第2話:魔王の都
【ローズ視点】
息を吸うたびに、胸の奥がキチキチと軋んだ。
肩で荒く呼吸を刻みながら、私は暗い路地を這うように進んでいた。
何が起きているのか、ここがどこなのか、微塵も理解できない。
背後を振り返り、追手がいないことを確認して再び足を踏み出す。
鎧も剣もないこの身体は、すでに限界を叫んでいた。
記憶が濁流のように押し寄せる。
剣を取り戻さなければ。魔王を討たねば。そして……この異質な土地で、生き延びねばならない。
路地の先で、一筋の光が誘うように揺れていた。
その光に導かれるように暗がりの外へ足を踏み出した瞬間――
――カァッ! と、世界が白く爆発した。
それは太陽の輝きでも、松明の炎でもなかった。
冷たく、絶え間なく、どこまでも不自然な光の洪水。顔を見上げた瞬間、肺からすべての空気が消え失せた。
目の前には、天を衝く巨大な巨塔が立ち並んでいる。
どの城よりも高く、どの聖堂よりも白く滑らかな壁面は、磨き上げられた水晶のようだ。
その表面を、絶え間なく色を変える奇妙な光の紋様――未知の魔法陣が走り続けている。私にはそれが、街全体を縛る巨大な結界にしか見えなかった。
足元の地面は硬く、平らで、不気味なほどに真っ黒な地表が広がり、そこへ完璧な白い直線が描かれている。まるで幾何魔法の術式の上を歩かされている気分だ。
チカチカと明滅する光の下、人々が私の横を無感情に通り過ぎていく。
薄い布のような衣服を纏い、耳に奇妙な小さな石を埋め込み、何かに急かされるように――私という存在を完全に黙殺して。
(ここが……魔王の領土なのか?)
そんな馬鹿な。そう否定したかった。
ピピピピッと甲高い機械音が響くと同時に、目の前の光が緑へと変わった。
その瞬間、周囲の人間が一斉に動き出す。
「うっ……!?」
反射的に後ずさり、誰かと肩がぶつかった。
咄嗟に腰へ手を伸ばすが――そこにあるべき相棒たる剣は、もう無い。
喉が詰まる。この夜は、不自然なほどに明るすぎた。
松明も、月明かりすら不要なほどに。すべてが眩しく、すべてが蠢き、すべてが脈動している。
「……こ、こ……ど、こ……?」
掠れた途切れ途切れの呟きは、地鳴りのような雑踏の喧騒に一瞬で呑み込まれた。
ここは王国ではない。城塞都市でもない。あえて言うなら、息の詰まるような、未知の「戦場」だ。
私は深く息を吸い込み、自分に言い聞かせる。
(落ち着け、ロゼット・ベイカー。思考を止めるな……)
ビーッ! と耳を切り裂くような音が響いた直後、凄まじい風圧と共に、巨大な鉄の塊が目の前の道を猛スピードで駆け抜けていった。
驚くべきことに、その鉄の腹の中には、生身の人間が乗っている。
馬もいない。魔力も感じられない。
――ブォォォン、と不気味な駆動音だけを響かせて、それは動いている。
慌てて飛び退いたが、足に力が入らず上手く動けない。
そのとき――背後から、肩にそっと手が触れた。
「っ!?」
振り返り、即座に身構える。
……彼だった。
あの、白い衣を纏っていた若い医師だ。
額に汗を浮かべ、必死に私を追いかけてきたのだろう。
「本当に速いね、ローズさん」
彼は無理に作ったような、困った笑みを浮かべて言った。
「大丈夫。君を傷つけたりしないよ」
(……“サ、ン”……?)
その響きに、不思議と奇妙な懐かしさを覚える。
すると、独特な青い衣服を纏った者たちが現れ、小型の白い魔導馬車で近づいてきた。
その頭上では、赤い光が魔法陣のようにウーウーと不気味な音を立てて明滅している。
青い服の一人が、短く鋭い言葉を放った。
私の耳に辛うじて引っかかったのは、“danger” と “どうぞ” という歪な響きだけ。
警告だと、本能が告げていた。
しかし、医師は両手を上げ、彼らに向かって落ち着いた声で応じる。
「大丈夫です。彼女は怪我人ですから」
(“ダイ、ジョー、ブ”……“ケ、ガ”……)
その単語の意味だけは、記憶の澱から辛うじて引き出すことができた。
法を護る者たちは一定の距離を保ち、決して私に触れようとはしなかった。ただ、観察するように鋭い視線で見守っている。
医師は私の腕に優しく触れ、鉄の猛獣が往来する道の端へと私を誘導した。
その動きはどこまでも緩やかで、一切の威圧感がない。
「ローズさん、本当に大変だったね」
私には、もう彼に抵抗する気力すら残っていなかった。
「大丈夫。もうすぐ落ち着くから」
彼の声は決して強くはなかった。
だが、その平穏な響きに触れるたび、足の震えが少しずつ収まっていくのを感じた。
やがて、先ほどの白い魔導馬車が真横に止まり、プシューッと大きな口を開けるように側面がスライドした。
中には、無機質な光と奇妙な医療道具に囲まれた人々が待ち構えている。
「……はい、ら、ない……っ」
思わず拒絶して後ずさる私に、医師は困ったように苦笑を漏らした。
「自動で動く車だよ。馬のいない馬車のようなものだ」
(……やはり、ゴーレム。それなら、納得はできる)
気づけば、私は彼の先導に導かれるようにして中へ入っていた。
内部は豪華さこそないが、驚くほど清潔に整っている。まるで、高位の儀式場のような、無機質で冷たい空気が漂っていた。
私は、ぐっと背筋を伸ばして硬いシートに座る。
隊長の尋問を待つ、一人の騎士のように。
ウィーン、と微かな音を立てて鉄の殻が閉まり、車が動き出した。
揺れも、音もほとんどない。まるで、風の魔術で空を滑っているような感覚だ。
私は窓の外の景色に釘付けになった。
塔のような巨塔は極彩色の光を纏い、魔法陣の光流が壁を走り抜けていく。空中に浮かぶ光の紋様。
この街は「生きている」――そうとしか思えなかった。
外を行き交う人々は、誰もが手の中にある「光る小さな石板」を凝視し、鉄の獣の間を平然と歩いている。
信じがたい。こんな光景、私の世界では神か、あるいは全土を支配する暴君の領土でしかありえない。
「……あ、れ……砦……っ?」
窓の外を指さして掠れた声で問うと、隣の医師は目を丸くした。
「ただの区画だよ。ここは新宿っていう街さ」
(“ただの”……)
その言葉が、私の胸に深く突き刺さった。
これが、この世界の日常なのだ。私は冷たい窓に額を押し当てる。
これは幻覚でも、高度な幻惑魔法でもない。
目を閉じれば、戦場の記憶がありありと蘇る。黒く焼けた大地。金属が衝突する耳鳴り。生々しい血の臭い。絶望の悲鳴。
そして何より――私の聖剣が、粉々に砕け散ったあの絶望の瞬間。
なのに今、私は見たこともない光に満ちた街にいる。
馬のいらない馬車に乗り、魔力の一片すら感じられない世界にいる。
「もうすぐ着くよ、ローズさん」
医師の声が遠く聞こえる。
やがて車は、ひときわ巨大な白い建物の前で停車した。
威圧感はないが、夜の闇を完全に追い払うような 淡い光を放ち、静謐な権威を感じさせる場所。
城ではない。だが、ここには別の、強固な「秩序」がある。
扉が開き、私はゆっくりと降り立った。
医師の隣を歩き、近づくだけで勝手に開く透明な結界を通り抜ける。
最後にもう一度だけ、背後に広がる不夜城の街を振り返った。
街はあまりにも巨大で、鮮明で――私という異邦人の存在など一瞥もくれないまま、傲慢なほどに輝き続けていた。
――私は、再び未知の迷宮へと足を踏み入れた。
その瞬間、確信した。
ここは魔王の世界などではない。全く別の、魔法の存在しない、恐るべき未来の世界。
だというのに、私の身体は激しく震えていた。
この「魔法のない世界」のほうが、あの血生臭い戦場よりも、恐ろしい魔王よりも――何倍も恐ろしいと、本能が感じ取ってしまったからだ。




