第65話:失踪
【吉田視点】
もう、何が何だか分からなかった。
頭の中が完全に真っ白になっていた。
僕は少し力を込め、身体を全く動かせないカサンドラを傷つけないよう慎重に両腕で抱き上げた。
そして、自分のベッドの上へとゆっくりと横たえた。
客室は狭く、机とクローゼット、そして彼女が横たわるマットレスだけで床がほとんど埋まってしまう。
開け放たれた窓からは、月光が静かに城内を照らし、夜風がカーテンを緩やかに揺らしていた。
二人の間に、沈黙が流れる。
自分の心臓の鼓動が、耳の奥で激しく跳ね返るのが聞こえた。
(まさか……人生でヘッセン王国の王女殿下と部屋で二人きり、それも同じベッドの上にいるなんて想像すらしていなかった……)
「……こんな風に押しかけてしまって、ごめんなさい」
カサンドラが申し訳なさそうに視線を落とし、ぽつりと呟いた。
「自分でも、とても奇妙な状況だと分かっているのだけれど」
僕は完全に干からびた喉を震わせ、生唾を飲み込んだ。
「い、いや……その……あの……ええと……」
言葉が全くまとまらない。
すると、彼女はクスッと小さく笑った。
その瞬間、彼女が高貴な王女としてではなく、僕と同じように圧倒的な気恥ずかしさを共有している「一人の女の子」なのだと気づかされた。
カサンドラは深く息を吸い込むと、意を決したように僕を真っ直ぐに見つめてきた。
「吉田……あなたに、伝えなければならないことがあるの」
彼女の紫水晶のような瞳が小刻みに震え、白い頬が瞬く間に紅潮していく。
永遠のようにも思える数秒の沈黙の後、彼女は再び言葉を紡ごうとした。
「私は……その……ううん……」
彼女は自分の動かない身体に、もどかしそうに一度首を振った。
そして、もう一度だけ覚悟を決める。
「……もう、隠し通すことはできないわ」
ゆっくりと顔を上げた彼女の美しい紫の瞳が、薄暗闇の中で妖しく輝き、僕の視線を完全に捕らえて離さない。
「――私、あなたに恋をしているの」
世界の時間が、ピタリと止まった。
胃の奥が激しくひっくり返るような衝動が駆け巡る。
心臓の音がうるさすぎて、胸の騒ぎが彼女に聞こえてしまうんじゃないかと恐怖を覚えるほどだった。
僕は完全に思考がフリーズしたまま、ただの抜け作のように彼女を見つめ返すことしかできなかった。
月光に照らされた彼女の栗色の髪が、まるで滝のように枕の上に広がっている。
窓から差し込む微かな光が、その肌をまるで高級な磁器のように透き通らせ、その愛らしい赤みが、その美しさを一層際立たせていた。
視線を逸らすことなんてできなかった。
もし今、瞬きでもしてしまえば、この美しい呪縛が解けてしまうような気がしたから。
「王、王女殿下……」
「いいえ」
彼女は照れくさそうに、はにかんだ。
「今夜の私は、王女としてここへ来たわけではないわ」
逃げ場をなくすほどに、彼女の視線が僕の心の奥底へと突き刺さる。
「……一人の女性として、あなたに会いに来たの」
その言葉に、僕の思考は完全にショートした。これまでの人生で、こんな劇的な経験をしたことなんて一度もない、ただの平凡な男子高校生だったんだから。誰かに告白されるなんて、前世の日本では天地がひっくり返ってもあり得ないことだったのだ。
(ああ、クソ……僕にとってはあまりにも現実味がなさすぎる……彼女の気持ちは分かる、分かるんだ。だけど……)
彼女とは違い、日本にいた頃の僕は孤独を約束された「身体の不自由な人間」だった。
ただの足手まといにしかならない男に、好意の目を向ける女の子なんて一人もいなかったのだから。
だからこそ、今の状況がどうしても信じられず、戸惑いが勝ってしまう。
僕の思考は一瞬で大混沌に陥り、感情が爆発しそうだった。
目の前のカサンドラをじっと見つめる。どんな男であっても決して抗えないほど、今の彼女が恐ろしく綺麗だということだけは否定できなかった。
自分の身に何が起きているのか、もう分からなかった。
理性が、強烈な感情に完全に押し流されていく。
僕は考えるよりも先に、突き動かされるような不器用な衝動のまま、ゆっくりと手を伸ばした。
そして、僕の指先が彼女の柔らかな頬にそっと触れた。
カサンドラはその感触にそっと瞳を閉じ、僕の手の温もりを求めるように、わずかに首を傾げた。
完全に意識を奪われ、催眠にでもかかったかのような心地だった。
僕たちの顔が、一ミリ、また一ミリと近づいていく。
吐息が触れ合うほどの距離で、彼女の熱が僕の息と混ざり合い、脈拍が有り得ないほどの速度で跳ね上がっていく。
思考を放棄した。世界のことなんて、どうでもよくなった。
重なった唇は、短く、不器用で、ひどく自信のなさが滲み出るようなキスだった。
どうすればいいのか正解なんて全く分からなかったけれど、僕はただ、彼女の唇から伝わる信じられないほどの甘さに身を委ねていた。
足元の床が消えてなくなっていくような錯覚を覚える。
彼女の髪の馨しい香りと、唇の柔らかさに、この人を一生守り抜きたいという強い衝動が胸の奥から湧き上がってきた。
――しかし。
その瞬間、頭から冷水を浴びせられたかのように、ある記憶が鮮烈に脳裏をよぎった。
漆黒の髪。鮮血のような、紅蓮の瞳。
過酷な戦場を生き延びた後、血塗れの姿でありながらも、僕に向かって誇らしげに笑ってみせた「一人の女騎士」の姿。
(……ローズ)
僕はハッと我に返り、自分の行動に恐怖しながら、弾かれたようにすぐさま身体を引き離した。
「……す、すみません」
王女はシーツの上で身を微動だにさせず、静寂が再び満ちた部屋の中で、ただじっと僕を見つめていた。
その瞬間、僕たちの間で全く同じ了解が成立した。
何かが、決定的に噛み合わなかったのだ。
僕は世界で一番最悪な人間にでもなった気分で、力なく視線を落とした。
「許してください……こんなの、こんなことは間違っています」
彼女は小さく息を漏らすと、その唇にどこか物悲しい笑みを浮かべた。
「そう……そうなのね」
その瞳に怒りはなかった。ただ、魂がすり減るほどに深い落胆の光があり、それが僕の胸を締め付けた。
「少し、衝動的になりすぎてしまったかしら」
「違っ……そういうわけじゃありません!」
僕は動揺を隠せないまま、必死に誤魔化すように後頭部をバリバリと掻いた。
「王女殿下が僕に向けてくれた気持ちは、本当に嬉しいんです。心から尊敬しているし、大切に思っています。だけど……どうしてか、今の僕は自分自身の気持ちすら、まだよく分かっていないんです」
彼女は数秒の間、静かに沈黙を保っていたが、やがて酷く穏やかな声で一つの問いを投げかけてきた。
「それは……ロゼット・ベイカーと、何か関係があるのかしら?」
その直球の質問に、全身の血が凍りつくような衝撃を覚えた。
頭の中で必死に明確な答えを探そうとしたけれど、見つかるのは混沌とした濁流だけだった。
「分かりません……」
僕は誤魔化すこともできず、ただ正直に白状した。
「自分が何を求めているのか、本当に分からないんです」
すると、カサンドラは思いがけないほど深い慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「なら……私にも、まだ希望はあるということね」
彼女は小さく溜息をつくと、言葉を続けた。
「こんな夜更けに押しかけてしまって、本当にごめんなさい。決して、正しいやり方ではなかったわ」
まさか彼女の口からそんな言葉が出るとは思わず、僕は純粋な疑問を口にした。
「それじゃあ……どうして、あんな無理をしたんですか?」
「ふふっ、そうね……。もしかしたら……」
彼女の表情から笑みが消え、一転して真剣な面持ちになると、部屋の甘い空気は一瞬で霧散した。
「――私の兄から、強い圧力がかかっているからよ。吉田、あなたがこの王国を救ってくれた英雄だとしても……世界から見れば、あなたは今もなお『魔王』のままなの」
背筋に、ゾクッとした冷たい戦慄が走った。
「多くの貴族たちがあなたの追放を叫び、一部の者は即刻の処刑を求めているわ。レインエル・ゼドリエルは私が交わした約束を果たそうと必死になってくれているけれど、王としての彼の立場はとても危ういの。もし私が今の女王だったなら、天と地を引っくり返してでもあなたを守ってみせるけれど……」
部屋の温度が、さらに一段と下がったように感じられた。
「……でも、今この国を治めているのは兄よ。あなたに『絶対的な庇護』を与える唯一の方法……それは、婚姻によってあなたを王族の一員に迎えることだけだったのよ」
僕は何度も瞬きを繰り返し、男子中学生並みの脳みそで、ようやく事の真相を繋ぎ合わせた。
「ゴホッ! ゴホゴホッ!」
間抜けに咳き込んだ後、僕は情けない声を絞り出した。
「……それなら、最初に僕と話し合ってくれた方が、よっぽど簡単だったんじゃないですか?」
カサンドラは僕をじっと見つめていたが、やがて堪えきれなくなったように、クスクスと低く笑い始めた。
僕もつられて、安堵から小さく笑ってしまった。
二人して、どれほど物事が空回りし、泥縄式の無茶苦茶な計画だったかを痛感していた。
本当に、とんでもない狂気の夜だった。
当然、それ以上のことは何も起きなかったけれど、おかげで僕はとんでもない窮地に立たされることになった。
◇ ◇ ◇
翌朝、僕は冷や汗を流しながら、廊下で誰にも見つからないよう四方に目を配り、王女を抱きかかえて彼女の部屋へと送り届けた。
間違いなく、これまでの人生で最も精神をすり減らした極秘ミッションだった。
ようやく城のメイン回廊に戻ってきた時、僕は肺の空気をすべて吐き出すような深い安堵の溜息をもらした。
それでも、頭の中の絡まった糸は解けないままだ。
王女は信じられないほど美しく、聡明で、そして優しかった。彼女に対して大きな愛着を感じているのは確かだったけれど、なぜか僕の心は、決定的な答えを出すことを拒み続けていた。
そんな風に思考の迷宮に迷い込みながら歩いていると、突如として聞き覚えのある二つの声に鼓膜を叩かれ、僕はびくっと肩を跳ね上げた。
「おっはよー、英雄サマ!」
「夕べはよく眠れたかしら……? それとも、別の質問をした方がいい?」
弾かれたように顔を上げると、そこにはいつもの意地の悪いニヤニヤ笑みを浮かべたエレノアが立っていた。
その隣では、シェイリー・ニンティネルが何とか平静を装おうとしているものの、引きつった口元から今にも吹き出しそうな笑いを必死に堪えているのが丸分かりだった。
「な、何だよ……」
「いやぁ、盛んな夜だったねぇ」
エレノアはこれ見よがしに腕を組み、からかうように言った。
「あんたがあんなに手が早い男だとは思わなかったよ」
全身の血液が一気に顔へと駆け上がっていくのが分かった。
「な、何のことを言ってるんだ!?」
「で、ローズはどこだい?」
エレノアは悪戯っぽく笑みを深め、周囲を見回した。
「可哀想に……恥ずかしがって、あたいたちから隠れてるんだろ? ギャハハハ!」
その瞬間、僕の身体は完全にその場に凍りついた。
「……ローズ?」
僕の完全に困惑しきった様子を見て、二人の顔から一瞬で笑みが消え失せ、表情が急速に強張っていった。
「嘘だろ……昨日の夜から、あいつを見てないのかい?」
僕がゆっくりと首を横に振ると、回廊の空気は一変し、肌を刺すような重苦しい冷気へと様変わりした。
――あの夜から、丸三日という時間が経過した。
しかし、ローズはどこを探しても姿を現さなかった。
最初は、みんなエレノアのタチの悪いからかいを避けるために、どこかに身を隠しているだけだろうと考えていた。
けれど、時間が経つにつれて焦燥感は跳ね上がり、僕たちは城内を総出で大捜索し始めた。
中庭にも、訓練所の兵舎にも、救護室にも。
彼女がいたという痕跡すら、ただの一つも残されてはいなかった。
その時になって初めて、僕は平穏な日々の終焉を、肌を刺すような恐怖と共に確信したのだ。
今回のエピソードから、少し執筆スタイルを変えていこうと思っています!
もし「ちょっと展開が早いな」と感じたら、それは意図的にストーリーのテンポを上げているからです。実は、この物語って設定やテーマがかなり深めなので、そのままじっくり書くと読者の皆さんが退屈しちゃうんじゃないかなと思って、あえて加速させることにしました。やっぱり、これは伝統的な小説じゃなくて「Web小説」ですからね!
それとあわせて、今後は毎日更新をお休みすることにしました……!
これからは「週に4話ペース」で投稿していこうと考えています。
いや〜、ぶっちゃけ毎日更新はかなりハードすぎました(笑)それに、大学の課題や用事もあるので……!
というわけで、ご理解いただけると嬉しいです。いつも読んでいただき本当にありがとうございます!




