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第66話:魔王の追放

 マクシミリアンの悪政が終焉を迎え、オークヘヴンの王城にはかつての平穏が戻りつつあった。


 街の民衆が新王の即位に沸き立つ一方で、宮廷の奥底では新たな不穏の種が芽生え始めていた。


 ローズが姿を消してから、すでに数日が経過していた。

 最初は誰も深く気に留めていなかった。しかし、時間が経つにつれ、その失踪は無視できない重大な事態へと発展していく。


 アルウィンは城内に騎士たちを秘密裏に配備し、カサンドラ王女みずからが車椅子を進めさせ、使用人一人一人を呼び出してはローズの失踪当夜の行方について尋ね詰めた。

 だが、収穫は皆無だった。誰も彼女の姿を見ていない。まるで世界から煙のように消え失せてしまったかのようだった。


 ◇ ◇ ◇


 オークヘヴンの港では、巨大な海賊船たちが島々への帰還に向けて最終調整を行っていた。

 ザワザワと騒がしい港湾で、船乗りたちが樽を運び込み、帆を巻き上げ、下品な歌と笑い声を響かせながら錨を上げていく。


 エレノア・アラソーンは、腕を組んで岸壁から海を睨みつけていた。

 その数メートル後ろでは、シェイリー・ニンティネルが光の弓を背負い直している。彼女はアレッシオが未だに立てこもるテレスシアへ向け、国王軍と共に出撃する準備を整えていた。


 二人の間には、奇妙な沈黙が流れていた。


「……嫌な予感がするわ」


 エルフの少女がぽつりと呟いた。

 いつも不敵に笑っているエレノアの顔に笑みはない。これほど真剣な彼女を見るのは、極めて稀なことだった。


 女海賊は何も答えなかった。

 彼女はそのまま船に乗り込み、ギィィと帆が風をはらんで船団がゆっくりと港を離れ始める。

 彼女は、ヘッセン王国を去ろうとしていた。


 しかし、船がわずか数百メートルほど進んだその時、エレノアの背筋を奇妙な戦慄が駆け抜けた。

 彼女は怪訝そうに街を振り返り、眉をひそめると、理由の分からない深い溜息を漏らした。


「……船を戻しなさい」


 船乗りたちが困惑した顔で彼女を見た。


かしら?」


「戻せと言っているのさ」


「島はどうするんです?」


「……待たせておきな」


 その命令に異を唱える者はいなかった。

 ゴゴゴと巨大な海賊船がゆっくりと旋回を始める。残りの船団が遥か外海へと航海を続ける中、エレノアの船だけが港へと引き返していった。


 その頃、王都の郊外では、シェイリーがテレスシアを目指す国王軍の列に加わっていた。

 ザッザッ、と足音を響かせて身体は軍勢と共に前進していたが、彼女の心はただ一人、ローズのことだけを案じ続けていた。


 ◇ ◇ ◇


 その日の午後、静かな室内に三度の重々しい音が響いた。


 コン、コン、コン。


「――代表騎士チャンピオン殿」


 僕が勢いよく扉を開けると、そこには硬直した表情の近衛騎士が立っていた。


「カサンドラ王女殿下、および総司令官アルウィン様が、大至急あなたのお越しを求めておられます」


 兵士の声はあまりにも深刻だった。

 ドクン、と心臓が嫌な音を立てて跳ね上がり、背筋に冷や汗が伝わるのを覚えながら、取り返しのつかない何かが始まってしまったのだと悟った。


 上階の隠し部屋で行われた緊迫した密談の末、アルウィンと王女はある一つの結論に達していた。

 彼らはすぐさま、国王へと向けて早馬の伝令を飛ばした。


 パカパカと蹄の音を響かせ、書状は数時間前に軍を率いて出撃したばかりのレインエル・ゼドリエルの元へと直に届けられた。

 内容に目を通した若き王は、即座に全軍に行軍停止を命じた。


「――王城へ引き返す」


 将軍たちは一様に驚愕したが、その命令に異を唱える者は誰もいなかった。


 ◇ ◇ ◇


 翌朝、城の地下深くに存在する古の地下墓地カタコンベは、数十本もの松明の炎によって煌々と照らされていた。

 パチパチと薪の爆ぜる音が響くそこは、最高位の機密を扱う会議のためだけに用意された、ひどく陰鬱な場所だった。


 高位貴族や各地の領主、指揮官、そして宮廷魔術師たちが、巨大な石の円卓を囲んで一堂に会している。

 部屋の隅では、エレノアとシェイリーが壁に寄りかかり、腕を組んで僕の到着を静かに待っていた。


 数人の魔導騎士たちが床に巨大なルーンの術式を描き終えると、ブォンと強固な防護結界が起動した。


 その頃、僕は五人の精鋭騎士に護衛されながら、長い石階段をゆっくりと下りていた。

 コツン、コツン、と一歩進むごとに空気が重くなり、息苦しさが増していく。


 僕は、ローズが僕にくれた天空の剣を携えていくことに決めた。それが、彼女が遺してくれた唯一の絆だったから。

 一体全体、何が起きているのか分からなかった。だが、これほどの兵力に囲まれている状況が意味することは一つ。ただ事ではない何かが起きたのだ。


 重厚な石の扉をくぐり、僕が足を踏み入れた瞬間、室内のすべての視線が僕に突き刺さった。

 同時に魔術師たちが一斉に手を掲げると、キィィィンと濃密な青い結界が部屋全体を覆い尽くし、すべての退路が完全に封鎖された。


 僕は完全に混乱し、神経を尖らせながら周囲を見回した。


「怯える必要はないわ」


 カサンドラ王女が穏やかな声で語りかけてきた。


「これは単なる、安全上の措置よ」


 その言葉に、少しだけ心のトゲが抜けた。

 僕は小さく頷き、ぎこちない足取りでレインエル王とアルウィンの正面へと進み出た。


 場を満たす沈黙があまりにも息苦しく、窒息してしまいそうだった。

 やがて、アルウィンが静かに口を開いた。


 この老騎士は、僕が心から尊敬している人物だった。片足と片腕を失いながらも、その佇まいは相変わらず圧倒的な威厳に満ちている。


「吉田……お前が今もこうして生きていられるのは、お前の真の正体が未だ隠蔽されているからだ。もし他国にお前の正体が知れれば、我々であってもお前を庇いきることはできん」


 エレノアがギリッと不快そうに奥歯を噛み締めた。僕たちが彼女と出会って以来、これほど露骨に怒りを露わにしたのは初めてのことだった。隣のシェイリーは、これから語られる内容を予期しているかのように、静かに俯いていた。


 正式に王位を継いだレインエルが、厳粛な眼差しで僕を真っ直ぐに見つめて言い放った。


「――ロゼット・ベイカーが捕縛された。我々はそう確信している。彼女は秘密裏にウォーリックへと連行された。裁判にかけられ、その後……処刑される」


 足元の床が崩れ落ちるかのような感覚に襲われ、目の前が真っ白になった。


 ドクンドクンと全身の血液が血管の中で一瞬にして凍りつき、恐怖で瞳孔が限界まで収縮する。

 同時に、僕の身体の奥底から、禍々しく燃え盛るほどの凶悪な圧力が爆発的に吹き荒れた。


 ドォォォォンッ!!


 凄まじい衝撃に石壁が激しく震動し、床に描かれた魔法結界にピキピキと亀裂が走り始める。

 周囲の魔術師たちは恐怖に顔を歪め、均衡を崩してたまらず後退した。


「結界を補強しろッ!!」


 五人の魔術師が慌てて魔力を注ぎ込み、天井をも崩落させかねない闇のエネルギーの奔流を必死に抑え込もうとする。あまりのプレッシャーに、何人かの貴族はその場に膝をつき、恐怖に震えながら僕を見上げていた。


 誰もが、僕を怪物を見るような目で見ていた。

 数秒の間、かつてアルウィンが僕に告げた言葉が脳裏で激しく木霊した。


(落ち着け……冷静になるんだ……!)


 僕は奥歯を砕けんばかりにガチリと噛み締め、拳を血がにじむほど強く握りしめて、暴れだそうとする身体をどうにか力ずくで抑え込んだ。

 視線を上げた時、僕に残された道は、ただ一つしかなかった。


 バサッ、と僕は床に膝をつき、プライドをすべて投げ捨てて懇願した。


「……陛下……どうか、どうか彼女を助けてください」


 静まり返った地下室に、僕の悲痛な声が響く。これまでの人生で、己のプライドを完璧にへし折って他人に助けを求めたことなんて、一度もなかった。


 しかし、レインエルは冷徹な眼差しを僕に向けたまま微動だにせず、やがてゆっくりと首を横に振った。


「……断る。私にはできない」


「王国の法は、お前の処刑を求めている。私が未だにその法を執行せぬのは、ただ一人の妹への情に免じてのことに過ぎん」


 怒りで、頭が沸騰しそうだった。


「僕たちが、あなたのためにどれだけのことをしたと思っているんだ……!?」


 僕の声から敬意が完全に消え失せ、低く冷たい怒気が混ざり始める。


「エリックは王女を守って死んだ! ローズだって、死にかけながら最後まで戦ったんだぞ!」


 僕は歯を剥き出しにし、一歩前に踏み出した。


「僕は……あんたがその薄汚い王座に居座るために、十二人もの代表騎士チャンピオンを殺したんだぞ!」


 僕のあまりの不敬極まる暴言に、貴族たちは完全に絶句した。レインエルは静かに瞳を閉じる。

 彼が言葉を発するより早く、アルウィンが厳格な声で割って入った。


「吉田、そこまでだ。お前の気持ちは痛いほど分かる。だが忘れるな、現在のお前は『王国の代表騎士チャンピオン』に任命された身だ。騎士たる者、王に対する忠義と服従を忘れてはならん」


 僕は悔しさに唇を噛み、拳を握りしめたまま、力なく頭を垂れるしかなかった。


「お前には感謝している。お前が想像している以上にな」


 レインエルが言葉を紡ぎ直す。


「だからこそ、私はまだ法を執行していないのだ。だがな、吉田。この世界に都合の良い御伽噺ファンタジーなどは存在しない。ウォーリックがお前との交渉に応じるはずもなく、今のヘッセン王国には、再び大戦を引き起こすだけの大国としての国力は残されていないのだ」


 アルウィンが僕を宥めるように、苦渋に満ちた声を付け足した。


「ウォーリックの統治様式は、我が国とは少々異なる。あの国の人間は、騎士の『名誉の掟』に異常なほど忠実なのだ。慣習に従えば、ローズはどのような判決が下されるにせよ、必ず正式な裁判にかけられる。処刑が執行されるまで、およそ五週間の猶予があると我々は踏んでいる」


 僕はガバッと勢いよく顔を上げた。

 五週間。まだ、時間は残されている。


「なら、僕が自分で彼女を連れ戻しに行きます」


 僕は完全に揺るぎない声で断言した。

 国王が一歩前に進み出、その鋭い眼差しで僕を値踏みするように問いかけてきた。


「何故だ?」


 その問いに、一瞬だけ思考が凍りついた。

 何故、僕は自ら敵の牙城へと赴き、命の危険を冒そうとしているのだろうか。


 脳裏に、彼女との無数の記憶が怒涛の勢いで駆け巡った。

 僕をからかうように不器用な笑顔を浮かべるローズ。躊躇なく海へ飛び込んだローズ。最前線で敵の大軍に立ち向かったローズ。


 アルタクレスタの後に僕を強く抱きしめてくれたこと。ミルバーで世界中のすべてが僕の死を望んだ時、その華奢な身体で僕を守り抜いてくれたこと。

 彼女はいつだって、僕の傍にいてくれた。いつでも、どんな時でも。


 世界公敵となった彼女の行方を追い、自らも「魔王」の宿命を背負うと決めたこの地で、僕は人生で初めて、臆病者であることを辞め、答えから逃げるのを辞めた。


「……彼女の、傍にいたいからです」


 地下墓地に、完全な静寂が訪れた。

 カサンドラ王女は静かに目を閉じ、その顔にどこか寂しげな、しかし優しい微笑を浮かべた。

 レインエルは深く息を吐き出し、張り詰めていた室内の緊張を解いた。


「――ならば、ヘッセン王国の王として、お前をこの国から『追放』する」


「兄様!?」


 カサンドラが即座に抗議の声を上げたが、レインエルは手を掲げてそれを制した。


「お前をこの国に留めておくわけにはいかない。だが……」


 王は、部屋を警護していた四人の精鋭騎士たちを真っ直ぐに見据えた。


「ガレス卿、オーウェン卿、ルシアン卿、ハロルド卿。本日より、お前たちは吉田に同行せよ。これが、お前たちのヘッセン王国の騎士としての、最後の任務だ」


 その瞬間、石壁に響き渡るほどの、完全な軽蔑に満ちたエレノアの爆笑が炸裂した。


「ハッ! ギャハハハハハ! あんたがこんな意気地なしのクソ王になると知ってりゃ、あたしはあんたみたいなゴミのために指一本動かしやしなかったよ!」


 貴族たちが激昂し、ダンッ、と石卓を激しく叩きつけた。


「無礼者がッ!」


「下賤な海賊風情がッ!


 だが、レインエルは彼らに視線すら向けず、ただ僕だけを見つめていた。


「お前の存在は、この世界には容認されない。私が約束を守り、ゼドリエルの名誉を汚さぬために、今ここで命を奪わないだけだ。――去るがいい、魔王」


 フッ……と魔法の結界が完全に霧散した。

 会議は終了した。お世辞にも、友好的とは言えない形で。


 僕は憤慨しながら部屋を後にした。シェイリーとエレノアが僕のすぐ後ろに続き、さらにその後ろからは、王によって同じく追放を言い渡された四人の騎士たちが従っていた。


「ゼドリエルの名誉のために殺さない、か……。やれるもんなら、自分でやってみやがれってんだ」


 僕は吐き捨てるように、嫌悪感を込めて小さく呟いた。


 ◇ ◇ ◇


 その日の夕方、オークヘヴンの港には、王国の海軍によって用意された完全武装の航海船が停泊していた。王城での冷徹な対応の裏で、あらかじめ手筈が整えられていたのだろう。


 エレノアは船を見上げると、皮肉げに口元を歪めて笑った。


「ふん……せめてもの罪滅ぼしに、上等な船を寄こす度量だけはあったってわけかい」


 どうやら他の海賊たちは、エレノアが僕のために引き返す決断をした時点で、彼女を置いて行ってしまったようだった。義理も人情もない連中だ。今回は、本当に僕たちだけしかいない。


 僕はただ黙り込んだまま、甲板の木目をじっと見つめていた。

 レインエルに送り出された四人の騎士たちが僕の後ろに整列する。不満を漏らす者は誰一人おらず、僕としても彼らの助力を拒むような立場にはなかった。

 この四人とは以前からの知り合いであり、僕に対して敬意を抱いてくれている。なぜなら彼らは、あの凄惨を極めたアルタクレスタの戦いでほぼ壊滅した、栄光ある近衛騎士団の生き残りだったからだ。

 要するに彼らもまた、僕と共に最も不名誉な形で国を追われた同志なのだ。


 こうして何の予兆もなく、僕は王国を追放された。

 当初の約束とは違っていたけれど、あの傲慢なクソ王の思惑がなければ、王女との運命もまた違った結末を迎えていたのかもしれない。


 ゴオォォ……と船がゆっくりと港を離れ始めた時、僕は最後にもう一度だけ、遥か高くにそびえ立つ王城を見上げた。


 最も高い塔の窓辺、開け放たれたカーテンの隙間に隠れるようにして、カサンドラ王女が僕たちの船が水平線の彼方へと消え去っていくのをじっと見つめていた。


 彼女は手を振らなかった。叫びもしなかった。涙を流すことすらなかった。


 ただ人形のように佇んだまま、僕がヘッセン王国を永遠に去っていくその姿を、いつまでも、静かに見送っていた。

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