した。揺れがない。音も少ない。まるで空を滑っているようだった。
私は窓に釘付けになる。塔のような建物は光をまとい、魔法陣が流れるように壁を走る。空中に浮かぶ紋様も見える。生きている――そうとしか思えなかった。
外を歩く人々は、手の中の小さな光る石に目を落とし、鉄の獣の間を平然と歩いている。信じられない。こんな場所、私の世界では神か暴君の支配下でしかありえない。
「……あれは、砦か?」
医師は目を丸くする。
「ただの区画だよ」
(“ただの”……)
その言葉が胸に突き刺さった。私は冷たい窓に額をつける。
これは幻でも魔法でもない。戦場の記憶が一気に押し寄せる。黒く焼けた大地。金属の衝突音。血の臭い。悲鳴。死。そして、私の剣が消えたあの瞬間――。
なのに今、私は……。光に満ちた街。馬のいらない馬車。魔法のない世界。
「もうすぐ着くよ、ローズさん」
医師の声が遠い。やがてゴーレムは白い大きな建物の前で止まった。強くもなく、厳しくもなく、ただ静かで清潔で、夜を追い払う淡い光を発している。
城ではない。だが、権威を感じる。
扉が開き、私はゆっくりと降りる。空気は穏やかで、守られているような雰囲気があった。医師の隣を歩きながら、自動で開く扉を通り抜ける。
最後にもう一度だけ振り返る。街はまだそこにあった。巨大で、鮮明で、私の存在など気にも留めないまま輝いていた。
――私は病院へ入った。
その瞬間、理解した。ここは魔王の世界ではない。まったく別の世界――魔法のない世界。
なのに、私は震えていた。この世界のほうが、何よりも恐ろしいと感じたからだ。




