第55話:ローズ VS 七人の『代表騎士(チャンピオン)』
満月がテレスシアの上に昇っていた。
遠くから見ると、街は欺瞞に満ちた静けさに包まれているように思えた。
夜の銀色の輝きの下で黒い屋根が広がっている。その一方で、アレッシオ王子の城が丘の上から景色を見下ろしていた。その周囲は城壁と監視塔に囲まれ、橙色の松明が暗闇に抗うように揺れていた。
しかし、その平穏はまさに粉々に砕け散ろうとしていた。
遥か遠くの地で、カサンドラはセレスティアル・リーチへと進軍していた。
オークヘヴンでは、吉田とアルウィンが命懸けの戦いを繰り広げていた。
一方、テレスシアの郊外では……また新たな惨劇が始まろうとしていた。
月光に照らされた草原の真ん中で、ローズとエリックは微動だにせず佇んでいた。
草が夜風に優しく揺れ、二人のブーツを撫でていく。湿った大地の新鮮な香りが辺りに満ちていた。遠くには、城のシルエットが星空を背景に眠れる獣のように浮かび上がっていた。
エリックは両手で一羽の烏を抱えていた。
彼の青い瞳は、穏やかにその生き物を見つめている。
彼は烏の片脚に、小さな巻物を丁寧に括り付けた。
「あの偏屈な老剣士とは違ってね……」黒い羽を撫でながら、彼はぽつりと言った。「隠密行動ってやつは、僕の性分に合わないんだ」
ローズが彼に視線を向けた。
「じゃあ、どうするの?」
魔法騎士の顔に笑みが浮かんだ。
「派手に大暴れさ!」
烏が飛び立った。
その翼が空気を切り裂き、街へと向かって上昇していく。
ローズはその軌跡を目で追いかけた。
彼女は腰に帯びた剣へと手を伸ばした。
それは伝説の剣ではない。
彼女はもうそれを持っていなかった。だが、あの武器がなかろうとも、彼女自身が常軌を逸した圧倒的な強者であることに変わりはなかった。
柄を握り締める指に金属の冷たさが染み込んでいく。
(……私は、私自身だけを信じる)
エリックは街の中心にそびえ立つ、威容を誇る城を見つめた。
「準備はいいかい?」
ローズは頷いた。
「先に私を送って。屋根に着地して待ってるわ」
烏は夜空の彼方へと消え去った。
数分後……城の屋根の上に、小さな光が舞い降りた。
巻物が無事に届いたのだ。
エリックが手を挙げた。
ローズの足元に魔法陣が現れた。
彼女の身体の周りを青いルーン文字が回転した。
「上で会おう」
女騎士の姿が掻き消えた。
シュゥゥゥン!
◇ ◇ ◇
風がローズの顔を叩いた。
一瞬、急激な落下による浮遊感で、胃がひっくり返るような感覚に襲われた。
それから、彼女は目を開けた。
自分が落下している。
足元には城が広がっていた。
黒い瓦が月の光を浴びて鈍く光っている。
中庭には、これから訪れる惨劇を未だに知らない兵士たちがひしめき合っていた。
ローズは剣の握りを確かめた。
背後でマントが激しくたなびく。
そして、着地した。
ドォォン!
瓦がきしむ音が響く。
女騎士は軽く膝を曲げた。
彼女は即座に上体を起こした。
その紅蓮の瞳が周囲の景色を鋭く見据える。
彼女は待った。
二つ目の魔法陣が現れた。
エリックが、空から物静かに降りてくる。
屋根に足を着くや否や、彼は法衣の下から何枚もの巻物を取り出した。
「よし、それじゃあ始めようか」
「何をするの?」
困惑した様子でローズが尋ねた。
彼は不敵に微笑んだ。
「開戦の合図さ」
エリックは懐から数十枚もの巻物を取り出して放ち、自らの周囲に浮かべた。
赤黒いルーン文字が怪しく明滅する。
「爆ぜろ」
ドガァァァァン!!!
一つの監視塔が大爆発を起こし、他の場所も一瞬にして文字通り木端微塵に吹き飛んだ。
城内に絶叫が響き渡る。
「何事だ!?」
「敵襲! 敵襲だ!」
「塔がやられたぞ!」
「侵入者だ!」
ドガァァァァン!!!
二度目の爆発。
砕け散った石壁の破片が中庭に降り注ぐ。
警報が鳴り響き始めた。
喇叭の音が激しくこだまする。
兵士たちが必死の形相で走り回る。
弓兵たちが高い位置へと陣取る。
騎士たちが一斉に剣を引き抜いた。
ローズはその混乱の様を見つめていた。
「どれくらい持ちそう?」
エリックは指の間で別の巻物を燃やしながら笑った。
「覚悟しておきなよ」
彼の表情から余裕が消え、真剣なものへと変わる。
「簡単な戦いにはならないからね」
その時、それは起こった。
ヒュッ!
城のあちこちから、七つの影が飛び出してきた。
バルコニーから跳躍し。
壁を駆け上がり。
屋根の上へと着地した。
ドッ!
ドッ!
ドッ!
次から次へと。
彼らは円陣を組んだ。
七人の男たち。
七人の『代表騎士』。
彼らから放たれる圧倒的なプレッシャーが、ローズでさえも両肩を緊張させた。
(……七人……)
これほどの数がいるとは想定外だった。
アレッシオ単独の手駒に、これほどのエリートが集結しているはずがなかった。
その時――
ビュッ!
暗闇を切り裂いて一本の矢が放たれた。
ローズは瞬時に身体を反転させた。
ガキィィン!
飛来した矢は見事に真っ二つに切り裂かれた。
彼女の視線は、即座にその弓兵を捉えた。
シェイリー・ニンティネル。
エルフの少女の様子は、以前とは明らかに異なっていた。
体中のあちこちに痣がある。
顔には色濃い疲労が滲んでいる。
動きのキレも悪い。
限界まで消耗しているようだった。
エリックも彼女の姿を捉えた。
そして、ローズが彼と出会って以来初めて……彼の瞳に、本物の「怒り」が宿った。
いつもの飄々とした表情は、完全に消え失せていた。
「……裏切り者が」
シェイリーは僅かに視線を落とした。
言葉を返すことはなかった。
ローズは再び『代表騎士』たちへと視線を戻した。
七人。
七人の強敵。
そして、自分。
彼女は剣を強く握り締めた。
「関係ないわ」
その眼光が鋭く据わる。
指示を待つことなく……彼女は地を蹴って突撃した。
◇ ◇ ◇
ガキィィン!
一人目の『代表騎士』が一撃を受け止める。
ローズは鋭く身体を反転させた。
シュッ!
その刃が二人目の喉元をかすめる。
すかさず三人目が襲いかかってきた。
ガキィィン!
火花が夜の闇を散らす。
女騎士はさらに踏み込む。
躊躇うことなく。
退くこともなく。
彼女の剣は、極めて正確な軌道を描いていた。
優雅に。
猛烈に。
それはまるで、鋼の嵐そのものだった。
ガキィィン!
ガキィィン!
ピシッ!
一人の『代表騎士』が、己の腕を抑えて後退する。
そこへ別の者が鋭い刺突を放った。
ローズは上体を傾ける。
刃が彼女の頬をきわどくかすめて通り過ぎた。
そして、彼女は即座に応酬した。
ドカッ!
強烈な蹴りが男を後方へと吹き飛ばす。
「な、何なんだこの女は!?」
「間合いを詰めるな! 距離を与えるな!」
「囲めッ!」
七振りの剣が、同時に彼女へと殺到した。
ローズは防ぎ。
受け流し。
下がり。
そして鋭く斬りつけた。
呼吸はまだ乱れていない。
しかし、彼女のレベルであっても、すでに事態の重さを理解し始めていた。
(……これは、分の悪い賭けね)
目の前の連中は、有象無象の一般兵ではない。
熟練の騎士ですらない。
彼らは『代表騎士』。七人の怪物たちだ。
ガキィィン!
一振りの剣が衝撃を伴って激突する。
ローズはそれを耐え切った。
ガキィィン!
さらに二撃目。
ガキィィン!
そして三撃目。
激しい痛みが両腕を駆け抜けた。
彼女は一歩、後退した。
さらにもう一歩。
包囲網が、じりじりと確実に狭まっていく。
◇ ◇ ◇
エリックがシェイリーの目の前に姿を現した。
エルフの少女は弓を持ち上げた。
弦を引こうとする。
しかし、その指先は小刻みに震えていた。
疲労困憊であることは一目瞭然だった。
「エリック……」
「僕の名前を呼ぶな」
彼の声は、静かな怒りに満ちていた。
魔法騎士の姿が、彼女の視界からかき消える。
バキッ!
強烈な拳が、シェイリーの顔面を捉えた。
エルフの身体が屋根の上へと転がる。
「ぐはっ……!」
彼女は必死に立ち上がろうとした。
しかし、エリックの手は止まらない。
「この、裏切り者が!」
ドカッ!
容赦のない蹴り。
ドカッ!
さらなる打撃が容赦なく叩き込まれる。
「君は、僕たち全員を裏切ったんだ!」
シェイリーは身を守るために必死に弓を掲げた。
バキィィン!
木製の弓が粉々に砕け散る。
エルフの少女は膝から崩れ落ちた。
彼女の唇の端からは血が流れ落ちていた。
彼女は反撃をしようとしなかった。
ただ、辛うじて耐えているだけだった。
「……分かっているわ」
エリックは激しく歯を食いしばった。
その両手は、怒りのあまりに激しく震えていた。
「なら……死ね!」
◇ ◇ ◇
ローズの呼吸は激しく乱れ始めていた。
ガキィィン!
一振りの剣が、彼女の防御の隙間をすり抜けた。
ズシュッ!
彼女の脇腹に、生々しい切り傷が刻まれる。
「っ……!」
彼女は身を翻した。
ガキィィン!
上空から振り下ろされた別の剣を、辛うじて受け止める。
だが、直後に彼女の肋骨へ強烈な一撃が叩き込まれた。
ドカッ!
胸を突く衝撃に、肺から一気に空気が搾り出された。
『代表騎士』の一人が、その決定的な隙を見逃さなかった。
バキッ!
拳が彼女の顎を完璧に捉えた。
ローズの身体が大きく吹き飛ぶ。
彼女は瓦の上を転がった。
しかし、彼女は即座に立ち上がった。
「はぁぁぁぁ!」
再び地を蹴り、突撃を敢行する。
ガキィィン!
一撃。
ガキィィン!
二撃。
ガキィィン!
三振りの剣が、彼女の進撃を強引に阻んだ。
そこへ、四人目の『代表騎士』が背後から容赦なく襲いかかった。
ドカッ!
ローズは激しく膝を突いた。
激痛。
そして、底知れぬ疲労感。
口の中に広がる鉄の味。
肉体が、拒絶の悲鳴を上げていた。
だが、彼女は再び身体を起こした。
その紅蓮の瞳には、いまだ衰えぬ強固な決意の炎が燃え盛っていた。
『代表騎士』たちの口元に、冷酷な笑みが浮かび始める。
「化け物め」
「どうしてまだ立ち上がれる?」
「なるほど、王子が危険視するわけだ」
ローズは再び剣を構え直した。
その唇からは、途切れ途切れの荒い息が漏れ出ている。
七人の強敵が、彼女を完全に包囲していた。
両腕は限界を迎えて震えている。
彼女の騎士の甲冑は、徐々に赤く染まり始めていた。
それでも……
彼女はさらに一歩前へと踏み出した。
なぜなら、遥か遠くの地で吉田が戦っているから……
カサンドラが部下たちの命を懸けて進軍しているから……
自分だけが、ここで倒れるわけにはいかないのだ。
例えその代償として、さらなる猛攻に身を晒すことになろうとも。
蓄積した疲労のせいで、激痛が視界を白く染め上げようとも。
七人の『代表騎士』が、自分を完全に圧殺しようと襲いかかってこようとも。
ロゼット・ベーカーは、自らの剣の柄を、これ以上ないほどに強く握り締めた。
そして、満月の光が降り注ぐ中、彼女は再び怪物たちへと向かって突き進んだ。
「ああああああああああッ!!!」




