第63話:想い
王都オークヘヴンは、ようやく本来の息吹を取り戻していた。
長く続いた内戦、鳴り止まない恐怖、そして先々の見えない不条理な日々が去り、路地という路地は音楽と笑い声、そして安堵の涙で満たされている。
商人たちはこぞって店舗の軒先に瑞々しい薄青の国旗を掲げ、広場では無邪気な子供たちが互いを追いかけ回してはしゃぎ、市民たちは内戦の終結を祝して何度も杯を交わした。
これほど長い暗闇を経て、ヘッセン王国にようやく正統なるゼドリエル家の王が帰還したのだ。
しかし、白亜の城の内部は、外の喧騒とは全く異なる重苦しい静寂に支配されていた。
祝祭の華やかさなど微塵もない王宮の大広間では、王国の命運を握る重要人物たちが、年季の入った長い木製机を囲んで一堂に会している。
上座に座るのは、新たに戴冠した若き王、レインエル・ゼドリエル。
その右隣にはカサンドラ王女が控え、左隣には王都決戦での深手が未だ癒えず、体中に白い包帯を巻いたままのアルウィンが、青白い顔で座していた。
周囲を囲む有力な領主や軍の高官たちは、一言も発さずに推移を見守っている。
戦争は終わった。しかし、未だ解決していない問題が二つ残されている。
その双方には、明確な「名」があった。
「――アレッシオ・ゼドリエルです」
一人の有力貴族が重々しく口を開いた。
「奴は未だに自分を支持する僅かな精鋭を引き連れ、要塞都市テレスシアに立てこもって抵抗の構えを崩していません」
別の領主がそれに同意するように深く頷く。
「幸いにも、奴が掌握しているのはあの都市一箇所のみ。他の全土は、すでに我が主、国王陛下の新しい紋章旗へと差し替えられております」
全員の視線が、一斉に上座のレインエルへと集まった。
若い王は、自身を象徴するあの内向的で物静かな沈黙をしばらく保った後、穏やかでありながらも一切の迷いのない声で告げた。
「我が軍を動員し、テレスシアへ向けて進軍します」
その決断自体は予想通りだったが、彼が次に放った言葉は、その場にいた全員の耳を疑わせた。
「――私は、従兄であるアレッシオに和平の条件を提示するつもりです」
その言葉が発せられた瞬間、大広間を張り詰めた沈黙が満たした。
「私は、自分の家族をこの手で殺めるつもりはありません」
その言葉に、それまで目を閉じていたアルウィンがゆっくりと瞼を持ち上げた。貴族たちは互いに気まずそうな、あるいは不満の混じった視線を交わし合う。
「陛下」一人の老貴族が、堪えきれずに口を挟んだ。「民衆は前王マクミリアンのみならず、アレッシオをも深く憎悪しております。奴らの統治は残虐極まりなく、数え切れないほどの無辜の民が命を落とした。簒奪者を未だに生かしておくという処置だけでも、世間の反発は必至にございます」
「多くの者が家族を失い、王国は奴らの強欲のせいで計り知れない困窮を強いられました」別の将軍が言葉を重ねる。「国が求めているのは峻烈なる正義です。和平など、到底受け入れられるものではありません」
実の姉であるカサンドラでさえも、美しく細い眉を不快そうにひそめた。
「弟よ……それはあまりにも寛大が過ぎます」彼女の美しい瞳が、冷徹な光を帯びる。「あの叔父とアレッシオがこの国にもたらした苦痛はあまりにも深すぎる。彼らに和平の手を差し伸べるなど、民が決して許しはしません」
レインエルは再び視線を落とし、しばらくの間、じっと沈黙を守っていた。
だが、やがて顔を上げた彼の瞳には、確固たる光が宿っていた。
「私達ゼドリエルの一族は、単なる一地方の権力者ではないのです」
その声は優しく、しかし部屋の隅々にまで響き渡るほどに強固だった。
「私達には、果たさなければならない使命がある。遠くない未来、我が一族はそのすべての血族の力を必要とする時が必ず来るはずです」
彼は机の上に置いた己の手元を見つめた。
「むろん、奴らの犯した大罪を無条件で赦すという意味ではありません」
細い指先が、怒りを堪えるようにぎゅっと白くなるまで握り締められる。
「誰よりもあいつらの首を撥ねてやりたいと願っているのは、この私なのですから」
若き王は、再び真っ直ぐに姉や臣下たちを見据えた。
「ですが、今……この世界の裏側で、何かが確実に動き始めている」
大広間の重鎮たちは、言葉を失って互いに顔を見合わせた。
アルウィンは数秒の間、その若き主君の横顔をじっと見つめていたが、やがて満足したように小さく首を傾げて頭を下げた。
「……それが王の御意志であるならば、私達臣下はどこまでもお従いいたします」
レインエルは短く頷き、深く息を吸い込んだ。
「では、次の議題に移りましょう」
彼の視線が、冷徹に一同を見渡す。
「――『魔王』吉田の処遇についてです」
その名が口にされた瞬間、部屋の空気は先ほどまでとは比較にならないほどの威圧感を孕み、誰もが息を詰めた。
カサンドラは不快そうに表情を歪めた。王という地位が、私情を排して「国家の利益」を最優先に求める冷徹さを、彼女は誰よりも理解していた。
包帯姿のアルウィンは、微動だにせずその場に佇んでいる。
レインエルは静かに目を閉じた。
「あの青年を、このまま国内に留めておくわけにはいきません」
貴族たちの間で、肯定的な視線が交わされた。
「ならば、即刻処刑するのが最も確実かと」
「弟よ!」カサンドラが激昂して声を上げた。「王都を奪還できたのは誰のおかげだと思っているのです! 私たちがこの地獄を幾度も生き延びられたのは、彼の力があったからこそです!」
彼女の声は、抑えきれない怒りで細かく震えていた。
「誰もが私達を見捨てて逃げ惑う中、吉田だけは私達のために命を懸けて戦ってくれたのよ!」
レインエルは、姉の射すような視線を真っ向から受け止めた。
「カサンドラ……あの青年は、ただの人間ではないのだ。彼は世界を滅ぼし得る『魔王』なのだよ」
王女は悔しそうに奥歯を噛み締めた。重臣たちが困惑する中、彼女は一同の度肝を抜く言葉を言い放った。
「――それに、彼は私の夫になる存在です」
その場の数人の貴族が、驚きのあまり目を見開いた。
アルウィンにいたっては、持っていた杯を危うく床へ落としそうになるほどに動揺を見せる。
レインエルの身体もまた、完全に硬直した。
「……姉上、今、何と言いました?」
「私は彼と、確固たる約束を交わしたのです」カサンドラは毅然と言い放った。「王族の言葉に偽りがあってはならない。その誓いは、必ず果たされます」
若き王はしばらくの間、呆然と姉を見つめていたが、やがて重苦しい溜息を漏らした。
「姉上、これがどれほど一筋縄ではいかない問題か、本当に理解しているのですか……? かつて隣国ウォーリック王国での『ミレイヤの戦い』において、複数の『魔導王』が命を落とし、あの伝説的なザリアの一族が滅亡に追いやられた悲劇を忘れたわけではあるまい。あの悪夢は、魔族たちが『魔王』の降臨によって勢いづいたことで引き起こされたのだ」
レインエルの瞳が、どこか遠い過去の闇を見つめるように細められる。
「人類は大軍を組織してあの決戦に挑み、我が国の高潔な騎士たちも多くがその地で命を落とした。そして……ロゼット・ベイカーが封印の島へと遣わされた本当の目的もまた、魔王として目覚めるはずの器を完全に抹殺するためだったはずだ」
彼は姉の瞳をじっと見つめた。
「にもかかわらず、彼女はあろうことか魔王の力を宿した青年をこの世界へと連れ帰り、魔導王の教団が下した抹殺命令から、今もなお彼を命懸けで庇い続けている」
その事実の重みに、並み居る貴族たちの背筋に冷たい戦慄が走った。
「魔王とは、私達の生存を脅かす人類の敵の絶対的な首領。あまりに強大で、恐るべき存在なのだ」
ここで、アルウィンが静かに割って入った。
「そのことについては、我らも十分に重々承知しております」
老将は、包帯に覆われた両手を机の上へとしっかりと置いた。
「しかし、我々が知るあの若者には、確固たる人間の意志がある。彼の望みは常に、ただ平穏に生きることだけでした。義務など何もないはずの局面で、彼は幾度も我々に手を差し延べてくれた。彼が求めた唯一の報酬は、ただ静かな日常だけなのです」
アルウィンの表情が、どこか慈愛に満ちたものへと和らぐ。
しかし、レインエルは首を横に振った。
「狂気の沙汰だ……あまりにも、荒唐無稽すぎる」
「これは約束なのです」カサンドラは一歩も引かなかった。「私は私の言葉を違えません」
貴族たちの間で、再び不穏な囁き声が広がり始める。魔王という存在への根深い恐怖は、そう簡単に拭い去れるものではなかった。王女はその喧騒を、冷徹な一瞥だけで瞬時に黙らせてみせる。
やがて、レインエルが静かに結論を口にした。
「忘れないでほしい、姉上。私がどれほど姉上を助けたいと願っていても、私は王として、私情と国家の安寧のバランスを保たねばならない。……ならば、世界を統べる『魔導王』たちに、私は一体どう説明すればいい?」
大広間に、突き刺さるような鋭い静寂が降りる。
「あの教団の背後にいる『魔法の女神』が、もし自ら私達の前に姿を現し、彼を処刑すると宣言したら? ……その時、我が王国の全軍を以てしても、あの次元の異なる五人の魔導王たちに対抗することなど不可能なのだぞ」
誰も、その問いに答えることはできなかった。
レインエルは視線を落とし、静かに言葉を繋ぐ。
「つまり、魔王をこの国内にただ滞在させておくことは、それ自体が国家の破滅に繋がりかねない重大なリスクなのだ」
彼はカサンドラを真っ直ぐに見つめた。
「私が公式にあの一族の青年を守る唯一の方法は、彼を正式に我が王族の一員に迎えることだけだ。王族の婚姻に関わる特殊な古法を適用すれば、教団の干渉に対して正当な法的庇護を与えることができる。……だが、もし彼が我が一族と何の関係もないただの異邦人であるならば、私には彼を守るための手立ては、何一つとして存在しない」
それは、若き王が姉に対して突きつけた、あまりにも冷徹で明確な『条件』だった。
◇ ◇ ◇
同じ頃、城の別の一画にある静かな客室にて。
ローズ、エレノア、飾らない美しさを持つシェイリー・ニンティネルの三人は、一つの部屋を共有していた。
大広間の張り詰めた空気とは対照的に、そこにはどこか気の抜けた日常の空気が流れている。
エレノアは椅子の背もたれにだらしなく身体を預け、片手に持った酒瓶から直接喉を鳴らして酒を煽っている。シェイリーは、自身の瑞々しい長い緑色の髪を、手持ち無沙汰そうに静かにブラシで梳かしていた。
ローズは、一人で窓際に腰掛け、外の景色をぼんやりと眺めている。
「……正直、驚いたわ」ローズが沈黙を破り、壁際のシェイリーに視線を向けた。「一度は王女殿下を裏切って敵の陣営に回ったあなたが、こうして平然と王宮の中にいるなんてね」
シェイリーはブラシの手を止めることなく、どこか自嘲気味に淡々と答えた。
「私とあなたの立場は大して変わらないわ、ローズ。私はまだ、誰からも正式に罪を赦されたわけじゃない。ただ、今の私には利用価値があるから、ここに置かれているだけに過ぎないのよ」
「……あなたの、ご家族は?」ローズは、ずっと気になっていた疑問を口にした。
その言葉に、シェイリーの手がぴたりと止まった。
彼女は静かに視線を落とし、美しく細い指先を髪の中で震わせる。
「……生きて見つけられるなんて希望は、とうの昔に捨てているわ。今の私にできるのは、新王の軍勢がテレスシアへ進軍するのを待ち、あの忌々しい裏切り者たちを殲滅する機会を窺うことだけ。今の私の力では……アレッシオをこの手で直接引き裂くには、まだ、あまりにも無力だから」
部屋の中に、再び冷たい静寂が降りてくる。
ローズは視線を逸らし、それ以上どんな言葉をかければいいのか分からず、ただ唇を噛んだ。
◇ ◇ ◇
その頃、吉田は自身に割り当てられた簡素な客室のベッドの上で、一人横になっていた。
天井の木目をじっと見つめる彼の脳裏には、ここ数日の間に起きたあまりにも多すぎる出来事が、濁流のように渦巻いていた。
目まぐるしい戦い。
無数の死。
別れと、新たな王の戴冠。
彼の思考はまとまりを欠き、宛てもなく彷徨い続けている。
そして何よりも……彼の本能が、これからさらに大きな災厄が自分たちの身に降りかかるのではないかという、不気味な予感を激しく告げていた。
しかし、そんな底知れない不安の中でも、彼の心が唯一、絶対的な安全を感じられる場所があった。
荒れ狂う思考の暴走を止め、深く静かに息を吸い込める、唯一の避難所。
――ローズ。
彼女のひたむきな姿、あの鮮烈な瞳を思い浮かべるだけで、脳内を満たしていた不快な雑音は嘘のように静まり返っていく。
胸の奥から湧き上がるこの奇妙な感情の正体を、今の彼は、まだ何と呼べばいいのか分からずにいた。
◇ ◇ ◇
「――ところでさぁ」
客室の沈黙を破ったのは、エレノアの意地の悪い、ニヤニヤとした含み笑いだった。
「あんた、このままのんびりしてると、あの王女様にアイツを完全に寝取られちまうよ?」
窓辺のローズは、突拍子もない言葉にパチパチと瞬きをした。
「……は? 一体何の話をしているの?」
「決まってるだろ、吉田のことさ」
エレノアは本当に楽しそうに、手にした酒瓶を揺らす。
「小耳に挟んだんだよ。あのカサンドラ王女が、近いうちに吉田を自分の夫として公式に迎えるつもりだってな」
髪を梳かしていたシェイリーが、そこで静かにブラシを置き、小さく手を挙げた。
「……私も、城の侍女たちがそんな噂話をしているのを聞いたわ」彼女は、窓辺の聖騎士をじっと見つめる。「それに、客観的に見て……あなたと吉田の関係って、ただの『親しい友人』にしか見えないもの。二人からは、男女としての明確な恋情のようなものが一切感じられないわ」
シェイリーは不思議そうに首を小さく傾げた。
ローズの拳が、ドレスの布地の上でゆっくりと、強く握り締められていく。
エレノアはそれを見逃さず、獲物を見つけた肉食獣のように、口いっぱいに白い歯を覗かせて笑った。
「ほら見な。あんたがそうやって突っ張ってる間に、美味しいところを全部持っていかれちまうんだよ」
ローズは深く視線を落とし、完全に口を閉ざした。
脳裏で激しく思考が交錯し、自身の胸の内を何度も何度も反芻する。
「……私だって、自分が何を求めているのか、分からないのよ」
そのあまりにも真面目な吐露に、シェイリーの白い頬が微かに朱に染まる。
対して、エレノアは大爆発を起こしたかのように、腹を抱えて大声で笑い転げた。
「ハハハハハハハ!!!」
「あの世間知らずの小娘が、ついに自分の気持ちを認めやがった!!」
海賊の女は涙を流しながらローズを指差し、これまでに彼女がしでかしてきた破天荒な行動の数々を、大声で指折り数え始めた。
「エレノア、この悪党……っ!」
「いいかい、私の可愛い聖騎士様?」エレノアは笑いながら言葉を続ける。「ただの『友情』なんて安い理由で、世界の敵たる魔王を命懸けで匿い、生まれ故郷の島から一緒に逃亡する奴なんてどこにもいないんだよ」
彼女はさらに喉を鳴らして笑う。
「ただの『友人』のために、国中の軍勢を敵に回して、自分の命を限界まで削って戦う馬鹿がどこにいる?」
エレノアは立ち上がり、窓辺のローズの額を指先で軽く小突いた。
「そんな無茶苦茶な真似をするのはね、世界中にたった一人、男に盲目になった『恋する大馬鹿野郎』だけなんだよ」
シェイリーも自身の細い手を頬に当て、静かに言葉を添えた。
「私も、そういった男女の機微にはあまり詳しくはないけれど……」彼女は真っ直ぐにローズを見つめる。「もし私がそこまでの無茶をするのだとしたら、それはきっと、自分の命のすべてを懸けてでも愛したいと願う相手だけだと思うわ」
ローズは、衝撃を受けたように大きく目を見開いた。
エレノアは、自身の目論見が完璧に当たったことを確信し、満足そうに鼻を鳴らす。
「戦場しか知らない清純な騎士様には、こんな簡単な答えすら自覚できなかったってわけだ。本当に、とんだ大抜け作だよ、ローズ」
聖騎士は、完全に彫像のように硬直していた。
そして――彼女の脳裏に、これまでの吉田との歩みが、堰を切ったように鮮烈に蘇り始めた。
あの不気味な封印の島。
どこまでも続く広大な海。
彼を失うかもしれないと、恐怖に胸が張り裂けそうになった瞬間。
彼の、あの不器用で優しい笑顔を、どうしてももう一度見たいと願った日々。
何があっても彼を傷つけさせないという、強烈な守護の衝動。
彼がただ近くにいてくれるだけで、世界のすべてが肯定されるような、あの圧倒的な安らぎ。
理由など考えるよりも先に、身体が勝手に彼を求めて駆け出していた、数々の瞬間。
もし彼が死んでしまったらと、想像するだけで息ができなくなるほどの絶望的な痛み。
みるみるうちに、彼女の白い頬が、耳の裏まで真っ赤に染まっていく。
ローズは震える手を、自身の強く脈打つ胸元へと当てた。
そこでは、かつて経験したことのないほどの激しい鼓動が、確かに刻まれている。
そして、彼女はついに、世界の何よりも残酷で、何よりも美しい真実を理解した。
彼を世間の目から隠し、世話をし、命を懸けて守り抜きたいと願ったあの衝動。
彼の傍らに、死が二人を分かつまで居続けたいと切望したあの心の平穏。
それは、騎士としての義務などではなかった。
宿命に対する憐れみでも、ただの同情でもなかった。
――それは、紛れもない「愛」だったのだ。
数々の血生臭い戦場を生き延び、あらゆる絶望的な敵を屠ってきた孤高の聖騎士、ロゼット・ベイカー。
彼女にとって、この世で最も恐るべき試練とは、数千の敵軍に包囲されることなどではなかった。
世界中から『魔王』と恐れられるあの不器用な青年に、自分が骨の髄まで恋に落ちてしまっている――その厳然たる真実を受け入れることなのだと、彼女は今、初めて知ったのだった。




