プロローグ:ローズの犠牲
赤黒い空が世界を覆い、辺り一面が不気味な薄闇に沈んでいた。
炎が家々も森も城壁も──そして無数の遺体までも容赦なく焼き尽くす。
鉄と灰と焼け焦げた肉の匂いが、重く鼻を刺した。
戦場には、影の群れが洪水のように押し寄せる。
血の川の中、騎士と魔族が激しくぶつかり合っていた。
ガアアッ!
ギィンッ!
ドガァンッ!
耳をつんざく音が途切れることなく押し寄せる。
何もかもが混ざり合い、世界が揺れる。
それでも私は進む。
手綱を握る指に力が入り、馬は血煙の中を駆け抜けた。
矢が頬をかすめ、光の閃光が視界を焼く。
指先が震える。
だけど迷っている暇はない。
ここで気を抜けば──死ぬ。
前方には二つの影が進んでいた。
私はその背中を追う。
いつだって、そうだった。
一人目は言うまでもない。
騎士団長だ。
この地獄の中でも、その背は揺るがない。
馬は迷いなく炎と煙、そして死を踏み越えていく。
隣にはケン。
無駄のない動きで剣を振り、避け、進む。
本来の実力を隠しきれないほどに、強い。
地面が揺れ、バンッ! と衝撃が走った。
馬がいななくが、私は本能で手綱を引き戻す。
落ちるわけにはいかない。
ここで、今は。
「ケン、ローズ!」
地獄を貫くように、隊長の声が響く。
「はい!」
反射で返事が出る。
訓練で叩き込まれた声だ。
「敵との交戦は避けろ! 森へ向かうぞ!」
……え?
撤退?
この状況で?
すぐ近くで、肉を断つ音がした。
見ない。
今は見てはいけない。
「撤退だって!? 仲間を見捨てろっていうのか!」
ケンの叫びが震える。
一瞬の沈黙。
だがその意味は分かる。
その言葉は──もう重みを持たない。
「これは女王陛下の直命だ!」
冷たい宣告のようだった。
私はその背中を見る。
迷いがない。
揺らぎもない。
……それが、指揮官というものだ。
気に入らない命令だとしても、
私には従う義務がある。
俯いて、前に進んだ。
ここで立ち止まれば……何かに掴まれそうだった。
長い走りのあと、騎士団長が馬を止める。
私たちも続いた。
「二人に伝えるべきことがある」
私は息を飲む。
「お前たちには──果たすべき任務がある」
「任務……ですか?」
ケンが眉を寄せる。
「戦いの最中、王家の封蝋が押された手紙を受け取った。そこには……お前たちを生きて戦場から離脱させ、すぐにセローズの丘へ向かわせろと書かれていた」
言葉が重く落ちる。
「ザリアは陥落した。残された希望は──聖者だけだ」
空気が変わった。
「だから、お前たちは召集に応えねばならん」
「た、隊長! 貴方は……来ないのですか!」
彼は首を振る。
「私の役目はここまでだ。この戦いはまだ終わっていない。私は……戻らねばならん」
そう言うと、迷いなく馬を返し、地獄へ戻っていった。
ケンが息をつく。
「はぁ……女王陛下の命令なら、もう文句は言えないな」
「言うだけ無駄だ、ルーキー。行くぞ」
「ちょ、ちょっと! 言いたかったのはそっちだよ!」
馬は進む。
空気が変わる。
湿り気を帯び、ひんやりと冷たい。
森に入った。
闇が迫り、枝や根が影のように絡みつく。
すべてが速すぎる。
そして──
抜けた。
丘が現れる。
空っぽの丘だった。
静かすぎる。
世界が息を潜めているような沈黙。
私たちは馬を降り、慎重に登る。
そして──
見えた。
五つの影。
丘の頂に立ち、円を描くように並んでいた。
風が吹くのに、衣は揺れない。
顔は見えない。
だが、視線だけは分かった。
確かに私を見ていた。
「あなたたちは……?」
ケンが問いかける。
返答は──ない。
一人の影が、ふっと消えた。
音も気配もない。
そして次の瞬間──
ケンが消えた。
身体が強張る。
「……我らは、魔導王だ」
世界が止まった気がした。
魔導王──。
ならば、ここに呼ばれた理由は一つ。
私は剣を下げ、膝をついた。
「……陛下方」
声が震える。
一人が前に出る。
圧倒的な存在感だった。
「ローズ……」
顔を上げる。
「世界がまもなく滅ぶ」
返す言葉はなかった。
とっくに分かっていたから。
「それを防ぐ唯一の手段は──魔王の復活を阻止すること」
全身に寒気が走る。
「そのために、お前を異世界へ送らねばならぬ。魔王はそこに封印されている」
息が止まる。
「……討て」
沈黙。
目を閉じる。
疲れていた。
心も、身体も。
──だけど。
目を開く。
覚悟は決まっていた。
「……承知しました。
我が国のため……我が騎士の誓いにかけて……必ず果たします」
「ローズ……」
声が変わる。
「送る方法はある」
……
「だが──帰す方法は、ない」
……
何かが砕けた。
手が震え、呼吸が乱れる。
怖いのは死ぬことじゃない。
戻れないことだ。
「わ、私は──」
「ローズ!」
遠くからケンの声。
「やめろ!!」
五つの影が動いた。
速く、正確に。
私を囲む。
「待って……!」
手が上がる。
詠唱が始まる。
地面が光り、魔法陣が浮かび上がる。
金色の線が走る。
古い、力強い紋様。
「ま、待ってください陛下──!」
光が私を包む。
身体が動かない。
「ローズ……」
その声が震えていた。
「今日、すべてを捧げるのは……お前だけではない」
……
理解した。
遅すぎるほどに。
光が世界を塗りつぶす。
音が消える。
世界が、消える。
身体がふわりと浮く。
「ケン……」
届かない。
誰にも。
そして最後の瞬間──
私は怖かった。
戦場よりもずっと。
だって今回は──
帰る道がない。
そして私は……
消えていった。
読者の皆様、こんにちは。
ローズ・ベイカーの物語へようこそ。この物語が皆様に楽しんでいただければ幸いです。もし合わなかったとしても、貴重な時間を割いて目を通してくださったことに心から感謝いたします。
本作を執筆するにあたり、多大なインスピレーションを与えてくれた『無職転生』や『ゲーム・オブ・スローンズ(氷と炎の歌)』といった名作に、敬意を表したいと思います。これらの作品に出会えたからこそ、私は自分自身の物語を書こうと決意することができました。




