第59話:戦間期
オークヘヴン城は、朝の柔らかな光を浴びて街を見下ろすようにそびえ立っていた。
かつて簒奪者の臙脂色の旗が長年掲げられていた高い塔には、今や異なる紋章が夜明けの風に力強く翻っている。
水色の旗。
それはカサンドラ・ゼドリエル王女派の旗印だった。
城下では、通りが少しずつ活気を帯び始めていた。商人が店の扉を開け、パン職人が窯に火を入れ、平民たちがまだ眠そうに家から出てくる。
しかし、そんな見慣れた日常は、人々が城の頂を見上げた瞬間にあっけなく破られた。
あちこちで囁き声が広がり始める。
「あれ、王女殿下の旗じゃないか?」
「一体何が起きているんだ?」
「たちの悪い冗談か?」
「いや……間違いなく王女殿下の紋章だ」
「じゃあ……城が落とされたのか?」
困惑と噂は、風よりも早く街中を駆け巡った。
誰も何が起きたのか理解できなかった。
まさか、たった一夜のうちに十二人の『代表騎士』が全滅させられたなど、想像できるはずもなかった。
◇ ◇ ◇
城の内部は、安堵とは程遠い緊迫感に包まれていた。
臨時の作戦本部として使われている広い広間では、貴族や将校、兵士たちが地図や書類が散乱する机を囲んで集まっていた。
この決定的な朝、多くの者が突き動かされるように権力の中心へと駆けつけていた。
室内には、薬草の匂いと兵士たちの汗、そして飛び交う怒号と一晩中続いた緊迫感が濃く立ち込めている。
アルウィンは、補強された長い長椅子に横たわっていた。
その顔は完全に血の気が引いて白く、こめかみからは脂汗が流れ落ちている。
かつて右手のあった袖口は包帯で固く巻かれ、切断された脚の傷口にも厚い布が幾重にも巻き付けられていた。
呼吸をするだけでも激痛が走る。
しかし――。
その瞳の光だけは失われていなかった。
毅然とした、鋭い眼差し。
そこから数メートル離れた壁際では、吉田が静かに腰を下ろしていた。鎧こそ新しいものに着替えていたが、爪の隙間や顔の端々には乾いた血痕がまだ残っている。
黒髪の中に混じる数筋 の白髪が、異様に際立っていた。
彼に向けられる周囲の視線は、決して穏やかなものではなかった。
「本当に、彼一人の手で十二人の『代表騎士』を?」
「そのようだ」
「あり得ん……」
「噂では、あれが魔王の……」
「いや……漆黒の騎士だという話だぞ」
「何だって!?」
貴族たちが小声で囁き合う。
ある者は恐怖の目で見つめ、ある者は畏敬を込め、そして一部の者は――。
ただただ、不信感を募らせていた。
吉田は小さく奥歯を噛み締めたが、決して顔を上げようとはしなかった。
「静粛に」
アルウィンの声が広間に響き渡った。
途端に雑音がかき消える。
老騎士は苦しげに息を整えてから、言葉を続けた。
「一刻を争う事態だ」
彼の視線が一同を見据える。
「この城を掌握したことで、我らの陣営が健在であり、この戦争に名乗りを上げたことを世に示した」
「だが、諸公よ、まだ勝利を確信することはできん。現在、王女殿下はセレスティアル・リーチへ向けて進軍中だ。しかし、もし我々の得た情報が正しいとすれば……殿下はアレッシオとマクミリアンが仕掛けた罠に陥っている」
数人の貴族の顔から血の気が引いた。
アルウィンは一度目を閉じ、再び声を絞り出す。
「あの二人の糞野郎どもに、王女殿下の居場所を知られるなど、完全に想定外だった。それに、簒奪者が魔王の存在をそれほど恐れていたのであれば……あの奇妙な休戦と即席の同盟にも合意が行く」
一人の貴族が立ち上がった。
「王都を抑え、十二人の『代表騎士』が全滅したとなれば、多くの地方領主たちも旗色を窺い始めるはず。遅かれ早かれ、簒奪者への支持は崩壊いたします」
もう一人が重々しく頷く。
「しかし、もし今日、王女殿下が命を落とされれば、すべては一変する」
静寂が広間を支配した。
「我らはゼドリエル家に忠誠を誓う身。正統性の有無に関わらず、あの戦場から生き残った者が一人でもいれば、その者こそが法に則った主君となる。我らの好悪に関わらずな」
「要するに、殿下が斃れれば我らの努力はすべて無に帰すということだ」
その男は続けた。
「あの二つの軍勢が合流を果たしたとなれば、殿下はまさに今この瞬間、絶望的な戦いを強いられている可能性が高い」
その言葉は、全員の胸に重く突き刺さった。
吉田は視線を落とした。
指先がゆっくりと、剣の柄を包み込む。
その心は混沌とし、冷静な判断力が曇りかけていた。
彼は立ち上がった。
言葉を発することなく、出口へと歩き出す。
ここを去らねばならない、ローズの元へ、そしてカサンドラを救わねばならないという衝動に突き動かされていた。
しかし、扉にたどり着く前に――。
ガキィン!
二本の槍が彼の目の前で交差した。
二人の騎士がその行く手を阻み、広間全体が静まり返る。評議会の数人が、少年に目を向けた。
吉田はゆっくりと視線を上げて。
「通してくれ」
低い声だったが、そこには確かな緊張が孕んでいた。
アルウィンは静かに息を吐いた。
「焦るな、少年よ」
吉田が顔を向けた。
「……」
「私も王女殿下の身が案じられてならん」
老騎士は言葉を重ねる。
「だが、今お前が一人で飛び出したところで、アルタクレスタへ到達するには二十日はかかる。あるいはそれ以上だ」
アルウィンは苦渋に満ちた表情で歯を食いしばった。
「我らの軍馬は疲弊しきっている。おまけに、案内人もなしに進めば、迷う危険性の方が高い」
吉田は動かなかった。
だが、その忍耐は限界を迎えつつあった。
「アルウィンさん! なら、俺にどうしろって言うんだ!」
「……」
老騎士はその視線を受け止めた。
「お前の師として、私にはまだお前に教えねばならんことが山ほどある」
少年は剣の柄を痛いほどに握り締めた。
「最も困難な時こそ、平穏を保て……。さもなくば、正しい道を選ぶことはできん。守りたい者を真に救いたいのであれば、子供であることを捨て、男になれ」
その瞬間――。
アルウィンの脳裏に、ひとつの策が浮かんだ。
「――隊長を連れてこい」
しばらくして、全身に殴られた痕のある、鎖に繋がれた男が連行されてきた。
簒奪者側の近衛隊長だった男だ。
兵士たちは彼を、アルウィンの前に無理やり跪かせた。
老騎士は単刀直入に問いかけた。
「神話戦争の時代には、転移の石柱が存在した。あの肥満漢が隠し持っている私的な石柱の場所を、お前なら知っているはずだな?」
男は数秒間、躊躇した。
「黙秘するなら、残されたこの左腕一本で、お前の首を撥ねるが?」
男は力なく頭を垂れた。広間の空気が一変する。
「マクミリアンは政変の直後、外敵の潜入や反乱軍の利用を防ぐためにその大部分を破壊させました……。現存する僅かな石柱は、街から遠く離れた場所にあります」
アルウィンは目を細めた。
「どこだ?」
「……北です」
隊長は生唾を飲み込んだ。
「ここから数キロ離れた古代の遺跡があります。そこに、まだ機能しているかもしれない石柱が一つ残されています」
広間に一筋の希望が戻った。
アルウィンは再び吉田に視線を戻す。
「分かったか?」
「なら、一刻の猶予もない!」
老騎士は苦しげに息を切らした。
「本当に、頑固な少年だ……。いいだろう、行くがいい。だが一人では行かせん。その石柱を起動させるため、我が陣営で最も老練な魔導士を一人同行させる」
彼は一拍置いた。
「そして、一個小隊の騎士たちをお前の護衛として付ける」
その場の者たちが驚愕の声を上げた。
「バレスター卿、本気でその少年をそこまで信じるのですか?」
複数の貴族の視線が、吉田へと突き刺さる。
「昨夜の戦い、そして 数週間前のアルタクレスタでの光景を見た後だ……」
アルウィン・バレスターの顔に、微かな笑みが浮かんだ。
「私は、この少年を信じる」
吉田は黙ってそれを受け止め、静かに頭を下げた。
◇
その儀式は、簡素に、その場で行われた。
音楽もなく、大層な演説もない。
華美な衣装を纏った貴族の姿もなかった。
そこにいたのは、人生で最も長い夜を生き延びた、疲れ果てた兵士たちだけだった。
アルウィンは震える手を掲げた。
「オークヘヴン最高司令官の権限を以て――」
彼の声が広間に厳かに響く。
「――吉田を、ヘッセン王国の新たな『代表騎士』に任命する」
一斉に剣が抜かれた。
朝の光を受けて、鋼が鋭くきらめく。
整列した数百人の騎士たちが、一斉にその剣先を、ほんの数ヶ月前までは無力な足萎えであり、緩慢な死を待つだけだった異国の少年へと向けた。
「忠誠を……カサンドラ・ゼドリエル女王陛下に」
「ヘッセンのために」
「王国の守護者のために!」
五百の鬨の声が一つに重なった。
吉田は静かに目を閉じた。
名誉など求めていなかった。称号など欲しくはなかった。
ただ――。
間に合ってくれ、それだけを願っていた。
◇ ◇ ◇
一秒の猶予も無駄にはしなかった。
剣を帯び、外套を正す。
吉田は心ここに在らずといった様子で小さく頷いた。
城を出る際、彼はオークヘヴンの街並みを一瞬だけ見つめた。領民たちは未だに城壁を見上げ、昨夜の内に何が起きたのかを測りかねている。
少年は視線を逸らし、馬に跨った。
彼の前に城壁の門が大きく開かれる。
彼は案内人も待たず、一心不乱に馬を駆った。
群衆は、黒髪の中に白い毛筋を混じらせた少年が王宮を去っていく姿を呆然と見送るしかなかった。その切れ長の瞳には、激しい決意の炎が宿っている。
「待ってくれ、新たな『代表騎士』殿!」
背後から、慌てて出発の準備を整えた騎士の小隊が、必死になって彼の後を追い始めた。
景色が凄まじい速度で後ろへと流れていく。
遮るもののない空の下に草原が広がり、蹄の音が土の道を絶え間なく叩き続ける。
朝の冷たい風が吉田の顔を打ち付けたが、それでも胸の中で広がる焦燥感を拭い去ることはできなかった。
心臓の鼓動が、あまりにも早すぎる。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
彼は手元に視線を落とした。
前腕が小さく震えている。
そして、それを見てしまった。
皮膚の筋の下で、血管が黒ずみ始めていた。
それが、ゆっくりと広がっていく。
吉田の背筋に、冷たい戦慄が走った。
(……これは、まずい)
彼は歯を食いしばる。
(……魔王の力が、俺を侵食しているのか?)
なぜか――。
不快だった。
苛立ち、激しい怒りがこみ上げてくる。
そして、その衝動は一向に収まらなかった。
彼は手綱を握る手に、さらに力を込める。
(今だけは……頼む)
(今だけは、やめてくれ……!)
◇ ◇ ◇
アルタクレスタ。
その小さな街が、ようやく朝を迎えていた。
死者を悼む時間などなかった。休息を取る暇さえもない。
僅かに残された領民や騎士たちは、石材を運び、即席の防塁を築き、廃屋から剥ぎ取った木板で門を補強していた。
ある者は水桶や工具、物資の袋を抱えて奔走し、魔導士たちは残された僅かな魔力を振り絞って防壁の強化に努めている。
王女と共に進軍した百人の騎士のうち――。
生き残っているのは、僅か十六人。
たったの十六人。
それでも――誰一人として己の職責を放棄する者はいなかった。
◇ ◇ ◇
険しい山道の向こうから、巨大な人間の津波がゆっくりと押し寄せていた。
軍旗。
無数の槍。
騎兵隊。
数千、数万の兵士たちが、防ぎようのない潮水のように押し寄せ、街道に広がりながら、この小さな街を包囲しようとしていた。
最終決戦の布陣が、完成しつつある。
専用の車椅子の上で、首から下の手足を動かすことすら叶わないカサンドラ・ゼドリエルは、迫り来る軍勢を静かに見つめながら、王女としての威厳を保ち続けていた。
しかし、彼女の胸の奥は、決して穏やかではいられなかった。
ローズ。
エリック。
アルウィン。
吉田。
彼らの姿を思い浮かべるたびに、押し殺した恐怖が蘇る。
一人の騎士が、深く椅子に身を預けたままの彼女の体を労わるように、静かに車椅子を押して中央広場へと進んだ。
王国を救った英雄の一人、カマエルの巨大な石像の足元。
王女はその石の姿を見上げ、それから再び地平線へと視線を戻した。
敵の軍勢は着実に接近している。
しかし――。
距離が縮まるにつれて、その進軍の速度が不自然に落ち始めた。
カサンドラは僅かに眉をひそめた。
周囲の兵士たちも、その異変に気づく。
敵はそこにいる。
数千の兵が、ただ、待っている。
備え、身構えている。
王女は、この嵐の前の静けさこそが――実際の突撃よりも遥かに恐ろしいものであると、肌で感じていた。




