第1話:戦なき世界
月の光が夜空を照らし、淡い輝きが街に降り注いでいた。 その下で、巨大な東京は果てしなく広がり、無数のネオンが地上に降りた星のように瞬いていた。 その海のような灯りの中、琥珀色の高いタワーがひっそりと立っていた。どこか静けさをまとった、不思議な存在感だった。
――2080年、東京。
街の光がまた瞬く。その中で、白い建物の屋上だけが一際目立っていた。 夜風を切るように、そこに一つの影があった。誰かが、立っていた。月と街が触れ合う境界を、じっと見つめている。
黒く波打つ髪が、風に揺れる。長身の青年だった。遠くの灯りを眺めるその瞳には、隠しきれない寂しさが映っていた。
「……そろそろ行かないとな」
青年――リュウジンは小さくつぶやいた。肩には白衣。首には聴診器。もう一度だけ街を見つめ、記憶に焼き付けるように目を細める。 そして静かに背を向けた。
バタン。
無機質な音を立てて扉が閉まる。病院の廊下は白く冷たかった。機械の低い駆動音、夜勤スタッフの小さな会話。それらが、彼の足音と重なっていく。 やがて一つの扉の前で立ち止まった。小さく息を吐き、顔をセンサーに近づける。
ピッ。
扉が静かに開いた。
「……よう、ヨシダ」
薄暗い部屋の中は、消毒液の匂いが漂っていた。その静寂を破るのは、機械の規則的な音だけ。 ベッドには、一人の少年が横たわっていた。リュウジンによく似た顔立ち。白いシーツの下で体は細く、何本もの管に繋がれている。 天井を見つめていたその目が、わずかに動く。
「……リュウジン兄さん」
かすかな声だった。リュウジンはそっと近づく。 少年――ヨシダの顔色は悪く、同じく濃い茶色の目には深いクマが刻まれていた。乱れた髪が額にかかっている。彼は兄を見上げ、わずかに眉をひそめた。
「その顔……やめてくれよ」
「悪い。ちょっと仕事のことで、な」
リュウジンは苦笑し、小さく肩をすくめた。
「でも、休暇をもらえたんだ。しばらくはお前のそばにいられる」
「兄さん、来なくていいよ」
「……え?」
「休みの日まで、ここで過ごす必要はないだろ」
「でも――」
「それに……キヨミさんがいるし。最近は学校にも送ってくれてるから」
「……学校に?」
リュウジンの眉がぴくりと動く。何かを思い出したように、目を細めた。
「ヨシダ、お前……まだ通うつもりなのか? その身体で」
ヨシダは顔を横に向け、再び天井を見る。
「行っちゃだめなの?」
静かに問い返した。リュウジンは言葉に詰まり、少しの間沈黙したあと――。
「……この前より悪くなってる。医者としては……正直、すすめられない」
部屋が、息をひそめるように静かになった。やがてヨシダは震える声でつぶやいた。
「兄さん……言いたいなら、はっきり言ってよ」
リュウジンの喉がつまる。彼の目に、悔しさと悲しさが浮かんだ。
「兄さんは気づいてるくせに。昔から、隠すの……下手なんだから」
少し間を置いて――。
「俺……死ぬんだろ?」
その言葉は、あまりにも静かで――あまりにも残酷だった。リュウジンは震える息をのみ、必死に笑みを作った。
「ば、ばか言うなよ……そんなわけ――」
「兄さん!」
ヨシダが叫ぶ。その声は悲鳴に近かった。
「俺は、生まれてからずっと不自由な身体で……! 今度は、何か分からないものに命まで奪われて……! こんなとこで、ただ寝てろって言うのかよ……!」
悔しさが混じった涙が、彼の目にたまっていく。リュウジンは言葉を失った。ヨシダが小さく息を吸い――。
「……なんでなんだよ」
かすれるようにそう漏らした。リュウジンが答えようと口を開いた、その時。
ガチャッ。
静かな部屋の扉が、ゆっくりと開いた。
彼の名前は吉田です。名字みたいだけど、主人公の名前としてこの響きが好きなんです。




