第1話:異世界の女騎士、現代日本へ
【ローズ視点】
体が、重い。
息を吸うたびに胸が軋み、空気が肺に入ることを拒絶されているようだった。
何があったのか思い出そうとしても、意識の底にあるのは――巨大な何かに乱暴に投げつけられたような、鈍い衝撃の記憶だけ。
全身が痛い。
目を開けた瞬間、暴力的なほどの白い光が視界を焼き、私は何度も瞬きを繰り返した。
やがて、網膜が少しずつ周囲の輪郭を捉え始める。
見知らぬ部屋だった。
あまりに清潔で、そして静かすぎる。
壁はどこまでも滑らかで、旗も、紋章も、神々の象徴すら見当たらない。
こんな場所、今まで見たことも聞いたこともない。
(……私、死んだの?)
だが、そこには伝説に聞く霧もなければ、神の声もしない。
想像していた死後の世界とは、決定的に何かが違っていた。
代わりに、金属と透明な素材で作られた奇妙な器械が私を囲んでいる。
細い管が私の体に這い、どこか得体の知れない場所へと伸びていた。
血の匂いもしない。鉄の匂いも――しない。
その清潔すぎる無機質さが、どんな深手よりも恐ろしかった。
部屋に響いているのは、一定の間隔で刻まれる高い音。
(ピッ……ピッ……)
という規則正しい音が耳の奥に響き、肌が粟立つ。
音の正体を探そうと首を動かすが、体が鉛のように重く、思うように反応しない。
力が、入らないのだ。
そのとき、ふいに意識が覚醒した。
(――私の剣は!?)
反射的に起き上がろうとした瞬間、背中に鋭い痛みが走る。
だが、その激痛よりも胸を支配したのは、底知れない不安だった。
声を上げようとした。助けを求めようとした。
……しかし、喉は乾ききり、掠れた息が漏れるだけだ。
理解した。私は捕らえられたのだ。
無力で――生まれて初めて、本当の意味で「ひとり」だった。
(くそっ……!)
沈黙を破ったのは、近づいてくる足音だった。
重く、規則的な歩み。
その向こうで誰かが話している。全く知らない言語。
なのに……なぜか、遠い記憶の澱で聞いたことがあるような、奇妙な感覚に襲われる。
足音が目前まで迫る。
反射的に身体をこわばらせ、武器になりそうな物を探したが、指先すらまともに動かない。
(……何かの呪いか? 魔力すら封じられているというのか……?)
扉が、開いた。
数人の人物が入ってくる。
白い装束に身を包んでいるが、どこにも紋章がない。
聖職者なのか、魔術師なのか……判断がつかない。
ただ、その表情は驚くほど冷静で、事務的だった。
敵意は感じない。だが、安堵もできなかった。
彼らが交わす言葉の意味は一つも解らないのに、胸のざわつきは激しくなるばかりだ。
そのとき――一歩、前に進み出る者がいた。
他の人間と同じ装束を纏っているはずなのに、私の直感が激しく警鐘を鳴らす。
若い男だった。
穏やかだが芯の強さを感じさせる面立ち。
脅威を感じさせる風貌ではないのに、なぜか目を離せない。
不思議な静けさをまとった男だ。
黒い髪が額にかかり、茶色の瞳がまっすぐ私を射抜いていた。
視線がぶつかった瞬間、肺の空気が凍りついた。
(……どうして?)
知らないはずだ。会ったこともないはずだ。
なのに、どうして私は彼を知っているような気がするのか。
男が口を開いた。低く、落ち着いた響き。意味は解らない。
それでも、その声を聞いた瞬間、私の心を締め付けていた恐怖が、ほんの少しだけ解けていくのが分かった。
「……名前、は?」
身体が震えた。この響き……どこかで、聞いたことがある。
失われかけた記憶の迷宮に、確かに刻まれていた響き。
「……ロー、ズ……。私の……名は、ローズ……」
意志とは無関係に、唇が動いた。
男は静かに、一度だけ頷く。
「こんにちは、ローズ。俺はリュウジン。……君の医者だ」
彼は視線を透明な板のような物へ向けた。
指が触れるたびに光の文字が浮かび、自在に動き出す。
まるで命を吹き込まれた魔法文字のようだ。
(――おかしい)
私は、本来なら身動きすら取れないはずだ。
なのに――指が動く。足に感覚が戻る。
ありえない。だが、これは好機だ。
奴らが油断している隙に、体に付いている管を力任せに引き抜いた。
走る激痛を殺し、ベッドから飛び起きる。逃げなければ。
そして――私は走った。
バタンッ! と扉を思い切り押し開ける。
背後で驚愕の声が上がるが、構わずに廊下を駆け抜けた。
視界が揺れ、寒気が背中を駆け抜ける。
「ローズ!」
背後からリュウジンの声が追いかけてくる。
群れをなす人々の間をすり抜け、肩をぶつけ、倒れそうになりながらもひたすら出口を求めて進む。
そのとき、青い服を着た二人の男が立ちはだかった。
腰に奇妙な鉄の装置を下げている。
彼らが手を伸ばした瞬間――考えるよりも先に、戦士としての本能が爆発した。
バキィッ!
一人の顔面に、無駄のない渾身の拳を叩き込む。
間髪入れず、その反動で跳ね起きるように、もう一人の胸を正面から蹴り抜いた。
ドカァッッ!!
「ぐはっ……!?」
男は後ろの透明な壁に、鈍い音を立てて激突した。
衝撃が足首まで響く。
荒い息を吐きながら階段を駆け下り、ふらつく足取りで出口をこじ開けた。
巨大な要塞のような建物を脱し、裏手の細い路地へと飛び込む。
目に飛び込んできたのは、見たこともない極彩色の光、異様な臭い、そして地鳴りのように響く轟音。
(ここは……どこなのだ……?)
私は、暗い路地の中で立ち尽くす。
この未知の世界で、これからどう生きればいいのかも分からぬまま。




