第67話:北の魔神帝国へ向かって
エレノア・アラソーンが接収した航海船は、ヘッセン王国を背後に残しながら、果てしない大海原を穏やかに進んでいた。
吉田たちが国を追放されてから、すでに数日。
いまや海賊船となった大船の白い帆を、心地よい海風が力強く膨らませていく。
船体にぶつかる波の一定の音だけが、彼らの旅路に付き添う唯一の旋律となっていた。
ザザァーッ……ザザァーッ……!
航海は墓場のような静寂の中で進み、誰もがそれぞれの思考の深淵に没頭しているようだった。
吉田は木製の欄干に身を預け、広大な海洋をじっと見つめていた。
あの王城の地下墓地での緊迫した会議以来、彼はほとんど言葉を発していない。
五人の魔導王に捕らえられ、引きずられていったローズの姿が何度も脳裏に蘇り、そのたびに激しい無力感が彼を苛んでいた。
その時、波を切り裂きながら、遠くから一隻の小さな小舟が近づいてくるのが見えた。明らかに、エレノアの船を追跡してきている。
「右舷に船影!」
マストの頂上から、にわか船乗りに身を転じた騎士の一人が大声を張り上げた。
エレノアは一時的に舵から手を離すと、目を細めて注意深くその姿を観察した。
小舟のメインマストには、ヘッセン王国の国旗が力強く翻っている。
「武器を構えるんじゃないよ……伝令のようだね」
女海賊がそう命じた。
「――吉田カトウ殿」
少年は明らかに困惑した様子で顔を上げた。
騎士は言葉を発する前に、短く、そして規律正しい軍隊式の敬礼を捧げた。
「カサンドラ王女殿下より、お前たちが公海に出てからこの手紙を渡すよう命じられていた。いかなる事情があろうとも、それ以前に受け取らせてはならない、と」
彼は鎧の隙間から、ゼドリエル王家の紋章が刻まれた赤い封蝋で完全に密閉された封筒を取り出した。
吉田は奇妙に思いながらもその手紙を受け取った。
彼が再び顔を上げた時、騎士はそれ以上一言も発することなく、すでに自分の小舟へと大急ぎで下りていくところだった。
ピシッ……ペリッ……!
少年の不器用な指先によって封蝋が砕かれ、そこから王女の気品あふれる完璧な筆跡が現れた。
この時点までに、吉田は完璧ではないにしろ、すでにこの世界の言語をある程度読めるようになっていた。
彼が手紙を読み始めると、エレノアとシェイリーが明らかな好奇心を覗かせながら背後から近づいてきた。
だが、冒頭の数行を目にした瞬間、吉田の表情は完全に強張った。
『吉田。あなたがこの手紙を読んでいるということは、すでにヘッセンを離れたということね。まず最初にあなたに強く求めます。――絶対にウォーリックへ行ってはならないわ』
『もしあの国に足を踏み入れれば、あなたも、あなたに同行する者たちも全員死ぬことになる。五人の魔導王は、間違いなくウォーリックであなたを待ち構えているはずよ』
甲板の上に、氷の塊が落とされたかのような沈黙が降りた。
吉田はゆっくりと頭を上げ、二人の少女たちに視線を向けた。
「……あの連中って、本当にそんなに危険なのか?」
シェイリーが即座に答えた。いつものからかうような軽快なトーンは、そこには微塵も残されていなかった。
「あなたが想像している以上に遥かに危険よ、吉田」
「魔導王一人の実力は……」
彼女は深く息を吸い込んだ。
「――完璧な連携で同時に戦う、五十人以上の精鋭チャンピオンに匹敵するわ」
彼らの後ろで、ヘッセンの四人の王宮騎士たちが深い懸念に満ちた視線を交わし合い、一人、また一人と少女たちの隣に並んで手紙を覗き込んだ。エレノアの顔からも、いつもの不敵な笑みが消え失せていた。
「耳長の言うことは大袈裟じゃないよ」
女海賊が言葉を添えた。
「あいつらはチャンピオンなんて玩具とは比べ物にならないくらい強い。あたしの記憶が確かならね」
「……まあ、魔導王は強いけれど、あのザリアの狂った小娘ほどじゃないさ」
『もし、あなたが本当にローズを奪還したいと願うのなら……ウォーリックの全戦力と正面から渡り合えるほどの、怪物じみた軍事力が必要不可欠よ。そして、その軍勢が存在する場所は、地図上でただ一つしか存在しないわ』
紙面に踊る次の言葉を目にした瞬間、百戦錬磨の騎士たちの目が見開かれた。
『――魔神帝国を従えなさい。彼らが何世紀もの間待ち望んできた「王」になるのよ。それだけの力を手にして初めて、ウォーリックの忌々しい生ゴミどもを滅ぼす真の力が手に入るわ』
「そんなものは、ただの狂気の沙汰だ……!」
オーウェン卿が、一瞬だけ理性を失ったように声を荒らげた。
「吉田殿に、悪魔たちの絶対的な君主になれと言うのか……?」
「……いや、完全に理にかなっている」
甲板にいる全員の視線が彼へと注がれた。屈強な騎士は鎧の上で腕を組んだ。
「もしあの会議で語られたことが真実であり、吉田殿が本当に『魔王』であるならば……魔王帝国こそが、ウォーリックを相手に一日で全滅することなく対抗できる、この大陸で唯一の軍勢だ」
ガレス卿もゆっくりと頷き、残酷な現実を肯定した。
「現在の人間族の王国には、大規模な戦争を再び引き起こすだけの国力も、軍事的な安定も残されていないのが現状だからな」
吉田は手の中に握られた紙を、少しだけ強く握りしめた。運命の重圧に押し潰されそうな少年の、張り詰めた神経が指先に伝わる。
「僕は帝国なんて欲しくない……」
「ただ……ローズを取り戻したいだけなんだ」
手紙の末尾には、別のインクで大急ぎで書き殴られたような追伸が残されていたのだ。
『追伸:あなたの気持ちが早く整理されることを願っているわ。あの夜、あなたの部屋で起きた出来事について、まだ正式な返事をもらっていないものね』
少年は、喉を大きく鳴らして生唾を飲み込んだ。
冷や汗を流しながら、彼は極めてゆっくりと顔を上げた。
いつの間にかシェイリーとエレノアが、彼の肩越しに全く同じ行を凝視していた。二人の少女は同時に顔を回し、吉田の顔に鋭い視線を突き刺した。
「……ねえ、どこの夜の話だい?」
エレノアが、危険なほど声を低く引きずりながら問いかけてきた。
「そうね……? 一体全体、あの部屋で何があったのかしら?」
シェイリーもまた、目を細めて首を傾げながら言葉を重ねる。
吉田は、背筋を凍りつくような冷たい汗が流れ落ちるのを感じていた。
◇ ◇ ◇
それからしばらくして、四人の騎士たちは彼らにプライドに配慮した空間を与えるため、船首の方で剣の訓練に励んでいた。
もっとも、実態としてはエレノアが吉田の耳を引っ張り、甲板の隅へと引きずり出しただけなのだが。
「さあ、吐きな。このドブネズミ」
「な、何が……? 僕は二人が何のことを言ってるのかさっぱり……」
「言いなさい。今すぐに」
エレノアが腕を組み、冷酷に宣告した。
シェイリーもその隣に立ち、彼のあらゆる退路を塞ぎにかかる。
「今回は逃がさないわよ、吉田。話しなさい」
少年は降伏の意思を示すように、長くて重い溜息を漏らした。
二人の圧倒的なプレッシャーの前に万策尽き、彼は経験のない思春期の少年特有の不器用さと気まずさを全開にしながら、事の顛末を話し始めた。ネグリジェ姿の王女が突然夜更けに訪問してきたことから……あのキスに至るまで。
シ――ン……
「――この、大馬鹿野郎ッ!!」
ドカッ!!
エレノアが、吉田の後頭部に強烈な一撃を叩き込んだ。
「王女様とキスしておきながら、何事もなかったかのように振る舞うなんて、どんな神経してんだい、この朴念仁がッ!!」
「いってぇ! 何するんだよ!」
バシッ!!
シェイリーからも、額への正確無比なデコピンが飛んできた。
「私たちは……私は、あなたを本当に真面目で誠実な男の子だと思っていたのに……!」
「不可抗力だったんだって! それに、本当にそれ以上のことは何もしてないから!」
「いいかい、よく聞きな、この人間のクズ。ローズはね……あの日の夜、あんたに告白するつもりだったんだよ」
少年は、その場に完全に凝固した。
「……え?」
「私たちが彼女のために、素敵なドレスを選んであげて……香水をつけさせて……一時間近くも彼女を励まして、勇気づけていたのよ」
「あいつは真っ直ぐあんたの部屋に向かってたんだ」
「あの夜、あんたへの愛を告げるためにね」
吉田の中で、世界のすべてが停止した。
彼は失踪直前のローズの姿を思い返していた。あの不器用な照れ笑い、アルタクレスタの戦いの後にくれた温かい抱擁、どんな時であっても無条件で自分の傍に立ち続けてくれた彼女の姿。
彼女が――ただの一秒たりとも、自分のために戦うことを止めていなかったのだと、彼は今になってようやく理解した。
ギチィ……
そして彼は思い出した。アルタクレスタの地で、ローズがいつか自分に想いを告げると約束してくれたことを。そしてその告白は、皮肉にも今それを明かしている少女たちによって邪魔されたのだということも。
「本当に……大馬鹿者だね」
エレノアが、吐き捨てるようにそう締めくくった。
◇ ◇ ◇
遥か彼方、ヘッセンの王城では、依然として張り詰めた緊張感が火花を散らしていた。
カサンドラ王女は、未だに宮廷の回廊で兄に向かって毅然とした態度で議論をぶつけていた。
「理解できないわ、兄様……どうしてあんなことをしたの?」
レインエル・ゼドリエルは、ゼドリエル家の厳格な先祖たちの肖像画が並ぶ、長い画廊をゆっくりと歩いていた。
彼の履いた王のブーツが、磨き上げられた大理石の床に重々しく響く。
コツ、コツ、コツ……!
「予言が存在するからだ、カサンドラ。我が一族が何世紀もの間、絶対の機密として守り続けてきた暗黒の予言がな」
「それが、彼と何の関係があるというの?」
レインエルは、頑丈な強化ガラスによって厳重に保護された、一枚の巨大な古い絵画の前で足を止めた。
そこには、戦場の中心で燦然と輝く黄金の聖剣を掲げる、伝説の初代英雄カマエルの姿が描かれていた。
「我が先祖、ヘンリー三世ゼドリエル王は、ゼドリエル王家が完全に絶滅する日が訪れると書き遺した」
「――我が一族を破滅へと導く直接の張本人こそが、『魔王』であると」
ぞくっ……!
「最初は人間の中に混ざり、歩むだろう。親切で、不器用で、無害な存在に見えるはずだ。愛する者を守るために命を懸けることすらある。だが、絶望の日が訪れた時、真の怪物が覚醒し……世界全体の根底を揺るがすことになる」
「ヘンリー三世はただの酔っ払いよ……文字の書き方すら怪しかった男じゃない……」
「その通りだ。だからこそ、この手紙は『別の人間の手』によって代筆されたのだ」
レインエルは手を挙げ、その歴史的な絵画の中心を真っ直ぐに指さした。
「――彼だ」
カサンドラの視線は兄の指先を追い、そして人生で初めて、伝説の英雄カマエルの描かれた容姿を、極めて克明に、細部まで観察した。
その瞬間、彼女の呼吸が完全に止まった。
彼女の顔から、すべての血の気が一瞬にして引くように消え失せた。
◇ ◇ ◇
数日後、公海の上で、風向きが劇的に変化し始めた。
吉田たちの乗る船は、当初は島であったヘッセン王国の最南端に位置していたが、海岸線に沿って北上し、ついにその最北端を超えて完全に国を離脱していた。
突き抜けるような青空はゆっくりと姿を消し、闇に貪られていく。透き通っていた海水は、まるで墨のように重く濁った黒色へと変貌を遂げていた。
濃密な灰色の雲が水平線を完全に覆い尽くし、立ち込める海霧の隙間から、巨大で鋭利な黒い山々が少しずつその異形の姿を現し始める。
ゴォォォォ……
「……何なんだ、ここは」
「ようこそ、吉田……ここが、魔族たちの住まう大陸よ。」
「海賊としてのクソみたいな人生の中で……この海域にだけは、一度だって近づこうと思ったことはなかったね」
ヘッセンの四人の王宮騎士たちがメインデッキから姿を現し、鎧を微かに鳴らしながら、吉田の後ろに一列に整列した。
ジャキィッ……!
「レインエル・ゼドリエル王の命に従い、不肖ガレス」
「ルシアン」
「オーウェン」
「そして、ハロルド」
「我が王より、この暗黒の大陸への遠征において、あなたに仕え、守り、無条件で支援せよとの密命を授かっております。これより、我らの剣はすべてあなたのために」
「みんな……何が起きているのか、僕にはさっぱり分からないよ」
「我々は、あなたが思っているような形で追放されたわけではございません。魔王大陸に到達した瞬間に、我らの真の任務をあなたに明かすよう命じられていたのです」
「無茶苦茶だよ……みんなのことはもう、十分に知っているつもりなのに」
「ただの儀礼よ」
シェイリーが割り込んだ。
「何にせよ、助けてくれるっていうなら、ありがたいよ……」
その後、少年は再び、灰色の雲の下で無限に広がっているかのような陰鬱な大陸へと視線を戻した。
目の前にあるのは、完全に未知で、危険に満ちた土地。悪魔たちの故郷。
そして、あるいは――。
世界が恐れる『魔王』としての真の運命が、まさにここから幕を開けようとしていた。




