第69話:竜の覚醒
この国を旅して、数日が経った。
吉田はすぐに肌で理解した。この魔神帝国は、人間の国とは何から何まで正反対の場所なのだと。
通りには秩序なんて言葉は微塵もなく、立ち並ぶ家々は行き当たりばったりに積み上げられたかのようであり、市場はメインストリートの半分を無秩序に占拠している。
地元の酒場は、なんと朝一番から開いており、すでに多くの客で賑わっていた。
そして喧嘩……そう、路上での殴り合いは、ここでは日常の景色の一部に過ぎなかった。
激昂した巨漢のオークが、ミノタウロスに向けて木製の樽を投げつける。
「俺の金を取り戻せ、このクソ雄牛野郎!!」
「賭けで全部すったって言っただろ、ボケが!!」
ドォォォンッ!!
樽は石壁に激突し、粉々に砕け散った。
そこからわずか数メートル先では、二匹のゴブリンが大声で怒鳴り合っていた。片方が「普通の鶏」を売ったと言い張るのに対し、実際はただ眠っているだけの、巨大な魔獣の鶏だったからだ。
さらに先では、角を生やした男が、二つの頭を持つ巨大な山羊を必死になって追いかけていた。
「戻ってくれ、頼むから! 俺の嫁さん!!」
「メェェェーーッ!! メェェェーーッ!!」
吉田は雑然とした通りの真ん中で、呆然と立ち尽くすしかなかった。
彼は隣にいるシェイリーを横目でちらりと見つめ、それから再び、そのカオス極まりない街並みに驚愕の目を向けた。
「……」
エルフの少女は、諦めたように長いため息を漏らした。
「吉田。ここに住む人たちは、全員少しだけ……」
シェイリーは数秒間ためらい、こう絞り出した。
「……狂っているのよ」
まさにその瞬間、一匹の巨大なオーガが近くの酒場の窓を突き破り、猛スピードで外へと吹き飛んできた。
ガシャァァァンッ!!
モンスターは背中から果物の露店へと落下し、それを完全に粉砕した。
しかし果物屋の店主は、怒るどころか酒場の中に向けて満面の笑みで親指を立てた。
「いい喧嘩だ、野郎ども! 今のパンチは最高だったぞ!」
通りにいた見物人たちも、次のラウンドでどちらが勝つかを予想し、大声で賭けを始め出した。
一方、四人の人間族の騎士たちは、剣の柄にしっかりと手を添えたまま、警戒の布陣を崩さない。
ルシアン卿が、極めて低い声で囁いた。
「どうにも気に食わん場所だ……」
オーウェン卿も、緊張をこらえながら頷く。
「この忌々しい場所全体が、今にも爆発しそうで生きた心地がせん」
吉田はふっと笑い、肩の力を抜いた。
「こちらから手出しをしない限り、何も起こらないと思うよ」
四人の王宮戦士たちは、彼のあまりの落ち着きぶりに驚き、揃って彼を凝視した。
「よく見て。彼らにとって、この大騒ぎこそが世界で最も日常的な光景んだ」
ちょうどその時、料理用のエプロンを身に纏った巨大な大猪が、スープの載ったトレイを抱えながら猛スピードで通りを駆け抜けていった。
「どいたどいた! 道を開けな! トカゲの熱々スープ五丁だ!!」
そこへ通りがかった一頭 の 馬が正面から衝突し、大猪を派手に吹き飛ばした。
しかし大猪はすぐに立ち上がり、何事もなかったかのようにパパッと埃を払った。
「しょうがねぇ、作り直しだ!」
そう叫ぶと、大猪は再び厨房へと走り去っていった。
ヘッセンの騎士たちは、完全に理解が追いつかず、あんぐりと口を開けたまま固まっていた。
エレノアは、通りで繰り広げられる一連の狂乱を眺めながら、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべていた。
「私はこの場所が気に入ったよ……」
突如、彼女はパンと手を叩いた。
「ねぇ、吉田。悪いけど少し席を外してくれないかい? この騎士たちと少し込み入った話をしたいんだ」
吉田は怪訝そうに首を傾げた。
「あぁ、好きにすれば……僕だって、あんたと一緒にいるのはごめんだからね」
吉田が一人で立ち去ると、エレノアは人差し指で若いエルフの少女を指し、少年の後を追うように促した。
シェイリーは不快そうに眉をひそめた。
「あんたは私のボスじゃないわよ、この生臭海賊」
毒づきながらも、エルフの少女はため息をつき、数人のケンタウロスたちの視線を浴びながら、足早に吉田の隣に並んだ。
「おぉ……なんて美しい女なんだ」
背後からそんな品性のない言葉を投げかけられながらも、シェイリーは小さくため息をついて吉田の歩幅に合わせる。
「よし、野郎ども。計画がある」
四人の騎士たちが素早く距離を詰めると、エレノアが切り出した。
「計画とは……一体どんなものです、アラソーン嬢?」
女海賊は腕を伸ばし、街を完全に取り囲むように聳え立つ、不気味で巨大な岩山を指し示した。
「あのてっぺんにある巨大な連峰が見えるかい?」
全員がその高みを見上げた。
立ち込める濃霧と鋭く尖った岩肌の合間に、巨大で深い闇の洞窟の入り口が点在しているのが視認できた。
「あの崖の上にはね、野生のドラゴンたちが眠っているんだよ」
エレノアは、まるで今日の日直を決めるかのような口調でさらりと言ってのけた。
数々の戦場を潜り抜けてきた熟練の兵士たちが、一瞬で顔を蒼白にした。
「……何だって?」
エレノアは、いたずらっぽい笑みを浮かべて白い歯を見せた。
「単純な話さ。あそこへ登って、大騒ぎを起こしてやるんだ。そうすれば、あのトカゲどもは怒り狂って目を覚ます。そして、あの巨大な怪物どもがこの街へ襲いかかってくれば……」
女海賊は、吉田が去っていった方向をじっと見据えた。
「あたしたちの愛しの魔王様は、その身に秘めたあの恐ろしいオーラを解放せざるを得なくなる」
「正気か!?」
「馬鹿げている……我々は、吉田殿自身すら未だに把握しきれていない力に頼ろうというのか」
「リスクだよ。だが、背に腹は代えられないだろ?」
海賊は騎士の抗議を鼻で笑った。
「それで、どうなる?」
ガレス卿が、不吉な予感を抱きながら問いかけた。
「あの子が力を爆発させれば、この大陸の誰もがそのプレッシャーを感じ取るはずだ。そうなれば……魔神帝国の皇子とやらも黙っちゃいないだろう。向こうから、一体誰がこんな真似をしたのか確かめるために喜んでやってくる。これで、何ヶ月もの旅の手間が省けるってわけさ」
彼女はフッと笑い、拳を握った。
「要するに、あの魔族どもに、誰が上かを教えてやるのさ」
「吉田が本当に魔王なら、あの連中は従うのが道理だろう? 違うかね?」
騎士たちは一斉に、ごくりと喉を鳴らした。
それは疑いようもなく、彼らがこれまでの人生で耳にした中で最も無謀で、最も危険な作戦だった。
しかし、だからこそ……いかにもエレノアらしい狂ったアイデアでもあった。
女海賊は嬉々として身を翻した。
「よし、ヘッセンの騎士たち! 私に続け、山へ行くよ!」
その頃、吉田とシェイリーは反対方向にある、以前利用した宿屋へと向かった。
宿に到着すると、数時間前に救出した幼い子供たちが、嬉々としてそこら中を元気に駆け回っていた。
◇ ◇ ◇
数時間後、連峰の麓にて――。
五人の共謀者たちは、巨大な黒い岩の影に身を潜めていた。
オーウェン卿は、冷や汗を流しながら、自分たちが足を踏み入れようとしている巨大な洞窟の入り口を見つめた。
「おい、念のためもう一度確認させてくれ……我々はここで一体何をしようとしている?」
エレノアは、恐怖を覚えるほど平然とした態度で答えた。
「ドラゴンを起こすんだよ、さっきも言っただろ」
ルシアン卿は顔を引きつらせ、必死の形相で怒鳴るように囁いた。
「それは嫌というほど分かっている、この狂い女が!!」
彼の声は悲痛な焦燥感に満ちていた。
「私が知りたいのは、なぜ我々がこんな自殺志願者のような暴挙に同意して、お前についてきてしまったかだ!」
ハロルド卿は、諦めきった表情で静かに松明を掲げた。
「ルシアン……今さら自分たちの人生の選択を悔やむには、もう遅すぎると思うぞ……」
ガレス卿は、洞窟の奥深くに広がる果てしない闇を凝視した。
「……それで、これからどうする?」
女海賊は邪悪に微笑んだ。
「突入して、どんちゃん騒ぎさ」
四人の王宮騎士たちは互いに視線を交わし、これが最期になるかもしれないという無言の覚悟を決めた。
そして、重いため息を漏らす。
「カサンドラ王女のために……」
彼らは覚悟を決め、竜の巣窟へと足を踏み入れた。
◇ ◇ ◇
一方その頃、山の下の街では、吉田がシェイリーと共にカオスな市場をのんびりと歩き回っていた。
経験豊富なエルフの少女は、通り過ぎる様々な闇の種族の特徴を、根気強く彼に説明していた。
「あの鱗のある皮膚をした人たちはリザードマン。あの角にいる緑のちびっ子たちは一般的なゴブリン……そして、あそこで荷物を運んでいる大男たちは荷役のオーガよ」
吉田は深い好奇心を抱きながら、周囲を観察していた。
この場所は、南の人間たちが恐怖の物語で語るような「邪悪で恐ろしい帝国」などでは決してなかった。ここはただの……もう一つの街だ。独自の課題を抱え、懸命に生きる人々がいて、そして当然のように欠点もある、ただの社会だった。
その時――足元の地面が、激しく揺れ動いた。
ドォォォォンッ!!
間を置かず、さらに巨大で、空気を引き裂くような高音の轟鳴が響き渡った。
グウォォォォォオオオオオオーーッ!!
あれほど騒がしかった街が一瞬にして、墓場のような静寂に包まれた。
商人は叫ぶのを止め、酔っ払いたちは酒場から這い出て天を仰いだ。
吉田はゆっくりと、上空へと顔を上げた。
黒い山々の頂が、霧を割って開かれていくように見えた。
灰色の雲の切れ間から、巨大な翼を持つ壮絶なシルエットが力強く躍り出た。続いてもう一頭。さらにもう一頭。
それはドラゴンだった。本物の、伝説の竜たち。
その巨躯は漆黒の輝きを放つ鱗で覆われ、広げられた巨大な翼は天の光を完全に遮り、彼らの怒りの咆哮は岩山全体の土台を激しく震わせていた。
吉田は完全に言葉を失い、目を見開いた。
その荘厳で恐るべき光景から、どうしても視線を外すことができなかった。
前世と現世、二つの人生を合わせても、本物のドラゴンを生で拝むのはこれが初めてだった。
隣にいたシェイリーもまた完全に血の気を失い、思わず額を押さえた。
「一体全体、何が起きているのよ……」
◇ ◇ ◇
山の中腹の斜面。
行く手から、全力疾走で駆け下りてくるエレノアの姿が現れた。
その後方からは、口から火花を散らしながら激怒した三頭の巨大なドラゴンが迫りつつある。
「ハハハハハハ!! ほら言っただろ、野郎ども! 大成功さ!!」
女海賊は、お腹を抱えて大笑いしながら叫んでいた。
彼女のすぐ後ろでは、ルシアン卿が恐怖で目を血走らせながら走っていた。
「そんなことはどうでもいい、このじゃじゃ馬!! もっと早く走れ!!」
オーウェン卿は、脳内を駆け巡る凄まじいアドレナリンのせいで、今にも泣き出しそうな顔で走っている。
「食われる! 生きたまま食われちまう! やっぱり最悪のアイデアだったんだ!!」
ハロルド卿は途中の浮き石に躓き、奇跡的にバランスを取り戻した。
「置いていかないでくれ、この薄汚い連中め!!」
ガレス卿は、ほとんど転がるようにして猛スピードで坂を下っていく。
「このクソ海賊めが!!」
五人の背後で、三頭のドラゴンが同時に咆哮し、燃え盛る突風を吹き荒れさせた。魔神帝国における真の大混乱は、まだ始まったばかりだった。
◇ ◇ ◇
そこから遥か遠く、大陸の最北端。魔神帝国の威厳に満ちた揺るぎなき帝都。
巨大な謁見の間の奥深く、一振りの純白の美しい剣が、古びた石の台座の上に厳かに佇んでいた。
その刃は一点の曇りもなく、まるで太陽の光そのもので鍛え上げられたかのように、清らかな輝きを放っている。
突如として、微かな、しかし極めて澄んだ金属音が鳴り響いた。
チィィィン……ッ!
純白 の 刃を、一筋の鋭い黄金の閃光が駆け抜ける。
金属特有の澄んだ音が、誰もいない広大な部屋の壁に完璧なエコーを残して響き渡る。
玉座に腰掛けていた、長い赤髪を持つ背の高い若者が、静かに目を覚ました。
その顔に、不敵で自信に満ちた笑みが浮かぶ。
「厄介事が起きたか……」
若者は優雅に立ち上がり、低く呟いた。
「チッ、面倒なことだ」
一方で、巨大な帝国城の地下深くには、古く、深く、そして忘れ去られた監獄が存在していた。
そこは暗く静まり返っており、石壁には赤く輝く高位の魔法封印が幾重にも施されていた。
最も厳重に警備された独房の奥で、獣人族と思われる奇妙な風貌の少年が、両手両足を壁にしっかりと鎖で繋がれていた。
ぼさぼさの髪が前に垂れ下がり、傷だらけの顔の大部分を覆い隠している。
彼の疲れ切った腕は、古く解読不可能なルーン文字で埋め尽くされた、巨大で重々しい金属製の盾を抱え込んでいた。
その時――謎のシールドもまた、共鳴するように輝き始めた。
地鳴りのような低い振動が、重苦しく独房の壁を震わせる。
ゴォォォォン……ッ!
重厚な金属音が独房に響き渡る。
獣人の少年はゆっくりと頭を上げ、髪の隙間から鋭い光を放つ瞳を覗かせた。
何年にも及ぶ幽閉生活の中で、初めて……彼の唇に大きな笑みが浮かんだ。
「やはり、本当だったか……」
彼の動きに合わせて、太い鉄の鎖がジャラリと小さく音を立てた。
こうして、魔神帝国の最も深き暗闇の中で、運命の歯車が猛烈な勢いで回り始めた。
毎日投稿を続けることは、今の私にとって大きな挑戦となっています。大学の学業がとても忙しく、時間の確保が難しいのが現状です。
それでも、私はこの物語を皆様に届け続けたいと思っています。たとえ大ヒット作にならなくても、私自身が「書くこと」を心から愛しているからです。
これからも自分のペースで頑張りますので、温かく見守っていただけると嬉しいです!




