第62話:決意
【吉田視点】
避難所として急造された小さな教会へと足を踏み入れると、車椅子に静かに座ったカサンドラ王女が、俺の姿を見て最初にローズの容態を教えてくれた。
首から下を動かすことすら叶わない彼女だったが、その痛々しくも気高き顔に、安堵と疲労の混ざった微かな微笑みを浮かべる。
「ローズは奥で手当てを受けています。酷く消耗していたのね……今は静かに眠っていますわ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は自分がこれまでどれほど重い圧迫感を胸に抱えていたのかを、ようやく自覚した。
彼女はテレスシアに囚われているものとばかり思い込んでいたが、このアルタクレスタで、しかも生きて無事でいる。
その事実だけで、張り詰めていた胸の奥の塊が、すっと融けていくような感覚がした。
ふと教会の奥に目を向けると、簡易ベッドにはシェイリー・ニンティネルが横たわっているのが見えた。その側には、あの黄金の光の弓が静かに立てかけられている。
彼女の銀色の瞳には未だにどこか憂いを帯びた影が残っていたものの、先ほどよりは幾分か呼吸も落ち着きを取り戻しているようだった。
それから、カサンドラ様は今日この地で起きたすべての出来事を、淡々と、しかし丁寧に俺へ話し始めてくれた。
それは、誰もが息を呑むようなアルタクレスタの絶望的な防衛戦の記録だった。
ローズがたった一人で数千の敵軍の前に立ちはだかり、命を削って戦い抜いたこと。
シェイリーが敵の凄惨な拷問に耐え抜き、俺たちの陣営のために己の限界を遥かに超えて戦い続けてくれたこと。
そして、絶体絶命の局面に突如としてエレノア・アラソーン率いる海賊船団が参戦し、さらに死んだはずの正統なる王子が姿を現したこと。
一通りの経緯を聞き終えた俺は、今度は俺の側からオークヘヴンで起きた顛末をカサンドラ様たちに伝えた。
王都が完全に奪還されたこと。アルウィン様が一命を取り留め、生き延びていること。そして、敵の十二名の代表騎士たちが全員討ち死にしたこと。
俺がそう語ると、教会内にいた者たちは一様に驚愕の表情を浮かべたが、やがて近くにいた兵士たちが、ひそひそと小さな声を漏らし始めた。
「やっぱり、アルウィン様の策があったからか……」
「あの御方が裏で糸を引いてなきゃ、こんなガキが生きて戻れるわけねぇよな」
周囲のそんな勘違いをあえて訂正する気にもならなかったが、俺が報告を続けるにつれて、カサンドラ様の強張っていた顔から、少しずつ険しさが消えていくのが分かった。
彼女の隣に静かに座る若い王子もまた、微かに肩の力を抜いたようだった。
それでも、その美しい金髪を持つ青年――レインエルは、自分からはほとんど言葉を発しようとはしなかった。
彼はただ、静密な眼差しで俺の行動をじっと見つめ、分析している。
まるで、目の前にいる俺という人間が本当はどんな存在なのかを、深く見極めようとするかのように。
「最初から、エレノアには協力を要請していたのです」
カサンドラ様は隣の弟からの穏やかな視線を受け止めながら、説明を続けた。
「私が事前に確保し、安全な場所に隠しておいた王室財産の半分を、あの海賊たちを雇うための資金として投げ打ちました。まさか、彼らが私の生き別れの弟まで連れて帰ってくるなどとは、夢にも思いませんでしたが」
カサンドラ様は自嘲気味に、どこか皮肉めいた笑みを浮かべる。国を救うためとはいえ、全財産の半分を海賊へ貢いだのだから無理もない。
そして、その視線を優しく隣の青年へと向けた。
「法に従うならば、今や彼こそがこの国の正統なる国王です」
その言葉を受け、レインエルは居心地悪そうに、僅かに視線を落として俯いた。
あまりにも急転直下な政治の行方に、俺自身も何と声をかけていいのか分からなかった。
周囲にいる避難民の平民たちや、生き残った十人の近衛騎士たちは、すでに俺の顔を知っている。
時折、彼らと視線が交差するたびに、畏敬や親しみのこもった会釈を返される。
そんな奇妙な空気感が漂う中、俺はいくつかの言葉を交わした後、その場を辞することにした。
何よりもまず、ローズの顔を見たかったんだ。
◇
倒壊した建物や臨時の天幕が乱雑に並ぶ、急造された通路を歩いていると、前方に武装した二人の衛兵が、頑丈な鎖で縛られた肥満体の男を連行している場面に出くわした。
その姿は、まるで過酷な罰を受けて怯える老犬のようだった。
男は、俺が近づいてくる気配を察してのっそりと顔を上げた。その肉に埋もれた小さな瞳が、卑屈な絶望の色にギラリと光る。
「おい、そこの小僧……」男は周囲を気にしながら、早口で掠れた声を放ってきた。「俺の逃亡を手引きしろ。そうすれば、お前に望む限りの黄金をやる。計り知れぬ富も、広大な領地も、お前の望むすべてを思いのままだ!」
連行していた騎士の一人が、吐き捨てるように冷たい嘲笑を浴びせた。
「無駄なあがきはやめろ、この豚が」
もう一人の衛兵が、顎で俺の方を指し示す。
「お前をその座から引きずり下ろした張本人が、まさに目の前にいるこの御方だ」
衛兵の言葉を聞いた瞬間、男の顔が恐怖で完全に凍りついた。
俺と男の視線が、正面からぶつかり合う。そこにあったのは、純粋な、剥き出しの恐怖だった。骨の髄まで震え上がるような、本物の命の危機。
「お前が……」
男の唇が、ガタガタと小刻みに震えだす。
「お前が……あの、魔王なのか……!」
恐怖が限界を超えたのか、彼の表情は一転して醜悪な憎悪へと歪み、俺の足元に向かって汚らしく唾を吐きかけてきた。
「この化け物め! 呪われてしまえ!」
(……正直、ちょっと気味が悪かったし、クソ汚ねぇなとも思った。だけど、もう完全に終わった奴を相手に、これ以上無駄なセリフを吐く気力なんて、今の俺には一ミリも残っていなかった)
俺は何も言い返さず、男の脇を通り抜けてそのまま歩き続けた。
天幕の外に出ると、そこには数千の兵たちが草原に腰を下ろして休息をとっていた。
つい数時間前までは、互いに命を奪い合っていた敵同士だ。
彼らの視線が俺に突き刺さる。
ある者は強い警戒を隠さず、ある者は恐怖に身を竦め、またある者は、到底隠しきれないほどの激しい憎悪をその瞳に宿していた。
決して居心地の良い場所ではなかった。
だが、それと同時に――この世界に放り出されて以来、俺は初めて、心の底から救われるような安堵感を覚えていた。
ようやく、この不毛な戦争が終わったんだ。少なくとも、今はそう信じたかった。
やがて、目的の天幕へとたどり着いた俺は、ローズが横たわっている簡易ベッドの入り口を、音を立てないようにゆっくりと押し開けた。
彼女は静かに横たわっていた。両腕には幾重にも白い包帯が巻かれ、その横顔は血の気を失って微かに青白い。
彼女の艶やかな黒髪が白い枕の上に乱雑に広がっており、規則正しい寝息だけが静かに部屋を満たしている。本当に、ただ眠っているようだった。
「……よお」
俺は少し照れくさそうに、そっと声をかけた。
すると、彼女の長い睫毛が震え、あの鮮烈な深紅の瞳がゆっくりと開かれた。
一瞬の間、俺たちは言葉を失ったまま、互いの存在を確かめ合うように見つめ合った。
――そして次の瞬間には、どちらからともなく互いの身体を強く抱きしめていた。
「吉田!」
「ローズ!」
俺たちはベッドの上でもつれ合うようにして、互いの存在を壊れ物を扱うように、けれど二度と離さないと言わんばかりの強さで抱き締めた。
身体のあちこちを走る激痛も、彼女の身体を覆う包帯の痛々しさも、その時の俺たちには一切関係なかった。ただひたすらに、互いの体温を求めてしがみつく。
生きている。俺たちは、あの地獄を越えてまだ生きているんだ。
どれほどの時間、そうして抱き合っていただろうか。
ようやく熱くなった頭が冷えて理性が戻ってくると、急激な恥ずかしさが押し寄せ、俺たちは慌てて身体を離してベッドの上に座り直した。
ローズは顔を真っ赤にしてフイッと視線を逸らし、俺自身も耳の裏が燃えるように熱くなっているのを感じていた。気まずい沈黙を破るように、俺たちはぽつりぽつりと会話を始めた。
俺は彼女に、オークヘヴンで起きたすべてのことを話した。アルウィン様との共闘、死闘の様子、そして代表騎士たちを討ち取ったことを。
それを聞いたローズは、その深紅の目をこれ以上ないほどに大きく見開いた。
「……あなたが、あの十二名の代表騎士を全員倒したの……?」
俺が静かに頷くと、彼女は呆れたように、けれどどこか嬉しそうに、疲れ切った小さな笑い声を漏らした。
「私は……代表騎士の内のたった七人を相手にするだけで、あんなにボコボコにされたっていうのにね……」
彼女の自虐的な物言いに、俺も思わず吹き出してしまった。
これまでの数々の凄惨な苦しみに比べれば、こんな風に交わす他愛のない穏やかな会話こそが、何よりも掛け替えのない宝物のように思えた。
「これでようやく、静かに暮らせるようになるかもな」
俺は膝に視線を落としながら、静かに呟いた。
「もしカサンドラ様が約束を守ってくれれば、俺たちを執拗に追い回す奴らもいなくなるはずだ」
ローズは一瞬、嬉しそうな表情を見せたが、すぐにその視線を曇らせて伏せ目になった。
「ええ……. でも、エリックがいてくれなければ、私はここにいなかったわ」
その後に続いた重苦しい沈黙が、俺たちの肩に重くのしかかった。
カサンドラ様の近衛騎士であり、俺たちとも確かな友情を結んでいたあの若き騎士、エリック・ザンダラは、凄惨な戦いの果てに命を落としたのだ。
彼をそんな目に合わせた連中への、激しい復讐心が胸の奥で燻るのを感じた。そしてそれは、隣のローズも全く同じに違いなかった。
「エリック……」
重い空気を振り払うように、ローズが突然、不思議そうな顔をして俺の顔を覗き込んできた。
「……ねえ、ところであなたのその髪、一体どうしたの?」
言われて初めて気がついた。俺の黒髪の一部に、いつの間にか白髪が混じり、いくつかの銀色のメッシュのような房が形成されていたのだ。魔王の力を酷使した代償だろうか。
ローズは何気ない無邪気さで問いかけてきたが、次の瞬間、彼女自身も何か重大なことを思い出したのか、ハッと表情を強張らせた。
再び、天幕の中に静寂が戻る。
今度は、俺が思い出す番だった。俺は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「ローズ……お前、言ったよな。すべてが終わったら、俺に話したいことがあるって」
その一言に、彼女の身体が完全に硬直した。
「え……っ?」
みるみるうちに、彼女の白い頬が茹でダコのように真っ赤に染まっていく。
「そ、それは……その……つまり……」
彼女は完全に狼狽し、泳ぐ視線を彷徨わせながら口篭る。
「私は……」
なぜか、彼女のその様子を見ている俺の方まで、心臓の鼓動がうるさいほどに跳ね上がり始めていた。これまでにないほど、身体の芯が緊張で強張っていく。
――と、その時だった。
天幕のすぐ外から、微かな、押し殺したような衣擦れの音が耳に届いた。
俺は眉をひそめ、不審に思って音がした方向へとゆっくりと顔を向けた。
そこには、天幕の布地に不自然に開けられた、二つの小さな穴があった。
そしてその穴の向こうから、こちらの様子を血眼になって覗き込んでいる二対の目がきらりと光った。
ローズもまた、その不届きな視線に完璧に気がついたようだった。
彼女の深紅の瞳が、怒りと羞恥で細かく小刻みに震え始める。彼女は無言のまま、鋭く右手を突き出した。
「――風よ!」
ゴォッ!!
放たれた鋭い突風の魔術が、天幕の布地を内側から激しく吹き飛ばした。
「うわああああっ!?」
「きゃあああああっ!?」
布の向こうから、情けない二つの悲鳴が上がると同時に、人影が派手に転がった。
エレノア・アラソーンは勢い余って地面に頭から突っ込み、その横では、満身創痍の体をエレノアに無理やり引きずられてきたらしいシェイリーが、気まずそうに顔を赤らめて座り込んでいた。
不敵な海賊の女は、頭を押さえながらもケラケラと下品に笑い転げ、ローズに向かって指を突きつけた。
「ハハハハハ! おいおい見ろよ! 私たちの堅物な聖騎士様が、ついにあんな色っぽい雰囲気に……っ!」
「だ、黙りなさーーいっ!!」
顔がはち切れそうくらい真っ赤になったローズが、天幕が震えるほどの大声で叫んだ。
その一方で、シェイリーは傷口を押さえながら、蚊の鳴くような声で呟く。
「……ごめんなさい」
エレノアは全く反省する様子もなく、むしろニヤニヤと笑いながらローズの肩に大胆に腕を回した。
「まあまあ、そんなに照れるなって。いいところだったんだろ?」
ローズの怒りは完全に頂点に達していた。
かくして、俺たちの間に流れかけていたあの甘酸っぱく、繊細な空気は、一瞬にして木っ端微塵に打ち砕かれたのだった。
このあまりにも身勝手な乱入劇に対し、羞恥を覚えるべきなのか、あるいは緊張から解放されて安堵すべきなのか、俺には判断がつかなかった。ただ、
「この騒がしさが、今の俺には何よりも愛おしかった」
本当に久しぶりに、俺たちの誰もが欠けることなく、「全員が生きて」そこにいたからだ。
◇ ◇ ◇
その後の数日間は、本当にあっという間だった。
カサンドラ王女とレインエル王子は、各地の転移の石柱を使ってテキパキと軍を動かし、あっという間に要衝セレスティアル・リーチを支配下に収めた。
敗北を悟ったアレッシオは、僅かな手下を引き連れて本拠地のテレスシア城に逃げ込み、引きこもりを決め込んだらしい。
でも、一度傾いた国の流れは止まらなかった。
本物の王位継承者が帰ってきたと知った各地の領主たちが、次々とレインエル王子の元へ集まり、忠誠を誓い始めたんだ。
簒奪者に従っていた軍勢も次々と武器を収め、国中で変革の報せが駆け巡った。
ウォーリック王国など周辺諸国への警戒も怠れない中、一ヶ月後、ついに王都オークヘヴンで盛大な戴冠式が行われた。
すっかり活気を取り戻した王都の街道は、新しい王を祝福する市民たちでごった返していた。
嬉し涙を流す者、大笑いする者、みんなが狂ったように新しい王の名を叫んでいる。
それもそのはずだ。簒奪者マクミリアンとアレッシオの治世。それは王国全土を死と鮮血、そして凄惨な困窮で覆い尽くす地獄そのものだった。
だからこそ、民衆がこれほど狂喜乱舞するのも当然の帰結と言えた。
厳かな儀式の中、レインエル・ゼドリエルは正式にヘッセン王国の新しい国王として王冠を戴いた。
前王を殺した大逆人マクミリアンには、二度と日の目を見ることのない地下牢での終身刑が言い渡された。
歴史に名が残るような華々しい処刑すら与えられず、ただ冷たい格子の中で惨めに老いて死んでいく。最も屈辱的な罰だ。
エレノアたち海賊には約束通りの大金が支払われ、各地の領主たちは新王の前で頭を下げた。
そして、オークヘヴンの激戦を生き延びたアルウィン・バレスター様は、かつての地位を取り戻し、再び「近衛騎士団長」に就任した。
彼が車椅子から立ち上がれないことなんて、もう誰も気にしない。
あの絶望的な状況で国の運命をひっくり返した彼の頭脳こそが、勝利の決定打だったと誰もが知っているからだ。
こうして、激動の王国は、少しずつ、確実に平穏を取り戻し始めていった。
この異世界のベッドで目覚めて以来、俺は初めて、心の中で小さな希望を抱いていた。
もしかしたら……本当に、ほんの少しの可能性かもしれないけれど。
俺はこれから、ローズの傍らで、静かで普通の人間としての人生を歩んでいけるんじゃないか、って。
だが――。
俺の胸の最も深い、光の届かない暗がりの奥底には、未だに消えない不気味な棘が突き刺さったままだった。
すべての元凶であるアレッシオはまだ生きている。
そして何よりも……俺の身体の奥底に巣食う、あの悍ましい「魔王の力」は、決して消え去ったわけではないのだから。
それはただ、次の捕食の時を求めて、静かに、深く眠りについているだけに過ぎなかった。




