第61話:私の優しき騎士
『君が好きだと叫びたい』を聞きながらこの物語を書くのがお気に入りです、ハハハハ!
【吉田視点】
老魔導士が呪文の詠唱を終えたその瞬間。
それまで静まり返っていた転移の石柱が、突如として眩い深青の光を放ち、森の奥深くに隠された遺跡を鮮やかに照らし出した。
石肌に深く刻まれた古代のルーン文字が、まるで数百年の眠りから目覚めてこの時を待っていたかのように、次々と脈動するような輝きを帯びていく。
そして、爆発的な青い光が俺たちの視界を完全に呑み込んだ。
足元がふっと浮き上がるような、奇妙な浮遊感が全身を襲う。
愛馬が激しくいななき、世界がぐにゃりと反転した。
一瞬、底なしの奈落へ真っ逆さまに落ちていくような錯覚に囚われる。
だが、次の瞬間には冷たい空気が肺へと流れ込み、俺は再び息を吹き返した。
肌を刺す大気の冷たさが、先ほどまでの場所とは明らかに違っていた。
目を開けると、そこには見渡す限りの広大な平原が広がっている。
景色を悠長に眺めている時間なんてなかった。俺の胸の奥からは、今すぐにでもアルタクレスタへ這ってでも戻りたいという、狂おしいほどの衝動が溢れ出ていた。
同行する騎士たちの様子を確かめることも、全体の到着を待つこともせず、俺は一心不乱に馬の腹を蹴った。闇雲に馬を走らせる俺の背後から、名前を呼ぶいくつかの狼狽した声が聞こえてくる。
石柱の周囲では、未だに多くの兵たちが次々と転移を遂げて出現しつつあったが、俺の突然の暴走に気づいた一部の将兵や、近くにいた数騎の騎士たちが、慌てて俺の後を追って馬を走らせ始めた。
だが、俺は止まれなかった。どうしても、足を止めることなんてできなかった。
身体の芯にある何かが、狂暴なまでの力で俺を前へと突き動かしている。
黄金色に染まった広大な平野を、ただひたすらに駆け抜ける。地平線の彼方まで続くかのような草原の上を、風が猛烈な勢いで俺の顔を打ち据えていった。馬蹄が土を叩く音に合わせて、高く伸びた草木が波のように激しく揺れている。
空はゆっくりと、不気味なほどの夕暮れの色彩に染まり始めていた。
それなのに――俺の心は「もう手遅れかもしれない」という致命的な焦燥感に支配されていた。
無駄に進んでいく一分一秒が、気が狂いそうなほどに耐え難い。
気づけば、背後から必死に追いついてきた数人の騎士たちが、俺の左右に並び始めていた。
彼らはただ黙り込んだまま、俺の焦燥を察したように、ただ前だけを見据えて馬を走らせている。ほんの数ヶ月前まで、俺は病院の冷たいベッドの上か、あるいは車椅子に縛り付けられて、ただ緩慢な死を待つだけの呪われた存在だったはずだ。
こんな戦いなんて望んでいなかった。こんな大層な力も欲しくなかった。ただ静かに消えてしまいたかったのに、一人の少女が俺の絶望に無遠慮に踏み込んで、すべてをぶち壊した。
彼女が俺の前に現れたあの日から、俺の世界は原型を留めないほどに変貌してしまったんだ。
(……)
一体、俺の身体はどうなってしまったんだ。
手綱を握る手元に目を落とすと、指先が小刻みに激しく震えていた。
心臓の鼓動が、不自然なほどに早く、重く胸の壁を叩いている。
胸を満たしているのは、どす黒い怒りだ。
言葉にできない苛立ちと、周囲のすべてを徹底的に破壊し尽くしたいという、耐え難い殺意。
心の平穏なんて、とうの昔に霧散していた。
ただ、内側から抉られるような、決して満たされることのない巨大な空虚だけがそこにある。
(……あの魔王の悍ましい力が、俺の精神を内側からじわじわと侵食し、蝕んでいるんだ)
あの力に頼れば頼るほど、俺は自分という存在の手綱を失っていくのが分かった。
俺は強引に顔を上げ、別のことに意識を向けようと必死に足掻いた。
すると、脳裏に古い記憶の断片が蘇ってくる。
日本の風景。
規則的な音を刻み続ける、病院の医療機器の駆動音。
見飽きた真っ白な天井と、鼻を突く薬品の匂い。
兄貴である、竜神の姿。
どんな時でも俺を庇い、守り続けてくれた唯一の家族。
そして、清美の笑顔と、その優しい声。
二度と戻ることのない、あの平凡で退屈だった日常。
だが、そんな無数の記憶を押し退けて、俺の胸を最も激しく焦がしたのは、別の影だった。
ローズ。
彼女のひたむきな横顔。
あの鮮烈な深紅の瞳。
折れそうな身体で懸命に剣を構える姿。
恐怖に身体を震わせながらも、決して歩みを止めようとはしない、あの背中。
(……)
会いたい。
どうしても、生きて彼女に会わなければならない。
「……俺たちは今、正確にはどこにいる?」
視線を前方から逸らすことなく、俺は隣を併走する騎士に短く問いかけた。
「ヘッセン王国の旧王都、セレスティアル・リーチの郊外です、吉田殿」
俺は短く頷いた。
「アルタクレスタまでは、あとどれくらいだ?」
「このまま正しい街道を進めば……あと数時間というところです」
数時間。そんなのは、今の俺にとっては永遠にも等しい時間だった。
俺たちの焦りを置き去りにするように、太陽は容赦なく地平線の向こうへと没していく。
空は瞬く間に、燃えるような残照から不穏な茜色へとその表情を変えていった。
果てしない道のりを駆け抜け、ようやく俺たちは連峰を貫く狭い山道へと差し掛かった。
そして――俺たちは「それ」を目撃した。
立ち上る、何筋もの黒煙。
それが、夜の帳が下りつつある空へと不気味に吸い込まれていく。
心臓がドサリと嫌な音を立てて跳ね上がった。
俺は狂ったように愛馬の腹を蹴り立てた。
切り立った岩肌に挟まれた狭い通路を進むにつれ、地面に転がる無数の「塊」が視界に入り始めた。
それは、ヘッセン王国の近衛騎士たちの無残な遺体だった。中には見覚えのある顔や、ほんの数日前までとり留めのない雑談を交わしていた相手の姿もあった。
それだけじゃない。敵の兵士たちの死体も、そこかしこに折り重なっている。
二度と立ち上がることのない男たち。
死してもなお武器を握り締めている者や、血の海の中で這いつくばろうとした姿勢のまま事切れている者が、無数に転がっていた。
赤黒い鮮血が、土の地面を容赦なく汚している。
前へ進めば進むほど、死骸の数は異常なほどに膨れ上がっていった。
鼻を突く特有の鉄臭い匂いが、大気の中に濃密に立ち込める。
◇ ◇ ◇
やがて完全な闇が訪れ、月光が地上を照らし始めた頃。
俺たちはようやく山道を抜け、その視界が開けた。
そこにあったのは、アルタクレスタの街だった。
昼間の激戦の名残だろう。目の前に広がる戦場は死傷者やへし折れた軍旗で埋め尽くされ、月明かりの中で不気味な静寂に包まれている。すでに勝敗は決したはずだった。だが不気味なことに、未だに地平線の向こうには、数万を超える敵の大軍勢が撤退もせず、まるで何かを待つように整然と隊列を組んで佇んでいた。不戦の奇妙な混沌が、辺り一面を支配している。
だが、その惨劇の舞台の奥――崩壊しかけた小さな街の輪郭は、未だにそこに存在していた。
アルタクレスタは、まだ落ちていなかった。
一体、俺がいない間にここで何が起きたって言うんだ。
(……)
街の境界へと近づいた瞬間、鋭い警戒の声が響いた。
敗戦処理と治安維持のために残された僅かな近衛騎士たちが、警戒を怠らずに立ち塞がる。
「待て! 武器を収めろ!」
生き残った僅か十人の近衛騎士の一人が、ボロボロの鎧のまま俺の顔を見て安堵の声を上げた。
「味方の増援だ。通せ、道を開けるんだ」
その言葉に、防衛線の男たちが一斉に槍を下ろした。俺は静かに馬から降り、歩みを進めた。遅れて到着しつつある後続の五百人の兵たちは、疲弊しきった生存者たちの救援や戦場掃除へと回り始めていた。
だが、俺は――。
周囲の喧騒を無視して、ただ一人で奥へと歩き続けた。
呼吸は鉛のように重く、息をするたびに胸の奥が痛む。
両脚は限界を迎えて棒のようにつっぱり、小刻みに震えていた。
戦争の苛烈な爪痕を何度も受けながらも、辛うじて持ちこたえている小さな街の残骸を踏みしめ、俺は進む。
頭の中は完全にキャパオーバーで、何が起きたのか全く処理しきれていない。
やがて、臨時の救護所として使われている、小さな、半壊した教会へとたどり着いた。
扉を押し開けると、そこにはこの地獄を生き延びた最後の面々が集まっていた。
負傷した騎士たち、身を寄せ合う領民たち。
その隣には、どこか頼りなげにうつむく、見知らぬ金髪の少年が静かに佇んでいた。
俺は真っ先に、縋るような思いで教会の奥へと視線を走らせた。
(ローズは……ローズはどこにいる?!)
無意識にその最愛の姿を必死に探そうとした、まさにその時だった。突如として、視界の端から何かが猛烈な勢いで俺の身体へと飛び込んできた。
「――ハハハハハハハ!! 生きてやがったか、この大馬鹿野郎!!」
豪快な笑い声と共に強烈なタックルを喰らい、俺は無防備に床へと押し倒された。
仰向けのまま呆然とする俺を、折れんばかりの力で強く抱きしめるエレノア。そのあまりの勢いに、俺の顔面は彼女の胸元の柔らかさへ容赦なく埋め尽くされ、危うく窒息しかける。
「な、何をするんだ……っ!」
「ハハ! 見なよ、こいつ、真っ赤になってやがる!」
その直後、激しい風の塊がエレノアの横腹を叩き、彼女の身体が横へと派手に転がった。
「――その汚い手を退けなさい、この泥棒猫」
教会の奥、粗末な布が敷かれた簡易ベッドの上に、横たわったままのシェイリーがいた。
その体は激しい拷問と疲弊のせいで酷く衰弱しており、身動き一つするのも辛そうだったが、その銀色の瞳だけは、氷のように冷徹な光を宿してエレノアを睨みつけている。
「お前……何でここに……」
(こいつは確か、俺たちを裏切って敵に回ったはずじゃないのか……?)
脳裏にテレスシアでの悍ましい光景と、耳にした不穏な噂がよぎる。敵に捕らえられ、裏切って向こう側に回ったと誰もが口にしていたはずの彼女が、なぜここにいる? 押し寄せる疑問の多さに頭が破裂しそうだった。
だが、俺がその名を口にするより早く、車椅子の上のカサンドラ王女が、その微かに震える瞼を持ち上げた。首から下を全く動かすことのできない彼女は、ただゆっくりと、その美しい紫色の瞳を動かして俺を見つめた。
その疲れ切った顔には、酷く儚げで、どこか優しい微笑が浮かんでいた。
「王女殿下……」
俺は声を絞り出した。
「一体、何があったのですか……?」
教会の中を、深い静寂が満たしていく。
王女はただじっと、その瞳で俺の視線を受け止め、見つめ返した。その瞳の光は、これまでに見たことがないほど、穏やかで満ち足りていた。
「私たちは、勝ったのです……」
彼女は笑った。
本当に、小さく。
壊れてしまいそうなほどに美しく。
気が遠くなるほどの消耗の果てに、その奇跡のような笑みを浮かべて。
「……私の、優しき騎士」




