第56話:伝説の失脚
夜は未だ、ヘッセン王国を貪り続けていた。
満月の冷たい輝きの下、三つの異なる戦線が同時に炎を上げていた。
だが、その渦中にいる誰一人として、現在進行形で紡がれつつある悲劇の本質を、未だ理解してはいなかった。
オークヘヴンでは、反乱軍の城内で鋼と鋼が激しくぶつかり合っていた。
テレスシアでは、爆発の光が街の屋根を赤々と照らし出していた。
そしてアルタクレスタの南へと続く街道では――
王女率いる小規模な軍勢が、夜明けと共に戦争が終結することを確信して馬を走らせていた。
しかし、この夜……運命は彼ら全員をあざ笑うことを決めていた。
◇ ◇ ◇
吉田の顔は熱く焼けるようだった。
度重なる打撃を受けすぎたせいですでに麻痺し、痛みすら感じなくなっている。
もはや、何発殴られたのか数えることも放棄していた。
フェドールは少年の髪を掴み上げ、無理やりその場に膝を折らせていた。この『代表騎士』の呼吸もまた、激しく乱れている。
その頬の一部には、先ほど吉田が放った想定外の魔法による火傷の痕が生々しく刻まれたままであった。
しかし、その傷は彼の表情をより一層冷酷に硬化させるだけに過ぎなかった。
「降伏しろと言ったはずだ……」
フェドールは低く呟いた。
ドカッ!
強烈な拳が吉田の頬へと叩き込まれた。
世界が激しく回転する。
廊下の絨毯の上に、ボタボタと血が滴り落ちた。
「ぐはっ……!」
ドカッ!
追撃の重い一撃。
少年の頭部が激しく揺さぶられた。
「理解できん……」
フェドールは途切れ途切れの声で言葉を続けた。
「お前は弱く……未熟だ……。そんな身で、ただ無駄死にするためにこの場所へ来たとでも言うのか?」
吉田はまともに息をすることすら出来なかった。
左目は酷く腫れ上がり、塞がりかけている。
舌は鉛のように重い。
両腕はガタガタと震えていた。
その痛みは到底耐え難いものだった。
しかし、それでも……彼はゆっくりと顔を巡らせた。
そして、前方を見つめた。
彼の瞳孔が、驚愕に大きく見開かれる。
「……アルウィン?」
◇ ◇ ◇
老剣士は、さながら嵐のように戦っていた。
ガキィィン!
ニコラスの剣が振り下ろされる。
アルウィンはそれを受け止めた。
ギギギギィン!
マティアスが左側から急襲する。
それを弾き返す。
シュッ!
ダニッツが鋭い刺突を放った。
老剣士は自らの身体を鋭く反転させた。
彼の刃は、常軌を逸した圧倒的な精度で闇を切った。
火花。血。汗。
老いた剣士の呼吸は一撃ごとに重さを増していく。
しかし、その身のこなしは依然として美しかった。
それは数十年の経験によって培われた、至高の演舞。
一切の力を無駄にしない。
不要な動きは一つとして存在しなかった。
防ぎ。下がり。即座に斬り返す。
どれほど傷つこうとも……彼は未だアルウィンだった。
王国最強と謳われた、無双の剣士だった。
「クソがッ!」
マティアスが唾を吐き捨てた。
「まだ粘るか!」
ダニッツが唸る。
ニコラスは冷酷に笑った。
「流石は僕たちの師だ。こうでなくては!」
しかし……その肉体には確実に傷が蓄積していた。
ザシュッ!
刃が老剣士の太ももを深く切り裂いた。
ザシュッ!
もう一撃が、その背中を大きく割った。
鮮血が衣服を伝い、ゆっくりと床へ流れ落ちていく。
両腕が焼けるように熱い。
呼吸は不規則に乱れ始めていた。
(……ここまでのものとはな……)
老剣士は心の中で毒づいた。
(この三人を相手に、私一人では長持ちせん……)
その時――それは起こった。
ドッ!
ドッ!
ドッ!
廊下の奥から、新たな足音が響き渡った。
ニコラスさえも、その気配に顔を向けた。
暗闇から、七つの影が現れた。
その甲冑は松明の炎を浴びて鈍く光っている。
彼らは剣を肩のあたりに無造作に預けていた。
そして、その瞳には……慈悲の欠片も存在しなかった。
吉田の全身から、一気に血の気が引いていくのが分かった。
「……嘘だろ……」
フェドールはその光景を見つめた。
「お前たちにとっては、最悪の展開だな」
彼は重いため息をついた。
「まさか、これがただの軽い散歩にでもなると思っていたのか?」
吉田は絶望の中で視線を上げた。
目の前にいる敵は、もはや最初の四人だけではない……。
新たな来訪者を合わせて。
十一人。
十一人の『代表騎士』。
彼らにとって……最初の四人ですら、到底超えることの出来ない絶望的な怪物だったのだ。それがこれほどの数……あまりにも理不尽だった。
アルウィンは新手を静かに見据えた。
彼の瞳孔が小さく収縮する。
生まれて初めて……老剣士は、この戦いがもはや暗殺任務などではないことを悟った。
これは単なる――処刑だと。
◇ ◇ ◇
十一の影が一斉に彼へと襲いかかった。
ガキィィン!
バリィィン!
ザシュッ!
アルウィンは咆哮した。
彼の剣は吹き荒れる烈風と化した。
防ぎ。弾き。下がり。斬り伏せる。
廊下は激しい火花で満たされた。
敷かれていた絨毯はズタズタに引き裂かれていく。
戦闘に加わることすら許されない一般兵たちは、ただただ呆然とその光景を見つめるしかなかった。
老剣士の姿は、さながら白髪の悪鬼のようだった。
彼の剣は縦横無尽に閃き続ける。
防衛し。護り。倒れることを頑なに拒む。
四方を完全に囲まれようとも。
破滅が確定していようとも。
彼は未だ戦うのをやめなかった。
「おおおおおおおッ!!」
ザシュッ!
一人の『代表騎士』が、己の肩を血に染めて後退する。
ガキィィン!
もう一人が体勢を崩した。
「息を衝かせるな! 攻め立てろ!」
十一振りの剣が一斉に振り下ろされた。
鋼が狂ったように鳴り響く。
アルウィンは激しく喘いだ。
その両脚が、じりじりと崩れ始める。
彼の肉体は、とっくに限界を迎えていた。
そして……嵐は唐突に、無残な終わりを告げた。
ズバッ!
一条の刃がアルウィンの右腕を無慈悲に切り飛ばし、愛剣を握ったままの手首が宙を舞った。
生まれて初めて……アルウィンが、絶叫を上げた。
「あああああああああああああッ!!!」
容赦のない追撃。
もう一人の『代表騎士』が、目にも留らぬ雷撃の如き横薙ぎを放った。
ザシュッ!
彼の左脚が根元から斬り飛ばされた。
大量の鮮血が、床の上に激しく弾け飛ぶ。
老剣士はその場に崩れ落ちた。
彼の身体の下から、赤黒い大きな血溜まりがゆっくりと広がっていく。
廊下に、しんとした静寂が訪れた。
兵士たちの顔から血の気が失せる。
『代表騎士』たちは武器を止め、その無惨な光景を見下ろした。
そして、やがて嘲笑し始めた。
「伝説の終わりにしては、随分と呆気ないものだな!」
「期待外れもいいところだ」
「アルウィン師ともあろうお方が……まるで惨めな負け犬のように転がっているぞ」
老剣士の呼吸は途切れ途切れだった。
その痛みは狂気に達するほどだった。
しかし……彼はまだ意識を保っていた。
彼は吉田の方を見つめた。
吉田もまた、彼を見つめ返した。
二人が出会って以来初めて……その老剣士の姿は、ひどく小さく見えた。
脆く。あまりにも人間らしかった。
十一人の『代表騎士』たちが、同時に剣を突き上げた。
「終わらせよう」
十一の刃が、無防備な老剣士の肉体へと向かって一斉に突き出された。
そして――世界が、一瞬だけ明滅した。
◇
『代表騎士』たちの動きがピタリと止まった。
アルウィンは薄く目を開けた。
吉田が、自分の目の前に立っていた。
彼が動いた記憶など、どこにもない。
しかし、少年は確かにそこにいた。
老剣士の身体を、自らの肉体で庇うようにして。
その身体には、何本もの剣が深く突き刺さっていた。
『代表騎士』たちは、容赦なく少年の肉体を貫いていた。だが、刃は生身の肉に届くことはなかった。
人間の骨ではない。
黒ずんだ骨と、禍々しくねじ曲がった鎖で形成された「未完成の骸骨の鎧」が、少年の上半身を完全に覆い尽くしていたのだ。
突き立てられた刃は、その異形の骨に噛み込まれたまま微動だにしない。
廊下を、圧倒的な静寂が支配した。
アルウィンは全身に猛烈な悪寒を覚えた。
その場にいる全員の頭上に、耐え難いほどの重圧が伸しかかる。
吉田は、ゆっくりと顔を上げた。
彼の瞳は……不気味な「紅」へと変貌していた。
そこには怯えなどなかった。
迷いも、自信のなさも存在しない。
つい数分前まで、恐怖にガタガタと震えていた少年の面影は、どこにも残されていなかった。
濃密な殺気が、城内を一瞬にして埋め尽くしていく。
兵士たちが腰を抜かして後退した。
何人かは、恐怖のあまり武器を取り落とした。
『代表騎士』たちでさえも、その異様な気配に本能的な恐怖を抱いていた。
「……何だ、それは……?」
ニコラスが戦慄した声を漏らす。
ジャラ……
ジャラララッ……
鎖が、意思を持つかのように床の上を這い回り始めた。
その不快な金属音が回廊に響き渡る。
そして――吉田が、咆哮した。
「ああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!」
その声は城の壁を激しく震わせた。
窓ガラスが一斉に爆発して砕け散る。
灯っていた松明の炎が、風圧で一瞬にして掻き消えた。
その咆哮は、まるで太古の凶獣の慟哭のようにオークヘヴン全体を突き抜けていった。
そしてこの夜、初めて……『代表騎士』たち、そして街全体が、底知れぬ恐怖の虜となった。
◇ ◇ ◇
真夜中が過ぎ去った。
星々が、天空からゆっくりとその姿を消し始めていた。
オークヘヴンとテレスシアが戦火に包まれる中……カサンドラ率いる小規模な軍勢は、黙々と進軍を続けていた。
軍馬たちは疲弊し、激しい息を吐き出している。
騎士たちの甲冑は、泥と乾いた返り血で酷く汚れていた。
それでもなお、軍の士気は極めて高かった。
彼らはこれまでに五つの敵拠点を壊滅させていたのだ。
破竹の五連勝。
王女の隣を騎馬で進む将校が、満足げな笑みを浮かべた。
「これでセレスティアル・リーチへの進路は完全に開かれました」
彼は地平線の彼方を見つめた。
「しかし……ここから先は、敵の主力数千が我々を待ち受けていると見て間違いありません」
カサンドラは、自らの身体に合わせて調整された鞍の上で、静かに押し黙っていた。
夜風が、彼女の美しい栗毛の髪を激しく揺らす。
「今頃は……」
将校は言葉を続けた。
「アルウィン師やエリック殿の部隊も、反乱軍の首都において激しい戦闘を繰り広げているはずです」
王女は静かに視線を落とした。
胸の奥を、えぐるような不吉な予感が締め付けていた。
何かが……致命的に噛み合っていない。
◇ ◇ ◇
それから数時間が経過した。
そして遂に……夜明けが訪れた。
黄金色の光が、東の山々を徐々に染め上げていく。
小規模な王女軍は、見晴らしの良い狭い峠道を静かに進んでいた。
その時――全員の動きが、凍りついたように止まった。
将校の目が、驚愕に大きく見開かれる。
「……そんな、馬鹿な……」
王女はゆっくりと頭を上げた。
そして、息をすることすら忘れた。
遥か遠方の地平線……そこに、視界を完全に埋め尽くすほどの「鋼の海」が広がっていた。
軍旗。
無数の槍。
盾の列。
何千、何万という人間の大群。
それはさながら、視界の届く限りの大地を覆い尽くす無数の砂粒のようだった。
将校の顔から完全に血の気が失せた。
「一万……」
彼の声が激しく震える。
「いや……一万どころではない……それ以上だ……」
近衛騎士たちは、あまりの光景に完全に硬直していた。
ある者は手綱を握る力を失い、またある者は、目の前の現実が信じられずただ呆然と立ち尽くしていた。
あり得ない。
この場所にこれほどの正規軍が潜んでいるはずがなかった。
そして……王女は、その人間の大嵐の先頭に立つ者たちを捉えた。
その人波の最前線。
一人の容姿端麗な青年が、残酷な笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
その隣には……目を疑うほどに肥大化した男が、四頭の軍馬に引かせた巨大な特製補強馬車の上に傲然と腰掛けていた。
その凄まじい重量のせいで、馬車の木枠がギチギチと悲鳴を上げている。
カサンドラの全身から、一瞬にして血の気が引いていくのが分かった。
「……アレッシオ」
彼女の視線が、隣の巨漢へと移る。
「……叔父上」
護衛の指揮官を伴い、王女は戦場の中央へと進み出た。同様に進み出てきた二人の親族と対峙するために。
王位を狙う三人の当事者が、遂に正面から顔を合わせたのだ。
アレッシオは不敵に笑った。
マクシミリアン一世・ゼドリエルは、肉に埋もれた細く計算高い目で自らの姪を値踏みするように見つめた。
「妙な噂を耳にしてな、世間知らずのお嬢ちゃん」
簒奪王は低く、地を這うような声で告げた。
「お前が何やら、極めて危険なものを隠し持っているという噂だ」
彼の表情が一気に険しくなる。
「お前の背後に、本物の『魔王』がいるとな」
その言葉に、両軍の兵士たちの間に動揺のざわめきが広がった。
「もしその脅威が事実であるならば……」
マクシミリアンは傲然と言い放った。
「この忌々しい骨肉の争いを一時的に棚上げし、この忌むべき私生児と手を組んででも、まずはそれを根絶やしにするに吝かではない」
アレッシオが、腹を抱えて高笑いした。
「その肥満体の世迷い言を真に受けるなよ、愛しの従妹殿」
彼の瞳が邪悪な光を放つ。
「お前と、その配下の愚か者どもが全滅したその瞬間に……次は私が、この汚らしい大豚を細切れにしてやるつもりだからな」
彼は忌々しげにマクシミリアンを指差した。
「それはそうと、お前の軍の小蝿どもが、テレスシアで随分と派手に暴れてくれているようだが?」
マクシミリアンが不快そうに眉をひそめた。
「何だと?」
「どう思う、叔父上? この小賢しい牝狐め、私の居城へ私を暗殺するために二人の刺客を送り込んできたらしくてね……。だが、どうやら計算違いが過ぎたようだ」
「……」
王女は辛うじて平静を保っていたが、悔しさのあまりに自らの唇を強く噛み締めた。
「驚いたか? 私は術式の『召喚』によって、事前にこのセレスティアル・リーチへと転移していたのだ。お前が自慢の強力な護衛どもを欠いているこの絶好の機会を、私見逃すはずがないだろう」
「愚かな小娘め、お前は死んだ兄と全く同じだ! 自分が賢いと思い込み、最後は道端の犬のように無様に死んだ!」
巨漢の簒奪王が怒号を上げた。
戦場に、重苦しい沈黙が降りた。
しかし、カサンドラの耳には、もう彼らの罵詈雑言は届いていなかった。
敵が未だ、オークヘヴンで起きている大惨事を知らないとはいえ……王女は、あまりにも残酷な真実を完全に理解してしまった。
アルウィン。
エリック。
ローズ。
吉田。
自分が送り出した二つの暗殺部隊は……最初から、標的が「絶対に存在しない場所」へと差し向けられていたのだ。
彼女の隣に控える将校の顔が真っ白に染まる。
近衛騎士たちもまた、その事実に気づき始めていた。
先ほどまでの連勝の熱気は完全に霧散した。
絶望的な恐怖が、瞬く間に陣営全体へと伝染していく。
もしこれが事実であるならば……戦争を終わらせるために旅立った仲間たちは……全員が、最初から仕組まれていた破滅の罠へと自ら飛び込んでしまったことになる。
朝の光が降り注ぐ中、圧倒的な戦力差のある三つの軍勢が互いを睨みつける。
王女カサンドラ・ゼドリエルは、反乱の狼煙を上げて以来、初めての感覚を味わっていた。
生き残った近衛兵は、わずか九十四名。
今まさに、彼らはここで跡形もなく駆逐されようとしていた。
やはり、騎士たる者は引き際をわきまえているものですね。




