第57話:ローズ VS 七人の『代表騎士(チャンピオン)』其の2
テレスシア城の屋根の上は、完全に戦場と化していた。
蒼白き満月の光に照らされ、砕け散った瓦や石の破片が、生々しい血溜まりの中に積み重なっていく。
爆発によって上がった炎がいくつかの見張り塔を焼き尽くし、夜空へと黒煙の柱を打ち上げていた。
中庭からは兵士たちの叫び声が響き渡り、警戒を告げる喇叭の音や、空を切り裂く矢の風切り音と混ざり合う。
街全体が、悪夢の真っ只中で目を覚ましたかのようだった。
そして、城の最も高き場所で――。
ローズは、なす術もなく打ちのめされていた。
◇ ◇ ◇
ギィン!
振り下ろされる刃。
ローズは辛うじて受け止めた。
間髪入れずに二撃目が迫る。
両腕が激しく震えた。
体勢を立て直すよりも早く――。
ドカッ!
鋭い膝蹴りが腹部にめり込む。
「ぐっ……!」
肺から一気に空気が押し出された。
反応する時間など、微塵も与えられない。
ドカッ!
顔面に拳が叩き込まれる。
シュパッ!
刃が肩を切り裂き、鮮血が舞った。
ドカッ!
容赦のない蹴りを受け、遥か後方へと吹き飛ばされ、瓦の上を激しく転がった。
泥まみれになりながらも、必死に立ち上がろうとした。
だが、七人の『代表騎士』はすでに眼前に迫っている。
間合いも、時間も、一切与えられない。
対峙しているのは、文字通りの怪物たちだった。
「息をつかせるな!」
「ここで仕留めろ!」
「今だ!」
ローズは猛り狂った。
「――おおおおおっ!!」
再び敵陣へと突撃する。
ギィン!
迫り来る刃を一本、弾き飛ばす。
シュパッ!
一人の腕を切り裂き、そのまま鋭く旋回した。
ドカッ!
剣の柄頭で、もう一人の胸元を強打する。
しかし、その直後――。
ギィン!
ギィン!
ギィン!
立て続けに放たれた三つの連撃。
ついに膝ががくりと折れた。
手にした普通の剣は大きく刃が毀れ、指先からこぼれ落ちそうになる。
(……天空の剣さえあれば……いや、これほど強いなんて、思いもしなかった……)
呼吸は熱く燃え上がるように苦しい。
鎧は粉々に砕け散り、脇腹からは止めどなく血が流れ落ちていた。
(……普通の武器じゃ、奴らの防具をまともに切り裂くことすら……もう、駄目……)
ドカッ!
容赦のない拳が顎に直撃し、視界が激しく反転した。
◇ ◇ ◇
その惨状を見て、エリックの目が見開かれる。
「ローズ!」
シェイリーが必死に体を起こそうとした。
「だめ……エリック……」
だが、若き魔導師はすでに覚悟を決めていた。
足元に魔法陣が浮かび上がる。
両の掌に、激しい風が渦巻き始めた。
「エリック……」
シェイリーが息も絶え絶えにその名を呼ぶ。
「――天上の風」
魔法が炸裂した。
ゴォォォォッ!
猛烈な突風がローズを直撃する。
「えっ……!?」
身体が宙を舞い、代表騎士たちの間合いから遥か遠くへと弾き飛ばされた。
屋根の反対側に激しく着地し、口から血を吐き出しながら視線を上げる。
そこには、毅然と立つエリックの姿があった。
若き近衛騎士は、小さく微笑んだ。
「少し休んでいて」
――そしてエリックは、ただ一人で、七人の『代表騎士』に向かって歩き出した。
「おいおい、ただの馬鹿か?」
代表騎士の一人が嘲るように問いかけた。
「たった一人で、俺たち相手に立ち回るつもりか?」
エリックは手袋をきつく締め直した。
「お前らみたいなクズどもに、身の程を教えてやる時間さ」
代表騎士たちが邪悪に笑う。
「言うねえ。なら、来な!」
先陣の一人が襲いかかった。だが――エリックは瞬時にその姿を消した。
ドゴォォン!
敵の足元で爆発が炸裂した。
不意を突かれた代表騎士が吹き飛ばされる。
「なっ、何だと!?」
もう一人が上空から襲いかかる。
エリックは瞬時に手で印を描いた。
「――爆裂」
ドゴォォォン!
屋根が激しく揺れ動く。
砕けた石の破片が四方八方へと飛び散った。
三人目の代表騎士が、背後に音もなく現れる。
「遅いよ」
エリックは瞬時にその場から転移した。
シュッ!
鋭い風の刃が、敵の頬を薄く切り裂く。
代表騎士たちがじりじりと後退し始めた。
「この野郎……! ただの魔法使いじゃねえ、糞忌々しい戦術家だ!」
エリックは不敵に笑った。
「どこの馬鹿が、お前らみたいな化け物と正直に正面から戦うかよ!」
周囲を、無数の魔導スクロールが目まぐるしく回転していた。
魔法、爆発、烈風、速度、速度、そして瞬間移動。
その無駄のない洗練された動作、すべての判断が緻密に計算されていた。
ヘッセン王国が誇る若き神童は、本物の英傑の如く戦っていた。
ドカン!
ゴォォッ!
バキィィン!
あの七人の『代表騎士』でさえ、圧倒されて後退を余儀なくされていた。
満身創痍のローズは、信じられないというようにその光景を見つめていた。
(……エリック?……)
しかし、絶対的な「数の暴力」だけは厳然として存在していた。
額から大量の汗が流れ落ち、動きが確実に鈍り始める。
残るスクロールがまた一枚減り、呼吸は目に見えて荒くなっていく。
それは、ほんの一瞬の隙だった。
ギィィン!
代表騎士の一人が魔法を遮断した。
ドカッ!
もう一人が脇腹を激しく殴りつける。
エリックは激しく吐血した。
「チッ……!」
三振りの剣が周囲を取り囲む。
四方、五方。そして、七人。
完全に包囲網が閉じた。
◇ ◇ ◇
ローズは必死に立ち上がろうとした。
両足が激しく震える。
「エリック……!」
視界の中で、すべての光景が、まるでスローモーションのように引き伸ばされていく。
代表騎士の一人が、若き魔導師に向けて刃を振り上げた。
ドカッ!
エリックの身体が宙に弾き飛ばされる。
時間が止まったかのようだった。
空中でゆっくりと身体が回転する。
冷たい夜風が髪を優しく揺らしていた。
そして、エリックはローズの方へと顔を向けた。
悪戯っぽく、いつものように片目をウインクしてみせる。
その唇には、何一つ変わらない穏やかな微笑みが浮かんでいた。
まるで「大丈夫だから」と、仲間を安心させるかのように。
ローズの目が見開かれる。
「エリックーーーーーッ!!」
シェイリー・ニンティネルが、光の弓を握りしめたままその場に崩れ落ちた。
「エリック……」
代表騎士が剣を高く掲げた。
地獄の死神の如く、ゆっくりと、残酷なほどゆっくりと振り下ろされる。
刃が空を切る。
ローズは手を伸ばした。
「嫌だアアアアアッ!!!!」
シュパッ!!!
鮮血の飛沫が夜空を汚し、エリックの首が宙を舞った。
残された身体が、嘘のようにゆっくりと、力なく瓦へと崩れ落ちていく。
しかし、その顔には、最期まであの微笑みが残されたままだった。
屋根の上に、不気味なほどの静寂が押し寄せる。
シェイリーは人目も忘れて激しく泣き崩れていた。
嗚咽とも悲鳴ともつかないその声は、魂の底から引き裂かれた絶望そのものだった。
「ああああああああーーーーーーっ!!!!」
悲痛な哭声が、どこまでも夜空に響き渡った。
◇ ◇ ◇
「ハハハハハハハ! ギャハハハハハハハ!」
七人のうちの一人が、大声で笑い転げ始めた。
「見たかよ、今の! あの生意気なガキ、本気で俺たちに勝てると思ってやがったぜ!」
ローズの理性が、音を立てて弾け飛んだ。
「ああああああーーーーーっ!!」
怒り狂い、全精力を振り絞って手にした普通の剣を握りしめ、城の屋根の瓦を蹴って突撃した。
猛然と斬りかかる。
ギィン!
だが、一振りの剣がそれを容易く受け止めた。
安物の鋼鉄が悲鳴を上げ、火花が散る。
「弱いな、お嬢ちゃん。そんな鈍らで俺たちに挑む気か?」
ドカッ!
顔面への容赦ない一撃。
ドカッ!
二撃目。
ドカッ!
強烈な蹴り。
無様に吹き飛ばされ、激しく瓦の上を転がる。それでも血を吐きながら立ち上がった。
普通の剣はすでにボロボロに刃こぼれし、鉛のように重くのしかかっていた。
それでも、我を忘れて襲いかかった。
「死ねえええええっ!!」
ガキィィン!
ガキィィン!
ガキィィン!
七人の『代表騎士』は、ただ圧倒的な力で踏みにじる。
今のローズの剣には、技術など存在しなかった。
ただの怒り、ただの痛み、ただの絶望だけで振り回している。だから、勝てるはずがなかった。
代表騎士の一人が邪悪に微笑む。
「終わりにしてやるよ」
全員が同時に間合いを詰める。その時――。
シュッ!
闇を切り裂き、一筋の矢が飛び込んできた。
シュパッ!
二の矢。
シュパッ!
三の矢。
代表騎士たちは虚を突かれ、驚愕して後退した。
直後、煙幕弾が炸裂する。
ドォォン!
視界が一瞬にして白い煙に覆いつくされた。
何が起きているのか、まるで見当もつかなかった。
突然、誰かの腕が身体を強引に抱き起こす。
「動いて!」
「……シェイリー?」
エルフの弓兵は、ローズをその肩に担ぎ上げると、脇目も振らずに全力で走り出した。
◇ ◇ ◇
二人は跳んだ。
一つの屋根から、また次の屋根へ。さらにその先へ。
白い煙が街を覆い尽くしていく中、背後からは未だに爆発の轟音が鳴り響いていた。
「捕まえろ! 逃がすな!」
「おい、あの耳の長い雌犬は俺たちの仲間じゃなかったのか!?」
「エルフの奴、裏切りやがったな!!」
「シェイリーを殺せ!!」
城の屋根を命懸けで飛び越えていく弓兵の顔を、何筋もの涙が流れ落ちていた。
ただ、前だけを見て突き進む。
身体がどれほど限界を迎えていようとも、全身の筋肉が悲鳴を上げていようとも、それでも足を止めなかった。
ついに城壁を飛び越え、テレスシアの街から脱出することに成功した。
やがて、広大な草原へと辿り着く。
かつて、この無謀な任務を始める前に集まった、あの同じ草原に。
シェイリーはローズの身体を草の上に横たわらせ、そのまま力なく膝をついた。
◇ ◇ ◇
ローズの身体は小刻みに震えていた。
肉体の激しい痛み、敗北の屈辱、あるいは胸を焦がすような激しい憤怒。
脳裏には、エリックの最期の顔が焼き付いて離れない。
エルフの少女を見つめた。
怒鳴り散らしたかった。お前のせいでこんなことになったのだと、強く責め立てたかった。
「お前……!」
しかし、その言葉は喉の奥で止まった。
シェイリーは人目も忘れて激しく泣き崩れていた。嗚咽とも悲鳴ともつかないその声は、魂の底から引き裂かれた絶望そのものだった。
「エリック……!」
自分の身体をきつく抱きしめ、声を震わせる。
「エリック……! 私の、家族が……これで、みんな殺される……」
その姿を見て、ゆっくりとボロボロになった剣を下げた。
込み上げる悲痛な感情に耐えかね、目からも涙が溢れ出す。
「……お前を、裏切り者と責める資格なんて、私にはない」
シェイリーが涙に濡れた顔を上げた。
ローズは唇をきつく噛み締めた。
「だって、そもそも……私は……世界を裏切った反逆者なんだから」
二人の間に、重苦しい沈黙が広がった。
やがて、シェイリーが声を絞り出す。
「アレッシオは……テレスシアにはいないわ」
ローズが勢いよく顔を上げた。
「何だって……?」
「あいつは、王女を討つために進軍したのよ」
瞳は、完全に光を失っていた。
「すべては罠だったの……。王女が南へ進軍したと知ったあいつは、古代のザリア文明の遺跡を使って、セレスティアル・リーチへと転移したわ」
遥か彼方の街を振り返った。
テレスシアは赤赤と燃え盛っている。
任務は完全に失敗に終わった。
エリックは死んだ。そして今、カサンドラに魔の手が迫っている。
シェイリーは両の拳を、血がにじむほど強く握りしめた。
「私には、もう何も残っていない。きっと今頃、私の家族は処刑されているわ。私に残された唯一の道は……アレッシオを殺すことだけよ」
ローズは沈黙を守った。
その後、身体中の激痛に耐えながら、ゆっくりと立ち上がった。
エリックが遺した馬に目を留める。
「あの馬に乗れ」
シェイリーが不思議そうに見つめてくる。
「何をするつもり?」
「アルタクレスタへ戻る」
「そんなの時間がないわ! あそこは遠すぎる!」
エルフの少女が悲痛に抗議した。
「じゃあ、他にどんな策があるっていうんだ!」
シェイリーは数秒間、激しく葛藤した。
そして意を決したように、深く頷いた。
「ザリアの遺跡を使いましょう。そうすれば、アルタクレスタの近郊まで一瞬で転移できるわ」
「何だって……?」
困惑して問い返す。
「私がまだあいつらの側にいた頃、アレッシオに直接情報を流すためにその遺跡を使っていたの。まだ起動しているはずよ」
「お前……! で、その遺跡はどこにある?」
「アレッシオが使ったものは城内にあるから無理だけど……私が使っていた場所なら、ここから数キロ先にあるわ」
「だったら、今すぐ行くぞ!」
◇ ◇ ◇
二頭の馬は、狂ったように夜の帳を駆け抜けた。
地平線が、うっすらと朝焼けの琥珀色に染まり始める。
冷たい風が顔を容赦なく打ち付けた。
肉体は傷だらけで、体力的にはすでに限界を迎え、半死半生の有様だった。
それでも、二人は進み続けた。
馬を走らせながら――。
ローズは何故か、吉田のことを考えていた。
耐え難いほどの不安が、胸をきつく締め付ける。
シェイリーは、溢れる涙を乱暴に拭い去った。
「心配しないで」
無理に笑おうとする。
「もし吉田がキレたら……あんなクズの代表騎士ども、一人残らず床の塵にしてくれるわよ」
しばらく黙り込んでいた。
やがて、消え入りそうな声で呟いた。
「……代表騎士一人を相手にするのと」
手綱を握る手に力を込める。
「それとは、わけが違うのよ……」
声が、明らかな恐怖でひび割れた。
「……あいつらを、七人を同時に相手にするなんて」
あの屋根の上の光景が脳裏に鮮明に蘇る。
飛び散る血、圧倒的な無力感。
「それが、私たちの間違いだった」
吉田と出会って以来、初めてのことだった。
ローズは、自分たちが「手遅れ」になるかもしれないという本物の恐怖に、激しく身を震わせていた。
◇ ◇ ◇
テレスシア城の屋根の上には――。
今はただ、静かな風が吹き抜けていた。
黒い煙は、未だに空へと昇り続けている。
兵士たちは躍起になって侵入者の捜索を続けていた。
そんな混沌の渦中で、エリックの身体は物言わぬ骸となって横たわっていた。
首は、数歩離れた場所に転がっている。
だが、その顔には、未だにあの穏やかな表情が刻まれたままだった。
まるで、死という絶対的な絶望でさえも、周囲に見せ続けていたあの「余裕」を奪い去ることはできなかったかのように。
栄光の姫に終生変わらぬ忠誠を誓った、若き近衛騎士。
隠密行動よりも、派手な破壊と大騒ぎを好んだ異端の戦術家。
最期に片目を瞑り、仲間を安心させようとした、あの優しい少年。
その瞳を再び開くことは、二度とない。
風が、鮮血で赤く染まったローブを優しく揺らしていた。
月が消え去り、東の空から厳かな夜明けが訪れようとするその天の下で――。
エリックは、自らの最後の旅路へと出発した。
見届ける者もなく。
称える誉れもなく。
しかし、己がその命を懸けて守ると誓ったもの――。
自らの姫と、大切な仲間たちを最期まで守り抜き、その義務を果たして。
◇ ◇ ◇
セレスティアル・リーチの外縁に広がる平原は、果てしなく続いているかのように思われた。
黄金色の朝日の光に照らされ、朝の風に吹かれて青々とした草が静かに波打っている。
遠くの山々はオレンジ色に染まり、軽やかな朝霧が土の道に幾重にも這うように漂って、近衛兵たちが夜の間に破壊した敵の拠点の残骸を朧げに覆い隠していた。
ほんの数時間前、あの94人の兵士たちは、小さな勝利を祝っていた。
しかし今、世界のすべてが崩壊しようとしていた。
カサンドラ・ゼドリエル王女は、沈黙の中で地平線を見つめていた。
そこから現れたのは、まさに悪夢そのものだった。
数千。いや、数万の兵力。
果てしない海のように翻る敵の軍旗と、天を突く無数の槍の群れ。
重装騎兵、弓兵、そして魔導師団。
視界の果てまで埋め尽くす、圧倒的な人間の壁。
部下たちは、恐怖に生唾を飲み込んだ。
ある者は力なく武器を下げ、ある者はただ微動だにできず立ち尽した。
「……そんな、馬鹿な……」
一人の兵士が絶望に声を震わせる。
カサンドラは、特製の鞍の上で毅然と背筋を伸ばしていた。
その冷徹なまでに静かな横顔で、己の精神を蝕む恐怖を必死に押し殺していた。
圧倒的な大軍の先頭に、二人の男が立っていた。
アレッシオ・ゼドリエル、そしてマクシミリエン。
従兄であり、叔父。
かつて激しく対立していたはずの二人が、今は強固な同盟を結び、そこに並んでいた。
最悪の悪夢の中でさえ、決して想定していなかった最悪の可能性。
(……どうして……?)
その答えは、背筋が凍るほどに明確だった。
かつて放ったロゼット・ベイカー、エリック、吉田、アルウィンの暗殺部隊は、最初から「誰もいない城」を襲わされていたのだ。
自らの戦力を完全に分散させられ、敵が用意周到に準備していた罠のド真ん中に、自ら飛び込んでしまったのだ。
アレッシオの顔が、醜く歪んだ歓喜の笑みに染まる。
マクシミリエンは、冷酷な眼差しで姪である王女を見下ろしていた。
何の前触れもなく、敵の大軍が一斉に進軍を開始した。
「――突撃せよ!!」
大地を震わせる咆哮が平原を突き抜けた。
人間の山が、津波となって動き出す。
地響きが鳴り響く。数万の足音、数万の鬨の声。
朝日に反射してギラギラと輝く無数の凶器は、到底人間には止められない雪崩のようだった。
近衛騎士たちの顔から血の気が引いていく。
指揮官が、必死の形相で王女を振り返った。
「王女殿下! 一度退いて、本隊と合流せねばなりません!」
カサンドラは、ほんの一瞬だけ瞳を閉じた。
武者震いを抑え、再び目を開いた時、そこには一国の「女王」としての覚悟が宿っていた。
「――防衛陣形を敷きなさい!」
騎士たちはその命に平伏した。
残された94人の漢たちが前線へと進み出、一列の防衛線を構築する。
鎧は傷つき、その顔には隠しきれない疲労が滲んでいたが、誰一人として一歩も退かなかった。
「王女殿下のために!」
「ヘッセンのために!」
「――正統なる女王陛下のために!!」
敵の鋼鉄の濁流が、彼らに激突した。
◇ ◇ ◇
ギィィン!
シュパッ!
ドゴォン!
世界が爆発したかのような衝撃が戦場を支配した。
近衛騎士の一人が、迫る敵兵の胸を剣で貫いた。
もう一人が槍を弾き返す。
三分の一秒の狂いもなく、三人目の騎士が首に矢を受けて崩れ落ちる。
戦場は一瞬にして混沌の坩堝と化した。
「押し戻せ! 踏み止まるんだ!」
「引くな! 持ちこたえろ!」
「カサンドラ様のために!」
漢たちは背中を合わせ、死に物狂いで戦っていた。
一人一人は、通常の兵士数十人に匹敵する手練れ。
百戦錬磨のベテランであり、王家の血筋を守るためだけに選りすぐられた精鋭中の精鋭だった。
しかし、そんな彼らであっても、肉体の限界は存在した。
シュパッ!
一人の騎士が、三本の槍に身体を貫かれて倒れる。
シュパッ!
もう一人の首が宙を舞う。
ドサッ!
物言わぬ骸が、次々と草の上に転がっていく。
鮮血が草原を赤く染め上げていく。
王女の騎士たちは、多勢に無勢の中で一枚、また一枚と剥がされるように討ち取られていった。
カサンドラはその凄惨な光景を、ただ見つめるしかなかった。
その一人一人の死が、心臓を鋭く突き刺していく。
「……撤退しなさい」
声は、辛うじて聞き取れるほどの微かな呟きだった。
指揮官が驚愕して振り返る。
「殿下……?」
王女の瞳には、今にも溢れ出しそうな涙が溜まっていた。
「命令です。退きなさい」
表情が氷のように冷たく強張る。
それを見た指揮官は、血を吐くような声を張り上げた。
「――撤退! 全員、撤退せよ!」
生き残った近衛兵たちは、悔しさに歯をくいしばりながらも、その命に従った。
「退け! 退くんだ!」
これ以上ここに留まることは、ただ無駄に命を捨てることを意味していたからだ。
馬の首を翻し、敗走を開始した。
だが、執拗な追撃を受け、背後でさらに38人の勇敢な騎士たちが鋼鉄の海に呑み込まれ、帰らぬ人となった。
カサンドラは深く頭を垂れた。
「……すまない、皆……許してくれ……」
◇ ◇ ◇
「逃がすな! 一人も生かして帰すな!」
アレッシオは野獣のような狂気を孕んだ笑みを浮かべ、前方を指差した。
「追え! 貪り尽くせ!」
マクシミリエンが静かに手を上げる。
「裏切り者どもを、文字通り圧殺せよ」
数万の兵士たちが地鳴りのような歓声で応じた。
こうして、容赦のない追撃戦の火蓋が切って落とされた。
王女は愛馬を全速力で走らせていた。
激しい風が美しい栗色の髪を掻き乱し、馬蹄の音が絶え間なく大地を叩きつける。
周囲では、辛うじて生き残った数少ない騎士たちが、激しく肩を上下させて息を切らせていた。
指揮官が、すぐ隣に並んで馬を走らせる。
「アルタクレスタへ向かいます!」
カサンドラが鋭い視線を向けた。
「あそこに立て籠もり、決戦の防衛線を築くのです!」
声が、微かに震えていた。
「アルタクレスタを囲むすべての森林を焼き払いなさい。あの化け物どもの進軍を、少しでも遅らせるために」
指揮官は驚愕に目を見張ったが、王女の決意は固かった。
「……背に腹は代えられません。あの大軍を、これ以上自由に全速前進させるわけにはいかないのです」
背後を振り返った。
追っ手たちが巻き上げる巨大な土煙の雲が、刻一刻とこちらに迫っている。
「もし……あいつらが最初から手を組んでいると知っていれば……。暗殺部隊を派遣するような致命的な愚策は、絶対に選ばなかった……!」
声が、無念さに激しくひび割れる。
指揮官はただ沈黙した。かけるべき言葉など、この世のどこにも存在しなかった。
◇ ◇ ◇
それから、長い時間が経過した。
太陽はゆっくりと中天へと昇り、容赦のない追撃はなおも続いていた。
山を越え、険しい小道を抜け、深い森を潜り、川を渡る。
軍馬たちは、一様に限界の兆候を示し始めていた。
しかし、敵との距離は確実に縮まりつつあった。
やがて一行は、険しい山岳地帯の峠道へと差し掛かった。
鬱蒼とした深い森林に挟まれた、非常に狭い一本道。
指揮官が、突如として高く手を上げた。
「――全軍、止まれ!」
激しい防衛戦の末、94名いた近衛兵はすでに56名にまで減り、軍馬も限界を迎えていた。
そのうちの40人の近衛騎士たちが、敵の進軍をここで食い止める覚悟を決め、一斉に馬から飛び降りた。カサンドラと共にアルタクレスタへ逃れる不退転の16人を、先へ行かせるために。
王女は驚愕して目を見開いた。
「あなたたち、一体何をするつもりですか!?」
騎士の一人が、不敵に微笑んだ。
まだ若く、おそらく25歳にも達していないであろう青年だった。
「私たちは、ここに残ります」
「駄目よ!」
カサンドラは即座に激しく首を振った。
「そんな捨て石になるような真似、絶対に許しません!」
指揮官はゆっくりと馬を降りると、王女の前に進み出て、最高の敬意を込めた騎士の礼を捧げた。
「王女殿下」
まっすぐにカサンドラの瞳を見つめる。
「私たちの運命が、ここでどのような結末を迎えようとも――」
自らの胸の上に静かに手を置いた。
「――私たちの忠誠は、永遠にあなたと共にあります」
背後に控える他の騎士たちも、一斉に同じ姿勢を取った。
誰一人として、その瞳に迷いはなかった。涙を流す者すら、一人もいない。
ただ、自らが下したその決断を、誇り高く受け入れていた。
カサンドラの喉の奥に、言葉にならない熱い塊が込み上げる。
「……もう、誰一人として犠牲にしたくないのです……!」
指揮官は、どこか哀愁を帯びた、しかし晴れやかな笑みを浮かべた。
「ならば殿下、どうか私たちに、自らの戦い方を選ばせてください」
◇ ◇ ◇
40人の近衛騎士たちは、連峰の狭隘な一本道にその身を孤立させた。
魔導師たちが一斉に杖を掲げると、火炎が湧き上がった。
ゴォォォォッ!
激しい炎が、周囲の深い森林を急速に呑み込んでいく。
樹齢数百年の巨木たちが激しく燃え盛り、天に向かって巨大な黒煙が立ち上る。
峠の入り口は、燃え盛る炎によって完全に「致命的な隘路」へと変貌した。
直後、敵の先遣隊が姿を現した。
数千、数万の兵力。到底抗いきれない人間の津波。
対するは――僅か40人の近衛騎士。
指揮官は、静かに愛刀を抜いた。
「――構え。者ども、準備はいいか」
戦友たちが、一斉に自らの武器を高く掲げる。
燃え盛る火災の凄まじい熱風が、彼らの顔を赤々と照らしていた。
背後では、今まさに、自分たちが命に代えても守るべき王女が遠くへ逃れていく。
それだけで十分だった。
「ヘッセンのために!!」
「――王女殿下のために!!」
人間の山が、狂暴な地鳴りと共に彼らに向かって殺到する。
40人の漢たちは、その巨大な質量を真っ向から迎え撃つべく、全力で突撃を開始した。
◇ ◇ ◇
さらに、無情にも時間は経過していった。
背後で仲間たちがその命を燃やし尽くし、カサンドラに付き従うロイヤルガードの数は、僅か16人にまで激減していた。
周囲には、薄暗い夕暮れの気配が色濃く近づきつつある。
生き残った者たちは、一瞬たりとも足を止めることなく、ただ泥を跳ね上げて疾走を続けていた。
飢えと、渇き。
泥と血にまみれ、疲弊しきった身体を引きずりながらも、ただ前へ、前へと進む。
そしてついに、その姿を捉えた。
アルタクレスタ。
地平線に、辛うじてその輪郭を覗かせる小さな街。
そこが残された、文字通りの最後の避難所だった。
王国の運命のすべてが決する、終焉の地。
生き残った騎士たちの口から、震えるような安堵の吐息が漏れた。
ある者は静かに涙を流し、ある者はただ無言でその光景を見つめていた。
カサンドラは、目の前に佇む小さなアルタクレスタと、その背後にそびえ立つ険しく雄大な山脈を見上げた。
ここが絶対に退けない最終防衛線。
背後には数十人もの忠臣たちの骸を残し、前方にはこれまで以上に凄惨で過酷な戦いが待ち受けている。
夕暮れの風に髪を煽られながら、王女はその胸に重く冷たい覚悟を刻んでいた。
味方や部下たちが、すべての戦線で命を懸けて死闘を繰り広げている。
ならば自身もまた、その命のすべてを懸けて、最後の戦いに挑まねばならないのだと。




