第72話:ローズの裁判
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城の大広間は、完全に群衆で埋め尽くされていた。
白大理石で築かれ、遥か高くまで伸びるステンドグラスが嵌め込まれた巨大な空間には、正午の陽光が黄金の光の柱となって降り注いでいる。
壁にはウォーリック王国の紫色の国旗が、過去の英雄たちの古めかしい盾と共に掲げられていた。
同時に、巨大な騎士の石像たちが、剣を胸の前に構えた姿で静かにこの場所を見下ろしている。厳かであり、重苦しい空気が満ちていた。呼吸の音一つさえもが、明瞭に聞こえるほどだった。
下層 の 席には、何十年もの間、全土の領地を治めてきた公爵、侯爵、伯爵、そして将軍といった王国の重鎮たちが集結している。
その後ろには、数十人ものベテラン騎士たちが控えていた。
傍聴席の大部分を占めるのは、絶対的な沈黙を保ちながら事態を見守る、百人を超えるウォーリックの代表騎士たちだった。
彼らは単なる公聴会を見届けるために集まったわけではない。
全人類を裏切ったとされる、一人の女の裁判を目撃するために集まったのだ。
広間の最も高い場所、白石で組まれた巨大な教壇の上には、裁判官たちの席が設けられていた。その中央に腰掛けているのは、女王カミーユ一世。
その両脇には、古代の碑文が刻まれた分厚い書物を手にした、王国の最高評議会に所属する二人の老法官が付き従っている。
これこそが、ウォーリックにおける最高司法権力であった。
その教壇の前に、ただ一人、ローズ・ベイカーが立ち尽くしていた。彼女の手首と足首を拘束する頑丈な魔力付与の鎖には、青いルーン文字がかすかに光を放っている。
囚人用の白い衣服は数箇所が引き裂かれ、幽閉中に受けた傷が今も生々しく肌に残っていた。それでも……彼女は立ち続けていた。頭を垂れることも、視線を落とすこともしない。
かつて天空の剣を握っていた時と同じ力強い真紅の瞳で、まっすぐ前を見据えている。その態度が、その場にいる多くの者を深く苛立たせた。
ケン・アラタカが一歩前に踏み出した。白銀の甲冑が大理石の上で音を立てる。
ガシャッ!
彼は言葉を発することなく、片脚を跳ね上げた。
ドッ!
強烈な蹴りがローズの膝の裏を捉え、少女は重々しく地面へと崩れ落ちた。
ドサッ!
彼女が体勢を立て直すよりも早く、ケンはその肩に手を置き、宮廷全体の前で無理やり跪かせた。
「陛下のみ前である。被告人は跪いて審理を受けるものだ」
ローズは歯を食いしばった。一撃の痛みよりも屈辱が勝ったが、抵抗はしなかった。それは敗北を認めたからではなく、自分が今どこにいるのかを完全に理解しているからだった。
広大な大広間に、再び静寂が戻った。すると、一人の伝令官が三歩前へ進み出た。儀礼用の杖の端を地面へと叩きつける。
トォン! トォン! トォン!
「ウォーリック王国最高裁判所、臨時法廷を開廷する!」
彼の声が、室内全体に響き渡った。
「被告人、ウォーリック王国騎士、ロゼット・ベイカー前へ!」
もう一人の伝令官が、長い羊皮紙を広げた。読み上げられる罪状の数は、果てしないようにさえ思えた。
しかし、その読み上げが始まる前に、白い法衣を纏った一人の騎士が中央の教壇へと近づき、一礼した。
「陛下」
女王はゆっくりと視線を向けた。
「申せ」
「魔法の女神様が、未だ到着されておりません」
場内に小さなざわめきが広がった。数人の貴族たちが顔を見合わせ始める。しかし、その場にいた賢者の一人が一歩前へ出た。その声は、極めて冷静だった。
「待つ必要はあるまい」
全員が口を閉ざした。
「あの御方の不在によって、裁判の手続きが滞ることはない」
女王は静かに頷いた。
「よかろう」
彼女は目の前に置かれた分厚い書類を開いた。その声は静かで、冷たく、いかなる感情も排されていた。
「ロゼット・ベイカー……」
少女の真紅の瞳が、ゆっくりと上がった。
「貴殿には、全人類に対する国家反逆罪の容疑がかけられている」
大広間は、水を打ったように静まり返っていた。女王は読み上げを続ける。
「貴殿は賢者たちにより、魔王が封印されている封印世界へと派遣された。目的はただ一つ、最も弱体化している状態の魔王を暗殺することであった」
彼女は短く言葉を区切った。
「しかし、貴殿はその任務を果たさなかった」
言葉が、まるで鉄槌のように容赦なく突き刺さる。
「そればかりか……貴殿は魔王を、このエヴァの世界へと連れ帰った」
「我らの、この世界へな」
その最後の一言が、場内全体の騒ぎを爆発させた。ローズは激しく頭を跳ね上げた。彼女の忍耐は、ついに限界を迎えた。
「どこからそんな、出鱈目を手に入れたのですか!?」
彼女の声が法廷全体に響き渡った、その瞬間――。
パシィィィンッ!
激しい音と共に、彼女の頭が横へと弾かれた。
ケンがその手の甲で、彼女の頬を張り飛ばしたのだ。
「陛下に対して不敬であるぞ!」
ローズはゆっくりと彼の方へ視線を戻した。唇からは血が滲んでいる。だが、痛みよりも強いものがあった。困惑だ。
その告発には、何の辻褄も合わなかった。彼女は決して、自らの意思で魔王を連れてきたわけではない。あれは――。
その時、一つの声が響いた。
「私が報告したのだ」
ローズの心臓が跳ね上がった。その瞳孔が激しく収縮する。
彼女はゆっくりと首を巡らせた。
裁判に出席している他国の代表たちの中に、洗練された漆黒 の 法衣を纏った一人の男がいた。その顔は白い仮面で完全に覆われており、その素性を識別することは不可能だった。
ローズはゆっくりと目を見開いた。
「貴方……」
彼女が言葉を紡ぎ終える前に、女王が彼の代わりに答えた。
「その御方は、軍神であり、ミルブ共和国の元首であらせられる」
大広間は、再び静まり返った。
「その御方こそが、自国の領内において魔王のオーラが感知されたことを、賢者たちへと通報してくださったのだ。同時に、事態を調査するために派遣された数人の騎士たちが、殺害された証拠も提示された」
仮面の男は身じろぎ一つしなかった。呼吸の乱れすら感じさせない。女王はゆっくりと書類を閉じた。
「報告書によれば、それらの騎士たちは、魔王を意図的に匿っていた一人の女によって殺害されたとある」
ローズの胸の奥から、激しい怒りが込み上げてきた。
「私は、彼を護ってなど……!」
最後までは言わせてもらえなかった。
パシィィィンッ!
もう一発の衝撃が彼女の顔を襲う。彼女が体勢を立て直すよりも早く――。
ドカァッ!
強烈な蹴りが、彼女の腹部を直撃した。肺から一気に空気が搾り取られる。
「がはっ……!」
彼女の身体は前方へと崩れ落ち、必死に空気を吸い込もうと喘いだ。ケンは絶対的な冷徹さをもって彼女を見つめていた。
「発言は、法廷が許可した時のみ許される」
ローズの瞳に、涙が溜まり始めた。それは痛みからではなく、あまりの無力感からくるものだった。
その時――一人の影が、信じられないほどの速度で観客席から飛び降りてきた。
フッ!
ほんの一瞬の瞬きの間に、その男は完全に剣を引き抜いた姿でローズの前に現れた。
ジェイソン・ベイカー。
その目は怒りに染まっていた。
「もう十分だ……ローズ」
彼は、自らの娘の首をその場で刎ねるべく、剣を振り上げた。
しかし、その刃が振り下ろされるよりも前に――。
ギィィィンッ!
百を超える槍が、一斉にその行く手を阻んだ。
金属同士がぶつかる凄まじい轟音が、広間全体を震わせる。
一瞬にして、百人のウォーリックの代表騎士たちが、ジェイソンを取り囲んでいた。彼らの武器の先端は、正確に彼の首元を捉えている。
女王は王座の肘掛けを強く叩いた。
「ジェイソン・ベイカー卿!」
彼女の声には、絶対的な権威が宿っていた。
「慎みなさい!」
ジェイソンの顔は、静かで、冷徹なまでに揺るぎなかった。
「お前は我が家の誉れを汚した……ベイカーの名に泥を塗ったのだ……」
ローズの頬を、涙がゆっくりと伝い落ちていった。彼女は何も答えなかった。
ジェイソンは一歩前へ進み、ゆっくりと剣を下げた。
「真実を語れ……。己の罪を認めよ。せめて……ベイカーの名に、僅かばかりの誇りを残させよ」
彼は再び、教壇の上へと視線を向けた。
「陛下……。父親であるこの私に、娘を斬首に処する権利を正式に要求いたします」
広大な空間が、完全に静まり返った。
カミーユ女王は数秒の間、彼の視線を受け止めていたが、やがて静かに首を横に振った。
「その要求は却下する」
裁判は……まだ始まったばかりだった。
◇ ◇ ◇
広大な空間は、依然として重苦しい沈黙に包まれていた。
ローズは冷たい大理石の上に跪いたまま、唇の端からゆっくりと血を流し続けていた。
ケンから受けた衝撃で耳鳴りが止まなかったが、肉体的な痛みなど、周囲から注がれる何百もの憎悪に満ちた視線の重さに比べれば、取るに足らないものだった。
観客席から、貴族、騎士、そして市民たちが、まるで歴史上最悪の怪物を見るかのような目で少女を見つめている。
中央の教壇では、カミーユ女王が厳しい表情を崩さない。その左右には、法廷を構成する二人の法官が控えている。
その時、賢者の一人が一歩前へ出た。彼の白い長袍が、階段を降りるにつれてゆっくりと揺れる。ローズは視線を上げた。彼女はその顔をすぐに認識した。
レフ・ヴァレリウス。
「ベイカー卿の言う通りだ」
彼の声が、室内全体に響き渡る。
「あの裏切り者は、即刻処刑するのが最善であろう」
場内にざわめきが広がった。ローズの背中に悪寒が走る。レフは彼女へと視線を向けた。その瞳に憎しみはなく、ただ計り知れない疲弊だけがあった。
「ロゼット・ベイカー……。あの儀式に参加した他の賢者たちが、今どこにいるか不思議に思っているか?」
ローズは答えなかった。老人は言葉を続けた。
「死んだよ」
その一言が、法廷の空気を完全に凍りつかせた。
「次元の門を開くあの儀式は、参加したほぼ全ての魔術師の命を喰らい尽くしたのだ。私が生き残れたのは、ただ私の肉体に耐えうるだけの魔力が残されていたからに過ぎん……。だが、かつて持っていたほどの力を取り戻すことは二度とないだろう」
ローズはゆっくりと目を見開いた。
「ウォーリックのアリス王妃も……」
老人は続けた。
「お前を異次元へと送り出した後、息を引き取られた」
ローズの表情が、内側から崩れ始めた。レフは、残酷なほどの静けさをもって語り続ける。
「お前が向こうの世界へ送られる間、五大王国の数千の騎士たちが、魔王の軍勢を食い止めるために戦ったのだ」
「強大なクザリア家は……完全に全滅した」
ローズは、肺から空気が消え失せるような感覚に陥った。
沈黙は、ほんの一瞬しか持たなかった。直後……傍聴席が爆発した。
「俺の息子はあの日死んだんだ!!」
「私の夫は二度と帰ってこなかった!!」
「全部あの裏切り者のせいだ!!」
観客席から、一筋の小石が飛んできた。
ベキッ!
石はローズの額を正確に捉えた。彼女の顔を、すぐに血が伝い落ちていく。続いてもう一つ、さらにもう一つ。
「人殺し!!」
「怪物!!」
「私たちを裏切ったんだ!!」
衛兵たちは、暴徒と化した群衆を辛うじて抑え込んでいる状態だった。ローズは動かなかった。頭を上げることも、身を守ろうとすることもしない。ただ、身体を微かに震わせながら、すべての罵声をじっと耐え忍んでいた。
そこで、カミーユ女王が笏で教壇を叩いた。
「静粛に!」
広大な空間に、ゆっくりと静寂が戻る。女王は少女をじっと見つめた。
「ロゼット・ベイカー」
その声は毅然としていた。
「今からでも、己の罪を告白するがよい」
ローズはゆっくりと目を閉じた。告白……。もし自分が口を開けば、この怪物たちが皆、彼の元へと向かうことは分かっていた。
彼女は深く息を吸い込んだ。
そして、再び頭を上げた。
「私には、告白することなど何もありません」
その返答が、再び新たなざわめきを引き起こした。その瞬間――仮面の影が、再び立ち上がった。
軍神。
彼が片手を上げた。
その単純な身振りのみで、大広間のすべてが口を閉ざした。代表騎士たちでさえも、微動だにしない。
男はゆっくりとローズの方へと身体を巡らせた。
そして、語りかけた。
今度は……完璧な日本語で。
「東京はどうだった?」
ローズは、自らの心臓が停止するのを感じた。仮面の奥で、男が笑った。
世界が停止したかのようだった。周囲の人間は誰も、その言葉の意味を理解していない。彼女だけが理解していた。
軍神は、一歩前へ出た。
「随分と時間を節約できると思うのだがね……」
その声は、依然として極めて自然だった。まるで古い知人と雑談でも交わしているかのように。
「……ただ告白すればいいのだよ、お嬢さん」
ローズの瞳が、激しく揺れ動き始めた。
「誰……?」
彼女の呼吸が乱れていく。
「貴方は……一体、誰なの……?」
男は答えなかった。
ローズはその時、カサンドラの言葉を思い出した。
『誰かが、貴方を陥れようとしている』
女王は僅かに眉をひそめた。
「共通語で話しなさい」
軍神は頭を下げた。
「これは失礼した」
女王は再び、ローズへと意識を向けた。
「最後に一度だけ尋ねる」
その声は、一段と冷徹さを増していた。
「魔王は、どこにいる?」
ローズは、全身の血が凍りつくのを感じた。脳裏を、いくつかの光景が駆け巡っていく。
吉田。
少女は、完全に沈黙を貫いた。
女王はゆっくりとため息をついた。ジェイソン・ベイカーが、再び剣を引き抜く。鋼の刃が、広間の光を反射して眩しく輝いた。
表情を一切変えず、絶対的な冷静さを保つベイカー卿のその冷酷さは、周囲の血を凍りつかせるほどだった。
「我が家の誉れを打ち砕いた」
彼は剣を掲げた。
「陛下、この恥晒しを、我が手で処分することをお許しください」
その時――小さな声が、沈黙を破った。
「おじいちゃん……ダメぇ!!」
ジェイソンは硬直した。
広間の全員が、一斉に首を巡らせる。
あの幼い金髪の少女が、目に涙を浮かべながら、必死の様子で彼に向かって走ってきたのだ。
ローズは、完全に硬直したままその姿を見つめていた。呼吸が止まる。
「おじいちゃん……?」
ジェイソンはゆっくりと剣を下げた。
少女は彼の腰にしがみつき、声を上げて泣きじゃくった。
ローズには何も理解できなかった。彼女の頭脳は、その光景を処理することを拒絶していた。
軍神は、その沈黙を利用して再び口を開いた。
「これ以上、彼女を取り調べる必要はありませんな」
全員の視線が彼へと集まった。男はゆっくりと、背の後ろで手を組んだ。
「我々はすでに、魔王の正体を把握しております」
ローズは目を見開いた。
男は、絶対的な平然さをもって言葉を続けた。
「黒い髪の若者です」
彼は短く言葉を区切った。
「濃い茶色の、鋭い目をしている」
ローズが、咆哮した。
「いやぁぁぁァァァァァーーーーーッ!!!!」
バリィィィンッ!
凄まじい魔力の放出により、彼女を縛っていた鎖が爆発四散した。床にはひびが入り、彼女の殺気が法廷全体を完全に包み込む。
代表騎士たちの反応は一歩遅れた。ローズの姿が消える。彼女は軍神の真ん前に、直接姿を現していた。
「死ねぇッ!!」
しかし――。
ドカァァァンッ!
ただ一人の影が、その前進を阻んだ。
レフ・ヴァレリウス。
彼の脚が、ローズの首元を正確に捉えていた。
ベキッ!
その音は、悍ましいものだった。
少女の身体は数メートルも吹き飛び、法廷の支柱へと激しく叩きつけられた。
広間全体が、静まり返った。
カミーユ女王は、ゆっくりと目を閉じた。
そして、深く息を吸い込む。
「ベイカー家が騎士、ロゼット・ベイカー……」
全員が息を呑んだ。
人類に対する反逆、下された任務の不履行、そして、この世界への魔王の招き入れ……」
彼女は、笏を地面へと叩きつけた。
「貴殿を、死刑に処する」
重苦しい沈黙が、場内にのしかかる。
「執行は、一週間後とする」
ローズの意識が、徐々に遠のき始めていた。
周囲の音が消えていく。
人々の声が、遠くなっていく。
その時……彼女は、最後の一言を耳にした。
軍神の声だった。明瞭で、力強い声。
彼女が自らの命に代えてでも護ろうとした名前を、王国全体の前で宣告する声だった。
「その者の名は……」
彼は言葉を区切った。
「吉田・加藤」
ローズの真紅の瞳から、涙がゆっくりと溢れ出していった。
それは、死に対する恐怖からではない。
自分が命を懸けて護ると誓った秘密が、ついに……全世界の前で暴かれてしまったことに対する、絶望の涙だった。




