第64話:転換点2
オークヘヴンに、静寂の夜が帳を下ろした。
数ヶ月に及ぶヘッセン王国の内戦が終わり、王城が真の静けさを迎えたのは初めてのことだった。かつて処刑や拷問の悲鳴が木霊していた大広間は、今はオイルランプの微かな灯火に照らされ、穏やかに佇んでいる。
城下では民衆が勝利の美酒に酔いしれ、正統なる王レインエル・ゼドリエルの帰還を祝福していた。
しかし、その喧騒から遠く離れた闇の中で、もう一つの戦いが始まろうとしていた。
それは『魔王』吉田の心を巡る、あまりにも危うい戦いだった。
◇ ◇ ◇
鏡の前で、ロゼット・ベイカーは息をすることさえ忘れたように硬直していた。
いつもは血と硝煙の臭いに馴染んだ身体が、今は甘く切ない香水の香りを纏っている。丁寧に梳かされた髪、そして見慣れないドレス姿の自分。鏡に映るその姿は、ローズにとって、過去に踏み越えてきたどんな凄惨な戦場よりも恐ろしく、逃げ出したくなるものだった。
「戦いなさい!」
「あんたならできるって!」
「ただの告白でしょ! 敵の首を撥ねて叩き斬る戦場に比べたら、蚊に刺されたようなもんよ!」
「……馬鹿げている」
ローズが小さく呟くと、エレノアがゲラゲラと下品に笑った。
「見なよ! あの偉大な『紅い瞳の女騎士』が、男に惚れたって伝えるだけでガタガタ震えてやがる!」
「う、嘘をつくな! 惚れてなどいない!」
ローズは反論しようと、無意識にいつもの癖で腰元へ手を伸ばした。しかし、そこにはいつも己を支えてくれる冷たい剣の柄はなく、ただドレスの柔らかい布地が虚しく指先をすり抜ける。己を護る「鎧」を失っている事実に気付き、彼女の顔は林檎のように真っ赤に染まった。
シェイリー・ニンティネルが不思議そうに首を傾げた。
「でも、いつも彼の傍にいたいのでしょう?」
「……っ」
「それに、自分の命より彼の心配ばかりしているわ」
「……」
「おまけに、あの時あいつを救うために海へ飛び込んだのはどこの誰だったかしらねぇ?」
エレノアが意地の悪い笑みを浮かべて追い詰める。ローズはたまらず視線を逸らした。
「それは……あれは状況が違ったのだ」
「はいはい、違ったね。違ったからこそ、こんな真夜中に香水なんか振って会いに行くんだろ?」
ニヤニヤと歯を見せて笑う海賊女に、ローズは悔しそうに拳を握り締めた。
十五歳から鎧を纏い、踊りよりも先に剣を振るう生き方を叩き込まれた。生き残る術も、敵を殺す術も知っている。だが、恋い慕う男への告白の仕方など、教わったはずがなかった。
(それでも……私は決めたのだ)
この夜、彼女は行く。
心臓が破裂しそうなほどの鼓動を感じながら、自分の想いを伝えるために。
◇ ◇ ◇
しかし、ローズは知らなかった。
カサンドラ王女もまた、静かに己の覚悟を決め、動き出していたことを。
ギィ……と微かな音を立て、若い侍女が廊下で車椅子を慎重に押していく。
カサンドラはいつも通りの気品を保っていたが、その白い頬はうっすらと桜色に火照っていた。
「姫様、本当に、よ、よろしいのですか?」
「ええ」
「もし誰かに見られたら……」
「その時は、国務の相談に来たとでも言い訳するわ」
ごくり、と侍女は生唾を飲み込んだが、主の決意に圧されて進むしかなかった。目指すは、吉田の客室だ。
今の王女は豪奢な礼服ではなく、美しい肌を大胆に覗かせたドレスを身に纏っていた。それは彼女がこの戦場へ臨むために選んだ、至高の「鎧」だった。
◇ ◇ ◇
城の反対側の回廊を、ローズは歩いていた。
胸の鼓動が耳元でうるさいほどに鳴り響き、一歩進むごとに処刑台へ近づくような錯覚さえ覚える。
(何と言えばいい? 「助けてくれてありがとう」か? 「離れたくない」か? それとも……)
想像するだけで逃げ出したくなるが、エレノアの「何もしなければ一生後悔する」という言葉が背中を押す。
赤面し、指先を震わせながらも、彼女は確かな意志で進み続けた。
◇ ◇ ◇
「……今よ」
王女の合図で、侍女は意を決して扉を叩いた。
コン、コン。
小気味よい音が響いた直後、侍女は脱兎のごとく廊下の闇へと逃げ去った。カサンドラが呆れたように息を漏らしたその時、ガチャリと扉が開く。
姿を現した吉田は、上半身が裸だった。
寝起きの乱れた髪のまま、完全に状況が掴めないといった顔で硬直している。
「お、王女殿下……!?」
「――っ」
想定外の男の裸体に、カサンドラは思わず目を見開いた。吉田は慌てて飛び退さる。
「ま、待ってください! すぐ服を着ますから!」
だが、王女に躊躇している時間はなかった。「婚姻によって王族に迎えねば、魔王は王国から追放される」というレインエルの宣告が、彼女の覚悟を尖らせていた。彼女もまた吉田を深く慈しみ、この恋の戦場に正面から突撃したのだ。
「……淑女をこのまま廊下に待たせる気?」
「え?」
吉田が絶句する。カサンドラは、困惑する彼の視線を捉えて離さないよう、悪戯っぽく、しかし濡れたような瞳で微笑んだ。
「私を、ここに置いていくの?」
大胆に開いたドレスの胸元から、彼女の熱い吐息が白い肌を上下させる。吉田は車椅子と、無人の廊下、そして眼前の王女を交互に見つめ、限界を迎えたように溜息をついた。
「ハァ……分かりました。ですが、見られたら流石に不味いですから」
彼は静かに屈み、カサンドラの華奢な身体を腕の中へと抱き上げた。
その瞬間、吉田の引き締まった裸の腕と胸に、カサンドラの露出した肩の柔らかな熱が直接触れ合う。強烈な皮膚の温もりの対比に、王女の顔が今度こそ真っ赤に染まり、吉田は激しく動揺しながらも極力視線を逸らして部屋の中へと入り、静かに扉を閉めた。
◇ ◇ ◇
そのすべてを、ローズは見ていた。
回廊の曲がり角で、彼女の足は完全に凍りついていた。
吉田がカサンドラを愛おしげに抱き上げる姿。その指先の優しさ。二人の距離。そして、静かに閉ざされていく重い扉。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
胸の奥が、冷たい刃でゆっくりと、執拗に抉り取られていくような感覚。血など一滴も流れていないはずなのに、呼吸の仕方が分からなくなるほどの激痛がローズを襲う。
「……そう、か」
乾いた唇を動かし、いつものように自嘲気味に笑おうとした。だが、筋肉が強張って上手く表情が作れない。代わりに、熱い涙がボロボロと溢れ、ドレスの胸元に黒い染みを作っていった。
自分は、最初から遅すぎたのだ。騎士として戦うことしか知らなかった自分が、初めて見つけた温もりだったのに。
涙を拭い、絶望の中で背を向けたその時――回廊の空気が、不自然なほどに「死んだ」。
(……!?)
突如として、回廊の空気が冷たく張り詰めた。ローズが異変に気づいて顔を上げた瞬間、周囲の灯火が一斉に掻き消える。
ドンッ!
抵抗する隙さえなかった。背後の闇から現れた漆黒のローブの影に口を塞がれ、そのまま床へと組み伏せられる。
「んん――っ!?」
叫ぼうとした声は無慈悲に押しつぶされた。数々の修羅場を生き延びてきた最高峰の聖騎士であるローズが、指先一つ動かすことすらできない。ただ事ではない圧倒的な魔力が、彼女の身体を完全に拘束していた。
暗闇の中に佇む、五つの不気味な影。
(嘘、だろ……『五人の魔導王』……!?)
かつてウォーリック王国において、自らを魔王抹殺の道具として送り出した、世界最高峰の魔導の権威たち。
「本当に、この場所に隠れ通せると思ったのか?」
冷徹な声が空間を震わせる。
「――この、裏切り者が」
ローズが絶望に身を震わせる中、重々しい足音が近づいてきた。
現れたのは、長い黒髪を揺らし、輝きを失った黄金の槍を携えた漆黒の騎士。かつてウォーリック王国で苦楽を共にした戦友――『代表騎士』の一人、ケン・アラタカだった。
「ケン……」
ローズは目を見開いたが、さらなる現実が胸を抉る。優れた武を誇るはずの『代表騎士』であるケンが、五人の魔導王の三歩後ろで、完全に首を垂れて直立不動のまま控えていたのだ。言葉も発さず、ただの冷徹な執行人として。
その歪な主従関係こそが、目の前の怪物たちの絶対的な序列を物語っていた。
「ローズ……」
ケンは感情の消えた瞳で、哀れむように彼女を見下ろす。
彼女は必死に首を振り、廊下の先を見つめた。
わずか数メートル先には、先ほど閉ざされた吉田の部屋の扉がある。手の届きそうな距離なのに、今の彼女にとっては世界の果てよりも遠い。
脳裏に、彼と駆け抜けたすべての記憶が走馬灯のように巡る。パシフィック東京の混沌、ミルバー共和国からの逃亡、英雄の海での難破、ヘッセン王国の王座を巡る激闘。
何より――心から愛してしまった、あの不器用な少年の笑顔。
叫びたくとも、身体を縛る絶対的な拘束は微塵も緩まない。五人の魔導王たちは抵抗する彼女を、容易く引きずり起こした。
ローズは絶望に瞳を閉じ、静寂の回廊の奥へと連れ去られていく。最後の視線は、ただ一点、あの閉ざされた扉へと向けられていた。
扉の向こうにいる最愛の少年は、彼女がそこにいたことすら、永遠に知る由もなかった。
――この夜を境に、ロゼット・ベイカーの姿を見た者は、ヘッセン王国の歴史から完全に掻き消えた。




