第3話:異世界の女騎士、現代日本へ
【ローズ視点】
体が重い。
息を吸うたびに胸がきしみ、空気が肺に入ることさえ拒まれているようだった。 何があったのか思い出そうとしても、頭の奥に残っているのは──何か見えないものに乱暴に投げつけられたような、ぼんやりした衝撃だけ。
全身が痛い。
目を開けた瞬間、白い光が視界を覆い、思わずまばたきを繰り返した。やがて、少しずつ周囲が見えてくる。
見知らぬ部屋だった。 あまりに清潔で、あまりに静かすぎる。 壁はどこまでも滑らかで、旗も、紋章も、神々の象徴もない。こんな場所、見たことがない。
(……私、死んだの?)
だが霧もなければ、神の声もない。想像していた死後の世界とは全く違う。 代わりに、金属と透明な素材で作られた奇妙な物が周囲に並んでいた。細い管のようなものが私の体につながり、どこかへ伸びている。
血の匂いもしない。鉄の匂いも――しない。 その事実が、どんな傷より恐ろしかった。
部屋に響いていたのは、一定の間隔で鳴る高い音。 「ピッ……ピッ……」という規則正しい音が耳の奥に刺さり、肌が粟立つ。 音の正体を探そうと首を動かしたが、体が思うように反応しない。まるで自分の体じゃないみたいだ。力が抜けている。
そのとき、ふいに思い出した。
(――私の剣!)
反射的に起き上がろうとして、背中に鋭い痛みが走った。その痛みよりも、胸の奥に広がる冷たい不安のほうが強かった。 声を出そうとした。助けを求めようとした。……何も出ない。
理解した。私は捕らわれている。 無力で、そして──生まれて初めて、本当に「ひとり」だった。
くそっ……。
沈黙を破ったのは、足音だった。重く、規則的な足取り。 その向こうで誰かが話している。知らない言葉。だけど……どこか、遠い記憶の底で聞いたことがある気もする。
足音が近づいてくる。 体が反射的に強張り、武器になりそうな物を探そうとしたが、指すらまともに動かなかった。
(……何かの呪い? 封じられている……?)
扉が開いた。
数人の人物が入ってきた。白い服を着ていて、どこにも紋章がない。 聖職者なのか、魔術師なのか……判断がつかない。だが、表情は落ち着いていて、冷静で、どこか事務的だった。
敵意は感じない。けれど、安心もできなかった。 彼らが言葉を交わす。やはり聞き取れない。意味はわからないのに、胸の中がぞわついた。
そのとき──一歩、前に進んでくる者がいた。 他の人間と同じ服装なのに……なぜか、直感が反応する。胸の奥の深い場所が震えた。
若い男だった。 穏やかだが芯のある顔立ち。脅威は感じないのに、なぜか不安になる、不思議な静けさをまとっている。 黒い髪が額にかかり、茶色の瞳がまっすぐこちらを見つめていた。
視線がぶつかった瞬間、息が止まった。
(……どうして?)
知らないはずなのに。どこかで、彼を――。
男が口を開いた。低く、落ち着いた声。意味はわからない。 それでも、その声を聞いた瞬間、胸を締めつけていた恐怖が少しだけほどけた。
そして、ゆっくりと言った。
「……名前、は?」
体が震える。この言葉……昔、聞いたことがある。忘れかけた記憶のどこかに、確かに。
「……ロー、ズ……。私の……名は、ローズ……」
勝手に口が動いた。思い出せない記憶に導かれるように。 男は静かにうなずく。
「こんにちは、ローズ。俺はリュウジン。……君の医者だ」
彼は視線を透明な板のような物へ向けた。指が触れるたびに、光の文字が浮かんでは動き出す。まるで、生きている魔法の文字みたいだ。 彼らの会話は続いていたが、私はひとつも理解できなかった。
(――おかしい)
私は、本来なら動けないはずだ。なのに──指が動いた。足が反応した。手を握れる。つま先に力が入る。 ありえない。
気づかれないように、体に付いている管を抜き、痛みに耐えながら起き上がった。心臓が激しく跳ねる。逃げないと。 一瞬だけ周囲を確認し、誰もこちらを見ていないことを確かめた。
そして──走った。
扉を思い切り押し開ける。「ガンッ!」という音が響き、誰かが驚いた声を上げた。 廊下を全力で駆け抜ける。視界が揺れ、寒気が背中を走った。
「ローズ!」
後ろからリュウジンの声が聞こえる。 人々の間をすり抜け、ぶつかり、倒れそうになりながら進んでいく。
そして、青い服を着ていた二人の男たちと遭遇した。腰には奇妙な装置が下がっている。 彼らが手を伸ばした瞬間──考えるより早く、体が動いた。
一人の顔面に拳を叩き込み、反動を利用してもう一人の胸に蹴りを入れる。 男は後ろの透明な壁に「ドンッ」とぶつかった。
衝撃が足に響く。息が乱れる。 階段を駆け下り、ふらつきながら出口を見つけた。
巨大な要塞のような建物を抜け、裏手の細い路地に飛び込む。 光も、臭いも、音も……見たことのない世界。
(ここはどこ……?)
そして……私は、これからどうすればいい?




