第68話:魔王の運命
吸い込まれそうなほどに、空は深く青かった。
広がる白い雲がゆっくりと流れる中、風に煽られて数千もの旗が激しく翻っている。
そこに描かれているのは、ワーウィック王国の象徴たる紋章。
果てしなく続く石畳の街道は、溢れんばかりの商人や馬車、巡回部隊の巨大な軍馬に跨った騎士たちで埋め尽くされていた。
広大な小麦畑はまるで黄金の海のようであり、風車が穏やかに回り、立ち並ぶ村々は生命の活気に満ちあふれている。
地平線の先に見えるのは――あまりにも巨大な王都。
王都『ライオンハート』。
白き城壁と、天を突き刺すかのように聳え立つ塔を戴いた、荘厳なる都市。
美しく装飾されたステンドグラスを持つ大聖堂、薔薇と百合が咲き誇る庭園。あらゆる広場には、歴代の英雄や聖者、古の騎士たちに捧げられた無数の記念碑が飾られていた。
この地において――『名誉』こそが絶対の法だった。
騎士の言葉はどんな契約書よりも重く、誓いは神聖であり、そして『裏切り』は……最も忌むべき大罪とされていた。
だからこそ、その日の朝、数千人もの群衆がそのパレードを見ようと通りに押し寄せていた。
それは決して祝いの催しなどではない。公衆の面前で行われる、容赦のない『見せしめ(屈辱)』であった。
大通りを、騎士たちの長い列が厳かに行進していく。
何百もの蹄の音が、石畳の上に激しく木霊していた。
タッ! タッ! タッ! タッ!
その強固な陣形の中心に、一人の少女が完全な素足で歩かされていた。
彼女の両手首には重々しい鎖が繋がれ、足首も同様に拘束されている。
ジャラッ……ジャランッ!
身に纏っているのは騎士の甲冑ではなく、優美なドレス。しかしその顔は、汗によって無残に流れ落ちた化粧で汚れていた。
長い黒髪は乱れて顔に張り付き、その身体のあちこちには、生々しい新しい傷跡が無数に刻まれている。
ロゼット・ベイカー。
王都の市民たちは、彼女に向けて怒号を浴びせ始めた。
「裏切り者め!」
一塊の石が空を飛び、彼女の肩に直撃した。
ドカッ!
「汚らわしい女め!」
別の男が叫び、二発目の石が彼女の額を正面から捉えた。
再び鮮血が噴き出し、彼女の頬を伝って流れ落ちる。
「ワーウィックを売り飛ばしおって!」
「薄汚い魔王を庇ったな!」
「この怪物め!!」
腐った野菜、生ゴミ、泥。それらすべてが、若き騎士の身体に容赦なく叩きつけられていく。
ローズは浴びせられる侮辱に対して一言も返さず、ただ絶対の沈黙を守り、頭を深く垂れたまま歩き続けた。
キャラバンが最後の跳ね橋を渡った時、彼女はゆっくりと頭を上げた。
遥か先、巨大な『獅子砦』の向こう側に、圧倒的な威容を誇る王城が見える。女王の住処だ。
彼女は紅蓮の瞳で、その建造物をほんの数秒間じっと見つめた。
その後、彼女が再び頭を垂れると、砦の巨大な木製の門が、重々しい残響を残して彼女の背後で完全に閉じられた。
ズゥゥゥンッ!!
◇ ◇ ◇
そこから遥か彼方の地にて、エレノアの船がようやく陸地に接岸していた。
彼らを出迎えたのは、これまでの世界とは完全に相反する、過酷で敵意に満ちた大陸だった。
空は厚い灰色の雲に覆い尽くされている。
空気は冷たく、どこか粘り気があって重い。強風が吹き荒れるたび、黒い砂塵の突風が舞い上がった。
ヒュゥゥゥゥ――ッ……!
山々はまるで、剥き出しになった巨大な石の牙のように聳え立っている。
僅かに存在する草原はどれも枯れ果て、木々は不自然にねじ曲がって育ち、川は不気味な暗い色を湛えて流れていた。
吉田は船のタラップを下り、周囲を見渡した。
ヘッセン王国とは似ても似つかず、ましてや聞き及んでいたワーウィックの描写とも完全にかけ離れている。
すべてが、物悲しく、静まり返っていた。
まるで大陸そのものが、何世紀も前に希望を失ってしまったかのように。
エレノアは海賊帽子を斜めに傾けて被り直し、地面に唾を吐いた。
「さて、馬鹿の相棒……魔神帝国へようこそ」
オーウェン卿が、その荒涼とした景色を警戒交じりに見つめた。
「海岸沿いに敵の砦があるかと思ったのだが……」
「……あるいは、警戒に当たる軍勢とかね」
ルシアン卿が言葉を添えた。
騎士たちの言葉を聞き、女海賊は乾いた嘲笑を漏らした。
「軍勢だって?」
エレノアはその不毛な大地を見つめながら言った。
「あんたたち、この場所じゃ、日々の生活を生き延びるだけで精一杯なんだよ」
それ以上語ることもなく、一行は内陸へと歩みを進めた。
最初の集落が現れたのは、それから数時間後のことだった。
吉田はてっきり、恐ろしい怪物や凶暴な戦士たちがうごめいているのを想像していたが、そこで目にしたのは――底知れない『貧困』だけだった。
古く腐りかけた木材で建てられた家々、裸足の子供たち、極限まで痩せ細った老人。
急ごしらえの焚き火の上で、もはや色すら残っていないような、極薄の水っぽいスープを煮込んでいる女性たち。
開拓地で何よりも少年の目を引いたのは、そこに住む住人たちの姿だった。
多くは普通の人間と変わらない姿をしていたが、その肌の色は僅かに褐色がかっている。額に小さな角を持つ者、尻尾がある者、尖った耳や黄金の瞳を持つ者。
さらに、ゴブリン、オーク、ミノタウロス、あるいは元の世界では想像すらできなかった姿を持つ異形の生き物たちの姿もあった。
しかし、彼ら全員の顔には、全く同じ表情が刻まれていた。――疲弊、諦め、あるいは激しい飢え。
吉田は静かに視線を落とし、奥歯を噛み締めた。
何も言わなかったが、胸の奥に重い塊が居座るのを感じていた。
道を進みながら、エレノアが歩みを止めずに口を開いた。
「大抵の人間族の国は、魔神帝国を危険な軍事大国だと信じ込んでいる。だけど見ての通り、ここは貧しい国さ。クソが付くほど貧しいね」
シェイリーが吉田の隣から、学術的な補足を加えた。
「ここの土地は、栄養分が決定的に不足しているから、作物がほとんど育たないのよ。冬が長すぎるし、野生の凶暴な魔獣たちのせいで、大規模な農地を開拓してもすぐに破壊されるか食い荒らされてしまうわ」
四人の騎士たちは、いつでも剣を抜けるよう手元に意識を集中させながら、周囲の警戒を怠らない。
ハロルド卿が、遠くにある損壊した家々を見つめた。
「これほど無防備であるなら……なぜ人間族はここを完全に征服しようとしないのだ?」
「そんな労力をかける価値がないからよ」
シェイリーが即座に答えた。
ガレス卿が兜の下で眉をひそめる。
「価値がない、とはどういう意味だ?」
「ガレスの旦那、略奪するような財宝なんてここにはないのさ」
エレノアがその言葉を引き継いで締めくくった。
「大した金山もなけりゃ、大豊作の収穫もない。あるのは貧困と乾いた泥だけだ。統治するよりも、安価な労働力として彼らと取引する方が、遥かに利益が出るのさ」
吉田は胃の奥に奇妙な虚無感を覚えた。
間違いなく、自分が『帝国』という言葉から想像していたものとは、何もかもが違っていた。
◇ ◇ ◇
一行が切り立った崖に囲まれた古い街道を通りかかった時、突如として悲痛な叫び声が響き渡った。
「離せ! 行かせてくれ!」
「お兄ちゃん、助けて!」
冒険者の甲冑を身に纏った三人の男たちが、太い縄で縛られた数人の小さな悪魔たちを引きずりながら、下劣な笑い声を上げていた。
それは、頭部に小さな角を持つ、まだほんの子供たちだった。
子供の一人が縄を解いて逃げ出そうとしたが、先頭にいた冒険者が、容赦なく大剣の柄頭でその頭を叩きつけた。
ゴンッ!!
「大人しくしてろ、生ゴミが!」
男が怒鳴りつける。
子供たちは恐怖のあまり泣き叫び始めた。吉田は街道の真ん中でピタリと足を止めた。
「……あいつら、一体何をしてるんだ?」
シェイリーは落胆したように溜息を吐き、彼の肩に手を置いた。
「ダメよ、吉田……私たちの問題じゃないわ」
「首を突っ込むんじゃないよ、坊や」
エレノアも真剣なトーンで制した。
「ここでは日常茶飯事さ」
冒険者の一人が一行の気配に気づき、振り返ると、黄色く濁った歯を剥き出しにして下品に笑った。
「国境で売り飛ばすんだよ、決まってるだろ」
男は硬貨の詰まった袋を取り出し、ジャラジャラと音を鳴らしてみせた。
「奴れい商人どもが、こういう若い悪魔をいい値段で買い取ってくれるんでね」
四人の王宮騎士たちは、即座に視線を伏せた。オーウェン卿の声には、深い苦渋が混ざっていた。
「南方の多くの王国において……悪魔は人間として認められていない。単なる商品か、家畜、あるいは労働の道具に過ぎんのだ」
吉田の胸の奥が、激しい怒りで沸騰し始めた。
彼は一歩前に進み出ると、男たちに鋭い視線を突き刺した。
「おい、糞野郎ども。その子たちを離せ」
傭兵たちは一斉に爆笑し、彼を小馬鹿にした。
「あぁ? テメェ一体何様のつもりだ、ガキが」
一人が長剣を引き抜いた。
「死にたく なけりゃ、さっさと失せな」
吉田は警告を完全に無視し、真っ直ぐに前進した。
その声は完全に冷え切り、旅慣れた戦士のような冷徹さが漂っていた。
「……離せと言っているんだ」
三人の男たちは痺れを切らし、同時に襲いかかってきた。
最初の一人が力強く跳躍し、吉田の脳天に向けて大剣を真っ直ぐに振り下ろした。
キィィィンッ!!
吉田はその凄まじい衝撃を、片手で握った己の漆黒の剣だけで完璧に受け止めた。
荒削りながらも勢いを殺さず、鋭く身体を反転させる。
ドカッ!!
容赦のない凄まじい回し蹴りが冒険者の腹部を捉え、男の身体を数メートル後方へと吹き飛ばした。男は背後の岩壁に激しく激突した。
二人目の傭兵がすぐさま彼の右側面から急速に接近し、胸を突き刺んと鋭い刺突を放ってきた。
シュッッ!
吉田は手首の最小限の動きだけで敵の刃を受け流し、至近距離に入り込んだ瞬間、剣の金属製の柄頭で男の下顎を激しく殴りつけた。
冒険者は一言も発することなく地面に頽れ、完全に意識を失った。
三人目の襲撃者が、両手で巨大な戦斧を掲げながら狂ったように咆哮した。
「死ねや、ガキがァァ!!」
身体を真っ二つに叩き割るような勢いで斧が振り下ろされる。
吉田は一歩も退かなかった。ミリ単位の正確さで、一歩だけ前に踏み込む。
ズバッ……シェキィンッ!!
吉田の放った一閃が、空中を静止するように斧の木製の柄を綺麗に切断した。
冒険者は、使い物にならなくなった木切れを持ったまま、完全にその場に凍りついた。
少年の鋭利な鋼の切っ先は、すでに男の喉元へとピタリと突きつけられている。
「命が惜しければ、失せろ」
吉田が冷酷に言い放った。
恐怖にガタガタと震え上がる三人の男たちは、負傷した仲間を担ぎ上げ、大慌てで荷物をまとめると、這う這うの体で街道の彼方へと逃げ去っていった。
「やれやれ……あの冒険者ども、低ランクのようだったね。期待外れさ」
エレノアが溜息を漏らした。
「吉田、それは良くないわ」
シェイリーが苦言を呈した。
小さな悪魔たちは、信じられないものを見たかのように、数秒間地面で呆然としていた。
やがて、一人の子供が安堵のあまり大粒の涙を流して泣き出した。
「あ、ありがとう……本当に、ありがとう……」
もう一人の子供が立ち上がり、彼向かって深く頭を垂れた。
「本当にありがとうございました、人間の旦那様」
吉田は剣を鞘に収めると、いつもの不器用な笑みを浮かべ、バツが悪そうに後頭部を掻いた。
「礼なんていいよ」
「それに、僕は人間じゃないしね……」
恐怖の消え去った子供たちは、嬉しそうに彼の周囲を取り囲み始めた。
一人が彼の左手を握り、もう一人が服の袖を引っ張り、小さなミノタウロスの赤ちゃんに至っては、抱っこを求めるように小さな両腕を差し出してきた。
エレノアはその微笑ましい光景を後ろから眺め、楽しげに口元を歪めた。
「へぇ、すっかり子守役に就任したようだね、このヨシバカが」
「……その『ヨシバカ』っての、いい加減にやめてくれないか?」
「シェイリー、あたしたちの相棒の新しい名前、何がいいと思う?」
「そうね……『ヨシバカ』なんて、すごくお似合いじゃないかしら?」
後ろに従う騎士たちは、必死に笑いを噛み殺しながら彼らの後に続いた。
◇ ◇ ◇
救出された子供たちの案内により、一行は崖の近道を通り抜け、大陸のさらに南方に位置する小さな街へと到着した。
そこは混沌としており、手入れの行き届いていない雑多な場所だった。石造りの城壁はメンテナンス不足で部分的に崩落しており、市場には大した商品も並んでいない。
しかし、通りを行き交う住人たちは、武装した人間たちが自分たちの中を歩いているのを見ても、驚く様子も警戒する様子もなかった。
入り口を守っていた衛兵の一人である狼の獣人は、自身の詰め所から退屈そうに視線を向けただけだった。
「人間か?」
「いや」
エレノアが簡潔に答えた。
「通りな。問題を起こすんじゃないぞ」
それだけだった。拍子抜けするほどに、簡潔なやり取り。吉田はメインストリートを歩きながら眉をひそめた。
「本当に、僕たちがここにいても気にしないんだな? 疑ったりしないのか?」
シェイリーは穏やかに首を横に振った。
「私たちが人間ではないと言っている限り、彼らは気にしないわ。ここでは多くの異なる闇の血族が共生しているから、最初から誰かを無条件に疑うような真似はしないのよ」
エレノアは皮肉げに頭を掻いた。
「自分たちの身のためにならないほど、お人好しすぎるのさ。私欲に塗れた人間から見れば、その無警戒さこそが彼らの不幸の根源なんだよ」
「全く、悪魔の連中も、自分たちの王様に負けず劣らずの『ヨシバカ』ってわけさね」
「エレノア!」
吉田が抗議の声を上げた。
ようやく休憩と食事のために小さな宿屋を見つけた時、吉田はテーブルの上に本題を切り出した。
「僕たちは、この場所の統治者か皇子との緊急の謁見を取り付ける必要がある……時間がないんだ。ここに遊びに来たわけじゃない」
四人の王宮騎士たちは、テーブルを囲みながら懸念に満ちた視線を交わし合った。
エレノアは乾いた笑いを漏らし、首を横に振った。
「そんなの、短期間じゃ絶対に不可能だよ、坊や。この巨大な大陸の、さらに最北端に帝国の首都があるんだからね」
彼女は窓の外に視線を向けた。
「この足で歩いていくとなると……宮殿の門に辿り着くだけで、丸数ヶ月はかかるよ」
シェイリーが、ひどく沈んだ、悲しみに満ちた低い声で付け足した。
「あるいは、私たちが首都に足を踏み入れる頃には……ローズはすでにワーウィックで裁判にかけられ、処刑されているわ」
テーブルを囲む一行を、重苦しい静寂が支配した。
吉田はテーブルの下で、爪が肉に食い込むほどに強く拳を握りしめた。
この大陸で無駄にされる呪わしい一日一日が、ローズを死へと確実に一歩ずつ近づけているのだ。
その時、吉田の脳裏に、カサンドラが手紙の最後に遺した言葉が鮮明に蘇った。
『もしローズを救いたいと願うなら……まず魔神帝国をあなたの味方にしなさい』
吉田は窓越しにゆっくりと視線を上げ、灰色の雲の下に聳え立つ、北方の暗く雄大な山々をじっと見つめた。
この乾いた大地に足を踏み入れて以来初めて、彼は自分の旅の真の重みと、その始まりを本当の意味で理解した。
彼は単に、親愛なる少女を救い出すための救出の旅にやってきたわけではないのだ。
彼はやってきたのだ――運命の予言が示す、己が統べるべき王国を、力ずくで征服するために。
こんにちは、作者です。
私は海外の作者なのですが、一つ皆さんに説明したいことがあります。日本語は本当に複雑で難しいですね…!
実は、作中で「悪魔」という言葉を使う際、日本語には「悪魔」と「魔族」という2つの異なる表現があることを知りませんでした。執筆においてこれは本当に大きな挑戦でした。
作中には似たような表現がたくさん出てきますが、作品全体の整合性を保つため、あえて過去の表現は修正しないことに決めました。
私の作品における「悪魔/魔族」とは、"黒い血"を持つ者たちのことです。彼らの種族はオーク、オーガ、ミノタウロスなど様々ですが、血が黒ければすべて「悪魔」、あるいは「魔族」に属する者たちという設定になっています。
拙い部分もあるかと思いますが、これからも作品を楽しんでいただけると幸いです!




