第2話:魔王の都
【ローズ視点】
体が、重い。
息を吸うたびに胸が軋み、まるで肺が空気を拒んでいるみたいだった。
何があったのか思い出そうとしても、記憶にあるのは――見知らぬ街の夢と、いくつもの奇妙な出来事だけ。
全身が痛い。
目を開けた瞬間、暴力的なほどの白い光が視界を焼き、何度も瞬きを繰り返した。
やがて、視界が少しずつ周囲の輪郭を捉え始める。
見知らぬ部屋だった。
あまりに清潔で、そして静かすぎる。
壁はどこまでも滑らかで、旗も、紋章も、神々の象徴すら見当たらない。
こんな場所、今まで見たことも聞いたこともなかった。
……私、死んだの?
だが、そこには伝説に聞く霧もなければ、神の声もしない。
想像していた死後の世界とは、決定的に何かが違っていた。
代わりに、金属と透明な素材で作られた奇妙な器械が私を囲んでいる。
細い管が体に這い、見知らぬ場所へと伸びていた。
血の匂いもしない。鉄の匂いも――しない。
その清潔すぎる無機質さが、どんな深手よりも恐ろしかった。
部屋に響いているのは、一定の間隔で刻まれる高い音。
ピッ……ピッ……
規則正しい音が耳の奥に響き、ひどく不快だった。
音の正体を探そうと首を動かすが、体が鉛のように重く、思うように反応しない。
力が、まったく入らないのだ。
そのとき、ふいに意識が覚醒した。
――私の剣は!?
反射的に起き上がろうとした瞬間、背中に鋭い痛みが走る。
だが、その激痛よりも胸を支配したのは、計り知れない不安だった。
声を上げようとした。助けを求めようとした。
……けれど喉は乾ききり、掠れた息が漏れるだけだ。
理解した。私は捕らえられたのだ。
無力で――生まれて初めて、本当の意味で「ひとり」だった。
くそっ……!
沈黙を破ったのは、近づいてくる足音だった。
重く、規則的な歩み。
その向こうで誰かが話している。頭がぼんやりして、言葉の意味が頭に入ってこない。
なのに……なぜか、遠い記憶の奥で聞いたことがあるような、奇妙な感覚に襲われる。
足音が目前まで迫る。
反射的に身体をこわばらせ、武器になりそうな物を探したが、指先すらまともに動かない。
……何かの呪いか? 魔力すら封じられているというのか……?
扉が、開いた。
数人の人物が入ってくる。
白い装束に身を包んでいるが、どこにも紋章がない。
聖職者なのか、魔術師なのか……判断がつかない。
ただ、その表情は驚くほど冷淡で、感情が窺えなかった。
敵意は感じない。だが、安堵もできなかった。
言葉の意味はさっぱり解らないのに、胸のざわつきは激しくなるばかりだ。
そのとき――一歩、前に進み出る者がいた。
他の人間と同じ装束を纏っているはずなのに、私の直感が激しく警鐘を鳴らす。
若い男だった。
穏やかだが芯の強さを感じさせる面立ち。
脅威を感じさせる風貌ではないのに、なぜか目を離せない。
不思議な静けさをまとった男だ。
黒い髪が額にかかり、茶色の瞳がまっすぐ私を射抜いていた。
視線がぶつかった瞬間、肺の空気が凍りついた。
……どうして?
知らないはずだ。会ったこともないはずだ。
なのに、どうして私は彼を知っているような気がするのか。
男がゆっくりと口を開いた。低く、落ち着いた響き。
その響きに、かつて異界の者から教わった言葉の記憶が、ゆっくりと重なっていく。
心を締め付けていた恐怖が、ほんの少しだけ解けていく。
「……な、名前、は?」
身体が震えた。ゆっくりと紡がれたその音――意味が理解できる。あの異国の言葉だ。
「……ろ、ローズ……私の……名は、ローズ……」
意志とは無関係に、唇が動いた。
男は静かに、一度だけ頷く。
「はじめまして、ローズさん。私は加藤リュウジン。あなたの治療師です」
彼は視線を透明な板――携帯のような物へ向けた。
指が触れるたび、まるで生きているかのように光の文字が躍動する。
――おかしい
本来なら身動きすら取れないはずだ。
なのに――指が動く。足に感覚が戻る。
ありえない。だが、これは好機だ。
奴らが油断している隙に、体に付いている管を力任せに引き抜いた。
走る激痛を殺し、ベッドから飛び起きる。逃げなければ。
そして――私は走った。
バタンッ!
扉を思い切り押し開ける。
背後で驚愕の声が上がるが、構わずに廊下を駆け抜けた。
視界が揺れ、寒気が背中を駆け抜ける。
「ローズ!」
背後からリュウジンの声が追いかけてくる。
人混みの間をすり抜け、肩をぶつけ、倒れそうになりながらもひたすら出口を求めて進む。
そのとき、青い服を着た二人の男が立ちはだかった。
腰に奇妙な鉄の装置を下げている。
彼らが手を伸ばした瞬間――考える間もなく、戦士としての本能が動き出した。
バキィッ!
一人の顔面に、無駄のない渾身の拳を叩き込む。
間髪入れず、その反動で跳ね起きるように、もう一人の胸を正面から蹴り抜いた。
ドカァッ!
「ぐはっ……!?」
男は背後の透明な壁に激突した。
衝撃が足首まで響く。
荒い息を吐きながら階段を駆け下り、ふらつく足取りで出口をこじ開けた。
巨大な要塞のような建物を脱し、裏手の細い路地へと飛び込む。
目に飛び込んできたのは、見たこともない極彩色の光、異様な匂い、そして地鳴りのように響く轟音――。
ここは……どこなのだ……?
暗い路地の中で立ち尽くす。
この未知の世界で、これからどう生きればいいのかも分からぬまま。
息を吸うたびに、胸の奥がキチキチと軋んだ。
肩で荒く呼吸を刻みながら、私は暗い路地を這うように進んでいた。
何が起きているのか、ここがどこなのか、全く理解できない。
背後を振り返り、追手がいないことを確認して再び足を踏み出す。
鎧も剣もないこの身体は、すでに限界を超えていた。
記憶が、一気に押し寄せる。
剣を取り戻さなければ。魔王を討たねば。そして……この異質な土地で、生き延びねばならない。
路地の先で、一筋の光が誘うように揺れていた。
その光に導かれるように暗がりの外へ足を踏み出した瞬間――
――カァッ!
世界が白く爆発した。
それは太陽の輝きでも、松明の炎でもなかった。
冷たく、絶え間なく、どこまでも不自然な光の洪水。
顔を見上げた瞬間、肺からすべての空気が消え失せた。
目の前には、天を突く巨大な巨塔が立ち並んでいる。
どの城よりも高く、どの聖堂よりも白く滑らかな壁面は、磨き上げられた水晶のようだ。
その表面を、絶え間なく色を変える奇妙な光の紋様――未知の魔法陣が走り続けている。
私にはそれが、街全体を縛る巨大な結界にしか見えなかった。
足元の地面は硬く、平らで、不気味なほどに真っ黒な地表が広がり、そこへ完璧な白い直線が描かれている。
まるで幾何魔法の術式の上を歩かされている気分だ。
チカチカと明滅する光の下、人々が私の横を無感情に通り過ぎていく。
薄い布のような衣服を纏い、耳に奇妙な小さな石を埋め込み、何かに急かされるように――私という存在を完全に無視して。
ここが……魔王の領土なのか?
そんな馬鹿な。そう否定したかった。
ピピピピッと甲高い機械音が響くと同時に、目の前の光が緑へと変わった。
その瞬間、周囲の人間が一斉に動き出す。
「うっ……!?」
反射的に後ずさり、誰かと肩がぶつかった。
咄嗟に腰へ手を伸ばすが――そこにあるべき相棒たる剣は、もう無い。
喉が詰まる。
この夜は、不自然なほどに明るい。
松明も、月明かりすら不要なほどに。すべてが眩しく、すべてが蠢き、すべてが脈動している。
「……こ、こ……ど、こ……?」
掠れた途切れ途切れの呟きは、地鳴りのような雑踏の喧騒に一瞬で呑み込まれた。
ここは王国ではない。城塞都市でもない。
息が詰まる。
ここは……未知の「戦場」だ。
私は深く息を吸い込み、自分に言い聞かせる。
落ち着け、ロゼット・ベイカー。思考を止めるな……
ビーッ!
耳を切り裂くような音が響いた直後、凄まじい風圧と共に、巨大な鉄の塊が目の前の道を猛スピードで駆け抜けていった。
驚くべきことに、その内部には、生身の人間が乗っている。
馬もいない。魔力も感じられない。
――ブォォォン、と不気味な駆動音だけを響かせて、それは動いている。
慌てて飛び退いたが、足に力が入らず上手く動けない。
そのとき――背後から、肩にそっと手が触れた。
「っ!?」
振り返り、即座に身構える。
……彼だった。
あの、白い衣を纏っていた若い医師だ。
額に汗を浮かべ、必死に私を追いかけてきたのだろう。
「はじめまして、ローズさん。私は加藤リュウジン。あなたの担当医です」
彼は無理に作ったような、困った笑みを浮かべて言った。
「大丈夫ですよ。あなたを傷つけたりしません」
……「サ、ン」……?
その響きに、不思議と奇妙な懐かしさを覚える。
すると、独特な青い衣服を纏った者たちが現れ、小型の白い魔導馬車で近づいてきた。
その頭上では、赤い光が魔法陣のようにウーウーと不気味な音を立てて明滅している。
青い服の一人が、短く鋭い言葉を放った。
「止まれ! 動くな!」
私の耳に辛うじて引っかかったのは、「デンジャー」という歪な響きだけ。
警告だと、本能が告げていた。
しかし、医師は両手を上げ、彼らに向かって落ち着いた声で応じる。
「大丈夫です。彼女は私の患者で、精神的に不安定な状態なんです。暴力の意図はありません」
「ダイ、ジョー、ブ」……「ケ、ガ」……
その単語の意味だけは、記憶の奥から辛うじて引き出すことができた。
法を護る者たちは一定の距離を保ち、決して私に触れようとはしなかった。ただ、観察するように鋭い視線で見守っている。
医師は私の腕に優しく触れ、鉄の猛獣が往来する道の端へと私を誘導した。
その動きはどこまでも緩やかで、一切の威圧感がない。
「申し訳ありません、ローズさん。驚かせてしまいましたね」
私には、もう彼に抵抗する気力すら残っていなかった。
「……あ、りが、とう……」
医師は困ったように苦笑を漏らした。
「ローズさん、本当に大変でしたよね」
彼の声は決して強くはなかった。
だが、その平穏な響きに触れるたび、足の震えが少しずつ収まっていくのを感じた。
やがて、新たに駆けつけた白い魔導馬車が真横に止まり、プシューッと大きな口を開けるように側面がスライドした。
「……はい、ら、ない……っ」
思わず拒絶して後ずさる私に、医師は穏やかに説明した。
「これは自動車といって、馬のいらない馬車のようなものです。安心してください」
……やはり、ゴーレム。それなら、納得はできる。
気づけば、私は彼の先導に導かれるようにして中へ入っていた。
内部は豪華さこそないが、驚くほど清潔に整っている。まるで、高位の儀式場のような、無機質で冷たい空気が漂っていた。
私は、ぐっと背筋を伸ばして硬いシートに座る。
隊長の尋問を待つ、一人の騎士のように。
ウィーン、と微かな音を立てて殻が閉まり、車が動き出した。
揺れも、音もほとんどない。まるで、風の魔術で空を滑っているような感覚だ。
私は窓の外の景色に釘付けになった。
塔のような高い塔は極彩色の光を纏い、魔法陣の光流が壁を走り抜けていく。
空中に浮かぶ光の紋様。この街は「生きている」――そうとしか思えなかった。
外を行き交う人々は、誰もが手の中にある「光る小さな石板」を凝視し、鉄の獣の間を平然と歩いている。
信じがたい。こんな光景、私の世界では神か、あるいは全土を支配する暴君の領土でしかありえない。
「……あ、れ……砦……っ?」
窓の外を指さして掠れた声で問うと、隣の医師は目を丸くした。
「ただの区画だよ。ここは新宿っていう街さ」
「ただの」……
その言葉が、私の胸に深く突き刺さった。
これが、この世界の日常なのだ。私は冷たい窓に額を押し当てる。
これは幻覚でも、高度な幻惑魔法でもない。
目を閉じれば、戦場の記憶がありありと蘇る。
黒く焼けた大地。金属が衝突する耳鳴り。生々しい血の臭い。絶望の悲鳴。
空間が裂け、聖剣を手放してしまったあの絶望の瞬間。
なのに今、私は見たこともない光に満ちた街にいる。
馬のいらない馬車に乗り、魔力の一片すら感じられない世界にいる。
「もうすぐ着くよ、ローズさん」
医師の声が遠く聞こえる。
やがて車は、ひときわ巨大な白い建物の前で停車した。
威圧感はないが、夜の闇を完全に追い払うような淡い光を放ち、厳かな権威を感じさせる場所。
城ではない。だが、ここには別の、強固な「秩序」がある。
扉が開き、私はゆっくりと降り立った。
医師の隣を歩き、近づくだけで勝手に開く透明な結界を通り抜ける。
最後にもう一度だけ、背後に広がる眠らない街を振り返った。
街はあまりにも巨大で、鮮明で――私という異邦人の存在など一瞥もくれないまま、まぶしいほどに輝き続けていた。
――私は、再び未知の迷宮へと足を踏み入れた。
その瞬間、確信した。
ここは魔王の世界などではない。全く別の、魔法の存在しない、恐るべき未来の世界。
だというのに、私の身体は激しく震えていた。
この「魔法のない世界」のほうが、あの血生臭い戦場よりも、恐ろしい魔王よりも――何倍も恐ろしいと、本能が感じ取ってしまったからだ。




