第58話:吉田 VS 十二人の『代表騎士(チャンピオン)』
それより数時間前、オークヘヴンは未だ深い夜の中にあった。
夜明け前の薄青い光が、反乱軍の城の窓ガラスを通じて辛うじて差し込んでいる。
先ほどまで老アルウィンの死闘が繰り広げられていた通路は、もはや見る影もなく破壊し尽くされていた。
絨毯は切り裂かれ、壁には無数の亀裂と深い斬痕が刻まれ、床に広がった血は静かに真紅の小川を形成して、消えかけの松明の灯りを不気味に反射している。
立ち込める鉄の臭いは、息が詰まるほどだった。
通路の両端には、一般の兵士たちが身を硬くして立ち尽くしていた。
ある者は小刻みに震え、ある者は静かに祈りを捧げている。
なぜなら、彼らの目の前で――何かが完全に目覚めてしまったからだ。
◇ ◇ ◇
ジャラッ……。
ジャラッ……。
鎖が床の上で不気味な音を立てる。
吉田はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、おぞましい異様な赤色に飢えた輝きを放っている。
そこには、他人の目をまっすぐ見ることすらできなかった、あの内気な少年の面影など微塵も残っていなかった。
彼から放たれる圧倒的な殺気が、通路全体の空気を限界までねじ伏せる。
対峙する十二人の『代表騎士』たちは、大気が急激に重くなるのを肌で感じていた。
しかし――誰一人として退こうとはしない。
ニコラスが、最初に不敵な笑みを浮かべた。
彼は冷静に剣を構えていたが、その奥には確かな恐怖があった。だが同時に、それを上回る異常な昂揚感が彼を支配していた。
「まさか、こんな展開になるとはな……」
彼は低く呟いた。
「――お前が、魔王か!」
マティアスは大声で笑い飛ばした。
「最高じゃないか!」
ダニッツは舌なめずりをした。
「十二人の『代表騎士』対、魔王……。英雄譚の幕開けにふさわしい、美しい響きだ」
彼は剣を高く掲げる。
「英雄カマエルと同じくらい、俺たちの名が世界に轟くチャンスだぞ!」
「……これ以上の舞台はあるまい!」
他の『代表騎士』たちも口々に歪んだ笑みを浮かべた。
彼らは己の全人生を捧げ、戦う怪物へと成り上がってきた。
そして今、運命は彼らに、この世で最も強大なる存在と刃を交える機会を与えたのだ。
十二人が一斉に構えを取る。
十二の狂暴な殺気が通路に満ちた。
吉田が猛り狂う。
「――おおおおおおおおおおっ!!」
そして、肉弾となって突撃した。
◇ ◇ ◇
ドォォォン!
彼の足元で床が爆発した。
吉田は瞬時に一人目の『代表騎士』の目の前に現れ、拳を振り下ろす。
その男は、ただ目を見開くことしかできなかった。
「え……?」
シュパッ!
凄まじい一撃が『代表騎士』の肉体を真っ二つに引き裂いた。
飛び散る鮮血と内臓。身体は二つに分かれて床に転がった。
瞬き一つの間に、強力な『代表騎士』がまるで羽虫のように屠られたのだ。
後に残されたのは、凍りついたような静寂。
戦いに無関係な周囲の一般兵たちは、恐怖のあまり完全に腰を抜かしていた。
――。
「そんな、馬鹿な……!」
「殺せ! その化け物をなぶり殺しにしろ!!」
残る十一の影が、一斉に吉田へと殺到した。
ギィン!
ガキィィン!
シュパッ!
あらゆる死角から刃が振り下ろされる。
吉田はその猛攻の中を、ただ突き進んだ。
エレガントな美しさなどそこにはない。アルウィンのような洗練された剣技でもない。
それはただの暴力。
凶虐。
歩く天災そのものだった。
一人の『代表騎士』が鋭い刺突を放つ。
吉田はその刃を、自らの骨の鎧で強引に受け止めた。
パリィィン!
剣が根元から粉々に砕け散る。男の顔から血の気が引いた。
「何っ……!?」
ドカッ!
吉田の拳がその顔面に直撃する。
頭蓋が不自然に変形し、男の身体は柱を突き破って遥か彼方へと吹き飛んだ。
ドゴォォォン!
砕け散った石材と鮮血が、通路に雨のように降り注いだ。
◇ ◇ ◇
「攻撃を緩めるな! 何が何でもあの糞野郎を仕留めろ!!」
ニコラスが鋭く指揮を執った。
その怒号が、混乱しかけていた『代表騎士』たちを正気に戻す。
「囲め!」
「波状攻撃だ、奴の呼吸を乱せ!」
「師の教えを思い出せ!」
『代表騎士』たちは見事な連携を見せた。
そして、この戦闘が始まって以来初めて――吉田の動きが防がれた。
ギィン!
一振りの剣が彼の突撃を阻む。
シュパッ!
もう一振りが、彼の脇腹を鋭く切り裂いた。
ギィン!
三人目がその背後の鎧を強打する。
吉田が咆哮した。
彼の身体から伸びる鎖が、狂暴に空気を引き裂く。
ベキッ!
一人の『代表騎士』の腕がへし折られた。
シュパッ!
もう一人の首筋に深い傷が刻まれた。
それでも、彼らは戦いを止めなかった。
退いては、再び襲いかかる。
汗を流し、血を流しながらも、彼らは確実に間合いを詰めていく。
なぜなら、彼らは『代表騎士』だからだ。
死を拒絶することこそが、彼らの歩んできた人生のすべてだったからである。
◇ ◇ ◇
床に倒れたまま――。
アルウィンはその光景をじっと見つめていた。
欠損した身体からは未だに血が流れ続け、意識は朦朧とし始めていた。
しかし、その瞳だけは戦いから逸らすことができなかった。
(……吉田……)
不気味にうねる鎖。
血のように赤い瞳。
その底なしの怒り。
老騎士の背筋に、冷たい戦慄が走った。
(……お前は、一体何者なのだ?)
その時、複数の手が彼の身体を優しく支えた。
「アルウィン様!」
老騎士が目を瞬かせる。そこにいたのは、城の一般兵たちだった。
「アルウィン様を救うんだ!」
「早く! 治療のできる者を呼べ!」
「傷口を圧迫しろ!」
アルウィンは困惑して彼らを見つめた。
「お前たち……何をしている……?」
「司令官……俺たちはもう、たくさんなんです……」
一人の兵士が、涙を浮かべて低く呟いた。
「……怯えて生きるのなんて、もう真っ平御免だ」
◇ ◇ ◇
死闘はなおも続いた。
吉田は吠え、『代表騎士』たちは叫ぶ。
通路全体が、その凄まじい衝撃で激しく震え続けていた。
ギィン!
ニコラスが正面から吉田の一撃を受け止める。
「今だ!!」
その背後から、マティアスが音もなく躍り出た。
シュパッ!
鋭い一閃が吉田の背中を大きく引き裂く。
だが、少年は痛みなど感じていないかのように、一切の躊躇なく反転した。
ドカッ!
骨に覆われた硬質な拳が、マティアスの胸を正確に打ち抜いた。
肋骨が粉々に砕け散る。
吹き飛ばされた『代表騎士』は壁に激しく激突し――二度と動かなくなった。
ダニッツの胃の奥に、冷たい塊がこみ上げる。
(……嘘だ、あり得ない、こんな化け物がいるか……)
生まれて初めて、彼は「逃げ出したい」という衝動に駆られていた。
◇ ◇ ◇
フェドールはその凄惨な光景を、ただ恐怖に目を見開いて見つめていた。
呼吸は完全に乱れている。
彼は思い出した。ほんの数分前、自分が容赦なく殴り飛ばした、あの無力な少年の姿を。
おどおどとして、怯えていた、人を殺したことなど一度もないと言っていた、あの少年の姿を。
(……どうして、こんなことに……?)
次の瞬間、吉田が彼の目の前に現れた。
フェドールは半狂乱になって剣を振り回す。
「おおおおおおおおっ!!」
ギィン!
凄ましじい衝撃が彼を後退させる。
ギィン!
二撃目。
ガキィィン!
フェドールは悲鳴を上げた。
必死に反撃を試みるが、吉田の拳がそれを許さない。
ドカッ!
強烈な一撃が彼を吹き飛ばした。
床を転がり、血を吐き出しながらも、彼は必死に立ち上がる。
だが、吉田は容赦なく、何度も、何度も彼を殴りつけた。
微塵の慈悲もない、純粋な暴力。
ドカッ!
ドカッ!
ドカッ!
フェドールの端正な顔が、無残に変形していく。
「やめてくれ……!」
ドカッ!
へし折れた歯が宙を舞う。
「頼む……助けて……!」
ドカッ!
フェドールは再び床に崩れ落ちた。
彼の瞳から、大粒の涙が溢れ出る。
何が起きているのか、彼には理解できなかった。
なぜ、あの新兵が……。あの弱そうな少年が……。
自分をこれほどまでに無残に踏みにじっているのか、その理由が分からなかった。
◇ ◇ ◇
ニコラスが声を枯らして叫んだ。
「――退くな! 踏み止まれ!!」
だが、すべては遅すぎた。
『代表騎士』たちは、一人、また一人と確実に命を落としていった。
シュパッ!
一人が首を跳ね飛ばされる。
ベキッ!
もう一人が首の骨を折られて崩れ落ちる。
床の絨毯は、溢れ出た鮮血で完全に水浸しになっていた。
ダニッツは恐怖のあまり後退した。
「いや……だ……」
吉田がゆっくりと彼に向かって歩み寄る。
ダニッツは手に持っていた剣を床に落とした。
「死にたくない……頼む、助けてくれ!」
吉田の応えは、一瞬だった。
シュパッ!
血濡れた絨毯の上を、男の生首が虚しく転がった。
ニコラスが、最後の力を振り絞って突撃した。
魂の咆咆哮を上げ、残されたすべての生命力を懸けて一撃を放つ。
「――この悪魔めがァァァッ!!」
ギィン!
吉田はその一撃を容易く受け止めた。
そして、骨に覆われた鋭い手が、ニコラスの頑強な鎧を紙細工のように貫く。
グサッ!
ニコラスの胸が完全に貫通した。
『代表騎士』の目が見開かれ、その唇から大量の血が溢れ出る。
彼は、一般兵たちに抱えられているアルウィンの方を静かに見つめた。
二人の視線が、虚空で交錯する。
「……すま、ない……師よ……」
それを最後に、彼は力なく崩れ落ちた。
◇ ◇ ◇
最後に残されたのは、フェドールだった。
若き『代表騎士』は、もはや立っていることすら限界だった。
その顔面は原型を留めないほどに破壊され、全身が小刻みに震えている。
彼は吉田を見上げた。
「俺は……」
彼の瞳に、後悔の涙が満ちていく。
「……すまなかった……」
吉田は彼を見下した。
ほんの一瞬だけ――その赤い瞳の奥に、人間としての理性が戻ったかのように見えた。
しかし、彼は床に落ちていた一振りの剣を静かに拾い上げた。
「死ね」
フェドールは、もはや自分を救う術がどこにもないことを悟った。
彼はゆっくりと頭を垂れた。
「……ごめんなさい」
刃が振り下ろされる。
シュパッ!
剣が彼の額を正確に貫いた。
最後の『代表騎士』が膝から崩れ落ち、そのまま床へと突っ伏した。
血に染まった通路に、重苦しい静寂が押し寄せる。
◇
吉田の漆黒の髪に、一本、また一本と、不自然な白髪が混ざり始めた。
一本。二本。三本。
その異様な光景に、周囲の一般兵たちは恐怖のあまり後退した。
「化け物を殺せ!」
「今だ、今しかねえ!!」
数人の兵士が剣を抜いた。
その時――一人の声が彼らを制した。
「――やめろ!」
一人の老練な騎士が前に進み出た。
彼は床に転がる死体の山を見つめた。
十二人の『代表騎士』。その全員が、一人の少年の手によって全滅させられていた。
老騎士は静かに剣を収め、その場に跪いた。
「この城は……」
彼は生唾を飲み込んだ。
「……降伏する」
静寂がその場を支配した。
やがて、他の兵士たちの剣も、次々と床に落とされていった。
チャリン。
チャリン。
チャリン。
「女王陛下、万歳!」
「カサンドラ・ゼドリエル様、万歳!」
「我らは正統なる王位継承者に忠誠を誓う!」
吉田が一歩、前へ進もうとした。
だがその瞬間、彼の身体を覆っていた骨の鎧が音を立てて崩壊していく。
鎖は虚空へと消え去り、その瞳はゆっくりと元の色彩を取り戻していった。
彼はアルウィンの元へ歩み寄ろうとしたが、糸が切れた人形のように、そのまま力なく冷たい床へと崩れ落ち、意識を失った。
◇
数時間後――。
彼が静かに目を覚ました時、朝焼けの光がオークヘヴンを優しく照らしていた。
アルウィンは全身に包帯を巻かれた状態で横たわっていた。
彼は右腕と右足を失い、顔色は青白く、酷く疲弊していた。だが、確かに生きていた。
老騎士は周囲を見回した。
「……何が、起きている……?」
先ほどの老練な騎士が、彼の前で深く頭を垂れた。
「総司令官殿」
アルウィンは困惑して眉をひそめた。
「私をそんな風に呼ぶな……」
「あなたは、あの簒奪が起きる前、我らの軍の最高司令官であられた御方です」
老騎士は視線を落とした。
「俺たちが今まで何もできなかったのは、あの『代表騎士』たちがいたからです」
彼は拳をきつく握り締めた。
「奴らこそが、俺たちにとって最大の脅威だった。しかし……奴らが全滅した今、あの忌々しい豚のような簒奪者マクミリアンを討ち果たすことができます」
その場にいた全員が、一斉にアルウィンの前に跪いた。
「今こそ、我らは女王陛下の正義のために戦うことができます」
「あの『魔王の少年』の噂はかねてより聞いておりました。ですが、王女殿下がかつてその少年を生かしておかれたのは、彼にそれだけの特別な何かがあるからだと、今なら理解できます」
満身創痍で意識が遠のきかけていたアルウィンは、静かに呼吸を整え、威厳を込めて告げた。
「……そうであるならば、我々が最初になすべきことは、この街のすべてを制圧することだ」
「簒奪者を捕らえよ」
「そして、処刑しろ」
老騎士は重苦しく首を振った。
「総司令官殿……」
彼は生唾を飲み込んだ。
「簒奪者は、もうこの街にはおりません」
床に倒れていた吉田が、必死に身体を起こそうとした。
再び力なく倒れそうになるが、今度は周囲の兵士たちが優しく彼の身体を支えた。
「……何、だって……?」
「数日前に出発したのです」
「アレッシオ王子と共に、進軍いたしました」
吉田の心臓が、恐怖で凍りついた。
「そんな……馬鹿な……」
老騎士は静かに頷いた。
「奴らの狙いは……王女殿下です」
◇ ◇ ◇
オークヘヴンから遥か遠く離れた――北の沿岸道路。
二頭の軍馬が、狂ったように道を疾走していた。
夜明けの光が、海面を黄金色の輝きで染め上げている。
身体中が傷だらけで、乾いた血にまみれた二人の女性の顔を、冷たい風が容赦なく打ち付けた。
ローズは悲痛な面持ちで手綱を強く握りしめていた。
僅かに身体を動かすだけでも、全身の激痛が彼女を苛む。
それでも、彼女は前へ進むことを止めなかった。
隣を走るシェイリーは、ただ押し黙ったままでいた。
やがて――ローズが沈黙を破った。
「この国に、まだあんな古代の魔法が残されていたなんて思いもしなかったわ」
「信じられないかもしれないけど、この王国には、あなたの常識を覆すようなものがまだまだたくさんあるのよ」
ローズは、転移の門を潜り、一瞬にして見知らぬ土地へと現れた事実を、未だに信じられずにいた。
「ところで……さっき言っていた『最終決戦が始まる』っていうのは、どういう意味?」
エルフの少女は視線を落とした。
その指先が、手綱を白くなるほど強く締め付ける。
「アレッシオは、叔父と合流したのよ」
ローズの目が見開かれる。
「何だって!?」
「王女を確実に圧殺するために、軍を動かしているわ」
風がシェイリーの髪を激しく揺らした。
その瞳には、隠しきれない恐怖が宿っている。
「それに……魔王の件とは別に、二人が同盟を組まざるを得ないような、ある重大な『情報』がもたらされたらしいの」
ローズの背筋に、冷たい戦慄が走った。
「情報……? 一体どんな情報よ」
シェイリーはゆっくりと顔を上げ、震える声で答えた。
「分からない。でも……あの水と油のような二人の宿敵が、手を取り合わざるを得ないほど、致命的で重要な何かに違いないわ」
ローズの馬の速度が、自然と落ちていった。
彼女の呼吸が、鉛のように重くなる。
その言葉の持つ、本当の恐ろしさを、彼女は直感的に理解していた。
「……本当に、この国の上層部の戦争には、虫酸が走るわね」




