第71話:世界の裏切り者 ロゼット・ベイカー
魔神帝国の騎士との一件の後、エレノアが画策したすべての計画は失敗に終わった。
特別な進展は何一つなく、ただ時間だけが無情に過ぎていった。
刻一刻と刻まれる時間こそが、今の吉田にとって最大の敵だった。
南部の魔神帝国の街の郊外に設営された仮設のキャンプは、日に日に重苦しい空気に包まれていく。
灰色の空は、決して変わることがない。
不毛な山々の上に暗雲がへばりついたように居座り、連峰から吹き下ろす冷たい風が、絶えず荒野を掃いていた。
フゥゥー…… フゥゥー……
ロゼット・ベイカーが囚われてから、すでに三週間近くが経過していた。吉田にとって、その三週間は永遠のようにも感じられた。
北の山脈を見渡せる岩の上に腰掛け、彼は手の中で完全にしわくちゃになった地図を握り締めていた。
何度も、何度も広げたせいで、折り目の部分から羊皮紙が破れ始めている。
彼の視線は、幾度となく同じルートをなぞっていた。南部の街、荒れ地、険しい峠、連峰、峡谷、そして湿地帯。その遥か先にあるのが……巨大な魔神帝国の帝都。
何度距離を計算しても、導き出される結果はまったく同じだった。
半年。そこへたどり着くには、どうしても六ヶ月の歳月が必要だった。
しかし、ローズに残された寿命は、あと一週間。
「クソッ……」
握りしめた手の力で、地図はいっそう歪んでいく。彼の呼吸は荒かった。ここ数日、まともに眠れたのはほんの数時間。目を閉じるたび、いつも同じ光景が脳裏に浮かぶ。ローズの姿だ。
彼は歯を食いしばった。
間に合わない……。
どんなに走っても……どんなに鍛えても……。
何をどう足掻こうと……。
届かない。
その無力感が、彼の身をじわじわと蝕んでいた。それは恐怖ではない。絶望だった。
◇ ◇ ◇
少し離れた場所では、王の四騎士たちが小さな焚き火を囲み、剣を研ぎ終えるところだった。
あの魔神帝国の騎士に完敗を喫して以来、彼らの会話から以前のような活気は消え失せていた。最初の数日間は、ヘッセン王国の昔話を語り合ったり、未来の計画を立てたりして、どうにかグループの士気を保とうとしていた。だが今は……沈黙が支配している。
オーウェン卿は剣の刃を拭き終え、重いため息をもらした。
「今のペースで進み続ければ……冬が来る前に帝都にたどり着くことすら敵わん」
誰も答えなかった。ハロルド卿は暗い表情で火を見つめている。ルシアン卿は丸太の上に腰掛け、応急処置として自らの鎧の修理に没頭していた。
沈黙を破ったのは、ガレス卿だった。
「関係ない」
四人が一斉に顔を上げた。
「我々は吉田殿を守ると誓ったのだ。たとえ、その過程で命を落とすことになろうともな」
他の面々も力強く頷いた。その表情に、迷いは微塵もなかった。この任務が不可能に近いことなど、彼ら自身が一番よく分かっている。
だが、自分たちにその大役を託したのが誰であるかも熟知していた。カサンドラ王女、そして国王陛下だ。彼らに対して不義理を働く者など、ここには一人もいなかった。
◇ ◇ ◇
シェイリーは、その会話を少し離れた場所から見守っていた。
握りしめた光の弓があまりに強すぎて、指先が白く変色している。彼女もまた、限界だった。焦りが限界に達していた。
毎日エレノアに向かって何か解決策はないのかと問い詰め、毎日「何もない」という同じ返答を受け取っていた。
エルフの少女は、フラストレーションの混じったため息を漏らした。
「あと、一週間しかないのに……」
彼女の視線は、自然と吉田の方へと向けられた。
少年は昼食にすら手を付けていなかった。ただ、地図の前に座り込んで、石のように動かない。
その姿を見るのが、彼女にとっては辛かった。なぜなら、彼女はその表情をよく知っているからだ。それは、希望を失いかけた者の目だった。
◇ ◇ ◇
そんな中、唯一せわしなく歩き回っている者がいた。エレノアだ。
女海賊は朝からずっと、頭の後ろで手を組み、何やらブツブツと理解不能な独り言を呟きながら、足元の小石を蹴飛ばしてキャンプ内をうろついていた。
「これもダメ……あれは論外……。なんて馬鹿げたアイデアなんだ!」
彼女は八つ当たり気味に、目の前の大きな岩を蹴り上げた。
チッ!
小石が勢いよく坂を転がり落ちていく。
「何で私はいつも、いつもぶっつけ本番の出たとこ勝負になっちまうんだい!」
彼女は両手で頭を乱暴にかきむしった。この一行が彼女と出会って以来、初めてのことだった。彼女に、計画がない。
その事実が、彼女自身をひどくいら立たせていた。
ドラゴンを使って大騒ぎを起こし、魔王の皇子をおびき出そうとしたが、結局現れたのは末端の三等騎士だけ。
その後、傭兵を使って情報を集めようとしたが、何も得られず。商人、スパイ、あらゆる手段を試した。だが……すべて一つ残らず失敗に終わった。
「ヘドが出そうだね……」
彼女は不快そうに愚痴をこぼした。
巨大な岩の合間を縫うように歩きながら、同じ問題を何度も頭の中で反芻する。
どうすれば、あの魔王の皇子を引きずり出すことができる? 大陸を半分も横断する時間はない。帝都に潜入するのも不可能。戦争を始めることもできない。軍隊などないのだから。そして、何より時間がない。
その時……。
彼女の足がピタリと止まった。
その瞳が、徐々に大きく見開かれていく。
風が彼女の長い髪をなびかせる中、その口元が、じわじわと不敵な笑みに歪んでいく。
「……」
彼女はゆっくりと自らの体を回転させた。
「……」
そして、ポンと手を叩いた。
「これだ、分かったよ!!」
彼女の狂ったような大笑いが、荒野全体に響き渡った。
「ハハハハハハ!!」
彼女はキャンプに向かって全力で走り出した。
「思いついたよ!!」
四人の騎士が一斉に顔を上げた。シェイリーは諦めたようにそっと目を閉じた。
吉田もまた、ゆっくりと首を巡らせる。
その場にいる全員が、全く同じ予感を共有していた。
(絶対に、まともな事じゃない……)
◇ ◇ ◇
そこから遥か遠く離れた……強大なウォーリック王国。
首都ライオンハートは、輝かしい夏の太陽の光を浴びて朝を迎えていた。
白い石畳で舗装された巨大な大通りは、多くの市民で埋め尽くされている。庭園には花々が咲き乱れ、黄金の獅子が描かれた国旗が、建物の上で誇らしげに風にたなびいていた。
街の至る所に英雄や騎士に捧げられた記念碑が立ち並び、この国家が剣の誉れの上に築かれたことをすべての人々に知らしめている。
だが、今日という日に限って……その美しさに目を向ける者は誰もいなかった。
すべての視線は、獅子の砦へと向けられていた。反逆者の裁判が、今まさに始まろうとしていた。
砦の巨大な門が、ゆっくりと開かれていく。
ドォォォォンッ!
その重々しい音が広場全体に響き渡った。まず、二列に並んだウォーリックの代表騎士たちが姿を現した。
燦然と輝く正午の陽光を浴びて彼らの鎧が光を放ち、手にした槍が規則正しく地面を叩く。
タッ! タッ! タッ!
その後ろから、鎖に繋がれた一人の人物が現れた。ロゼット・ベイカーだ。
彼女の手首、腰、そして足首を拘束する鎖が、歩みを進めるたびに金属音を響かせる。
チャリィン……
チャリィン…… チャリィン……
囚人用の白い衣服は破れ、乾いた血の跡で汚れていた。両腕や首元には青あざが残り、顔のあちこちには小さな切り傷が走っている。
しかし、群衆は彼女に対して一滴の同情も見せなかった。
「裏切り者め!」
「人殺し!」
「ウォーリックの恥晒しが!」
彼女の肩に、投げつけられた小石が当たった。
コツッ!
続いて、もう一つの石が彼女の足を直撃した。ある女は腐った野菜を投げつけ、ある老人は彼女の通り道に唾を吐きかけた。
ローズは何も答えなかった。
彼女は、まるで周囲の出来事がすべて自分には関係のないことであるかのように、完全に虚ろな瞳のまま歩き続けていた。
彼女は、宮廷の面々が集う広大な大広間へと連行された。
広間の両側には、百人を超えるウォーリックの代表騎士たちが整然と整列している。
巨大なステンドグラスから差し込む光を浴びて、彼らの甲冑が眩しく輝き、貴族、公爵、伯爵、そして将軍たちがそれぞれの席を埋めていた。
大広間の中央には、王座が聳え立っている。
そこには、女王カミーユ一世が腰掛けていた。その表情は、極めて冷静であり、同時に冷徹だった。
そこで、ローズはゆっくりと顔を上げた。
そして捕らえられて以来、初めて……彼女の瞳に、かすかな生気が戻った。
告発者たちの席の最前列に、彼女が二度と会うことはないと思っていた一人の男が立っていた。
ジェイソン・ベイカー。彼女の父親だ。
ローズの鼓動が激しく跳ね上がった。だが、なぜ父親がここにいるのかを理解するよりも前に、もう一つの影が彼女の視線を完全に奪い去った。
ジェイソンの腕の中に、一人の幼い少女が抱かれていた。
その少女は美しい金髪を持ち、奥深い真紅の瞳を宿している。少女は周囲の張り詰めた緊張感など露知らず、ただ興味津々に広大な大広間を見つめていた。
ローズは完全に硬直した。
「……子供……?」
何も理解できなかった。あの少女は誰なのか。なぜ父親と一緒にいるのか。そして、なぜあのような真紅の瞳をしているのか。
無数の疑問が脳内を駆け巡る中、彼女の隣に一つの影が立った。
堂々たる白銀の甲冑。長く伸びる黄金の槍。肩のラインまで届く黒髪。
ケン・アラタカ。彼女の、かつての相棒。かつての戦友だった。
ケンは鎖を力強く握り締めた。その瞳は、冷徹なまでに真剣だった。
「ロゼット・ベイカー……」
彼の威厳に満ちた声が、大広間全体に響き渡った。
「ウォーリック王国の裁きを受ける時が来た」
その言葉の残響が、広大な宮廷をゆっくりと伝わっていく。
こうして、緋色の騎士の運命が……今、決まろうとしていた。




