第54話:四人の『代表騎士(チャンピオン)』との戦い
同じ満月の夜。
王女カサンドラ・ゼドリエルがセレスティアル・リーチへと進軍する中、領土の各地で新たな戦火が次々と燃え上がろうとしていた。
その頃、王国の首都オークヘヴンでもまた、静かなる戦争が勃発していた。
地下下水道の湿った空気が、溜まった汚水と数十年の間に堆積したカビの不快な臭いと共に、呼吸するたびに肺へと侵入してくる。
錆びついた受け具に固定された松明の炎は、二つの影が無言で進む狭い石造りの通路を辛うじて照らし出しているだけだった。
片方の影は静かで確かな足取りで歩を進めていたが、もう片方の影は自らの手の震えを必死に抑え込もうとしていた。
吉田は唾を飲み込んだ。
濡れた岩肌を叩く己のブーツの音が、耳元でやけに大きく響く。
彼は剣の柄をさらに強く握り締め、冷たい金属の感触から、これが嫌応なしの現実であることを肌で感じていた。
これは訓練ではない。
木刀を使った稽古でも、ただの模擬戦でもなかった。
暗殺だった。
アルウィン・バレスターは彼の前を歩き、古い王室下水道の裏に隠された狭い回廊へと逆らうことなく彼を導いていた。
「緊張しているのか?」
老剣士は振り返ることなく尋ねた。
吉田は数秒ほど躊躇ったが、最終的には正直に答えた。
「少し……」
その声は、辛うじて聞き取れるほどの囁きだった。
「その……これまでに、一度も人を殺したことがないんです。ましてや、城に潜入するなんて……」
天井から絶え間なく滴り落ちる水滴の音だけが、二人の間に漂う静寂を切り裂きながら、進軍は続いた。
アルウィンは絶対的な冷静さを保ったまま歩き続けた。
「そうか……そのようなことを考えていたのだな」
老剣士は、自らの腰に帯びた剣にそっと手を置いた。
「私の手が汚れる。だから、お前は安心しているといい。死ぬ時に背負う罪など、今更気にするほど短い人生は送ってきていないのでな」
進むにつれ、徐々に風化した古い石壁は、精緻に切り出された石ブロックと、隠された柱に刻まれた王家の紋章へと姿を変えていった。
その通路はもはや下水道の一部ではなく、数百年前に建造された隠し通路だった。
「これらの道は、反乱や不測の事態が起きた際、王族が城から脱出できるように設計されたものだ」
アルウィンが説明した。
「その存在を知る者は極めて少ない」
やがて、二人は重厚な石の扉の前に到達した。
老人が隠された仕掛けを押し込むと、岩は重苦しい音を立ててゆっくりと滑り出し、薄い埃に覆われた一室を露わにした。
そこには上品なベッド、古いタペストリー、時の経過で色褪せた肖像画、傷だらけだが頑丈な木材で作られた机が置かれていた。
「最後の正統なる王の、隠された私室だ」
アルウィンは、老いた瞳でその場所を見渡しながら呟いた。
「現女王の父親のな」
ほんの一瞬、彼もまた古き良き平穏な時代を思い出しているかのようだったが、すぐに少年のほうへと視線を戻した。
任務を開始する前に、その精神の鋼を鍛え直すために。
「よく聞け……物事を明確にしておきたい。お前はなぜ、ここにいる?」
吉田は微かに唇を開き、深く考えるよりも先に言葉が溢れ出た。
「平穏に暮らしたいんです。それに、ローズに迷惑がかからないように」
女騎士の名を口にした瞬間、彼の心臓が激しく鼓動した。
難破船での出来事。
砂漠の洞窟で自分を守ってくれた姿。
旅の途中で焚き火の傍らで眠っていた姿。
そして、自分が彼女を深く心配する理由が分からずに顔を赤らめていた姿が、鮮明に脳裏に蘇った。
「それから、王女の助けにもなりたい」
彼は続けた。
「これらすべてを、良い形で終わらせたいんです」
アルウィンは真っ直ぐに彼の視線を受け止め、それから扉の方へと向き直った。
「ならば、迷いが生じた時はその思いを思い出せ。男の覚悟というものは、殺人を楽しむから生まれるのではない。守りたいものがあるからこそ、生まれるのだ」
◇ ◇ ◇
城の廊下は静まり返っており、敷き詰められた赤絨毯が彼らの足音を静かに吸収していた。
歴代の君主たちの肖像画が壁から彼らを見下ろし、燭台の微かな光が、その静寂の夜の床に歪んだ影を落としていた。
アルウィンが先頭を進み、吉田がすぐ後ろを追う。
角の向こうに常に死が潜んでいるかもしれないという緊張感が漂う中、その瞬間は訪れた。
通路の突き当たりに、二人の騎士が姿を現した。
彼らの鎧は松明の黄金色の光を浴びて輝いていた。
彼らの目は驚きに大きく見開かれたが、息を吸い込む時間すら与えられなかった。
アルウィンが突風のごとく掻き消えた。
暗闇の中で二筋の銀色の閃光が交差する。
ドシュッ!
ドシュッ!
二人の身体が一瞬だけ硬直した後、その喉元に一筋の赤い線が浮かび上がった。
鮮血が静かに噴き出し、二人は膝から崩れ落ち、そのまま床へと倒れ込んだ。
直後、彼らの首が地面を転がり、兜がタイルに激突して硬く鋭い金属音を通路に響かせた。
ガシャァン!
吉田は胃がひっくり返るような衝動に襲われた。
これほど残酷で、迅速で、容易な殺傷を、これほど間近で見たのは初めてだった。
アルウィンは鋭い一振りで剣の血を払った。
「走れ。すぐに気づかれる。走るぞ!」
二人は全速力で駆け出し、彼らの足音が王城の回廊に鳴り響いた。
扉を通り過ぎるたびに、王位を僭称する者の寝室へ、そして終焉へと近づいていく。
そして、その時――
ドゴォォォォン!!!
凄まじい爆発が城全体を震撼させた。
床が激しく揺れ、窓ガラスが粉々に砕け散り、燭台が不規則に揺れ動いた。
吉田はバランスを崩しかけたが、倒れる前にアルウィンがその腕を掴んで支えた。
「何事だ……!?」
「侵入者だ! 城内に侵入者あり!」
突如として、何本もの喇叭の音、警鐘、大声が砦全体へと広がり、潜入の静寂は完全に瓦解した。
アルウィンが防御の構えをとる中、吉田も剣を引き抜いた。
立ち込める煙の向こうから、一人の人影が姿を現した。
黄金の彫刻が施された黒い甲冑を身にまとも、大剣を肩に気怠げに預け、その顔に冷酷な笑みを浮かべた男。
「おやおや……」
男は僅かに首を傾げた。
「まさか、こんな場所でまたお目にかかれるとは思いませんでしたよ、師匠」
アルウィンは冷徹に目を細めた。
「ニコラス」
「あなたほどの御方が、裏切り者に成り下がるとは失望しましたよ」
騎士は嘲笑しながら、彼らに向けて剣を突きつけた。
シャキィン!
「しかも、そんな子供を連れて」
吉田の身体に、息が詰まるほどの圧倒的なプレッシャーがのしかかった。
それは魔法などではなく、純粋な殺気だった。
直後、影の中からさらに三人の戦士が姿を現した。
顔に生々しい傷を持つ大柄な男、髪を後ろに撫で付けた優雅な男、原型とは不釣り合いなほど洗練された剣を持つ、内気な表情の青年。
「マティアス。ダニッツ。フェドール」
四人の『代表騎士』たちが、そこに揃い踏みした。
吉田の背中を冷や汗が伝い、足が小刻みに震え続ける。
彼らから放たれる暴力の気配は洗練されており、まるで優雅な衣服をまとった怪物そのものだった。
彼らの背後には数百人の兵士が押し寄せていたが、ニコラスが片手を挙げてそれを制した。
「手を出すな!」
冷酷に目を輝かせながらその『代表騎士』が命じた。
「伝説の『嵐』、アルウィンをこの手で葬る誉れは私がいただく。俺たちだけで片付ける」
吉田は唾を呑み込み、剣を完全に構えた。
手は震えていたが、アルウィンから幾度となく教え込まれた型をとる。
その姿を見た『代表騎士』たちが嘲笑の声を上げた。
「おい、あの役立たずは何だ?」
「震えているぞ? まるでただの新兵だな」
フェドールは、本当に気まずそうに、どこか居心地悪そうに視線を逸らした。
アルウィンは、落胆によって表情を硬くしながら一歩前へと踏み出した。
「かつての私の弟子たちが、マクシミリアンのような裏切り者のクズに仕えようとはな」
「実の師匠の首を、自分たちの手で落とすことになるとは思っていませんでしたよ」
ニコラスが武器を構えるのと同時に、彼らが応じた。
「もう、休む時間です」
次の瞬間、言葉もなく――彼らは襲いかかってきた。
◇ ◇ ◇
ガキィィン!
怪物じみた剛力が吉田の両腕に炸裂した。
正しく受け止めたはずだった。
だが、たった一撃。
バリバリィン!
衝撃で身体ごと後方へと吹き飛ばされ、重厚な木製の扉を突き破る。
隣の部屋の床へと無様に転がり込み、激痛が走った。
傷だらけの体で這い上がり、自分の剣と血に染まった手を見つめる。
震えが止まらない。
(……ただの一撃だぞ……。なんだ、この力は……?)
理不尽なまでに強すぎる。
回廊の向こう側では、すでにアルウィンが残る三人の『代表騎士』たちを相手に立ち回っていた。
老剣士は鋭く身体を翻し、ニコラスの振り下ろされた大剣を受け止めた。
ガキィィン!
衝撃で床がきしむ。
そこへマティアスが側面から水平の斬撃を繰り出した。
アルウィンは半歩退き、その刃を寸分の狂いもなく受け流す。
さらにその瞬間、ダニッツが上空から襲いかかった。
ギィィィン!
激しい金属音と共に火花が散る。
防御し、受け流し、即座に反撃へと転じる。
その間も老剣士の呼吸は全く乱れていなかった。
血に染まった絨毯の上を滑らかに滑る足。
一挙手一投足が効率的で、美しく、そして恐ろしかった。
数十年の戦場を潜り抜けてきた冷静さ。
微塵も揺らぐことはない。
しかし、かつての弟子である『代表騎士』たちも容赦はなかった。
息の合った連撃。
一度、二度、十度。
心臓を貫き、喉を裂き、四肢を切り落とさんと殺到する。
アルウィンはそのすべてを単身で捌き切っていた。
一方、吉田は接近してくる足音を聞き、顔を上げた。
目の前に立つフェドールを凝視する。
若い『代表騎士』は、彼と直接目を合わせようとはしなかった。
「……僕が、君の相手をするみたいだ」
妙に気弱な声だった。
「何しろ、僕が一番の新人だからね」
吉田は痛みに耐えて立ち上がり、再び構えを取った。
心臓が狂ったように脈打つ。
だが、老剣士の言葉が脳裏をよぎる。
(男の覚悟というものは、守りたいものがあるからこそ、生まれるのだ)
柄を強く握り締めた。
フェドールは僅かに視線を落とす。
「ごめんね……でも、遊んでいる時間はないんだ」
一瞬。
その『代表騎士』が目の前から掻き消えた。
「え……!?」
ガキィィン!
純粋な反射神経だけで剣を突き出したが、両腕の感覚が麻痺した。
攻撃の軌道すら見えない。
「よく防いだね……」
フェドールは一歩退いて構えを変え、再び空気の中に溶けるように消え去った。
ガキィィン!
ガキィィン!
二連続で辛うじて防ぎ切る。
だが、三度目の攻撃は敵の剣からではなかった。
ドカッ!
強烈な拳が顔面にめり込み、視界が激しく回転した。
地面に叩きつけられる前に、容赦のない追撃が放たれる。
ドサッ!
鋭い蹴りが腹部を捉え、肺から一気に空気が搾り出された。
吉田は回廊を何メートルも吹き飛ばされ、背中が石柱に激突した。
「ぐはっ……!?」
全身が痛い。
鼻からは血が流れ、頭の中で絶え間ない耳鳴りが響く。
フェドールがゆっくりと剣を下ろすのが見えた。
「諦めてよ。これ以上、君を苦しめたくないんだ」
吉田は血を吐き捨てながらも、柄にしがみついた。
格が違いすぎる。
フェドールは人を殺すことに慣れきった『代表騎士』なのだ。
敵が再び前進してくる。
吉田は歯を食いしばった。
脳裏にローズの顔が浮かび上がる。
不器用に笑っていた姿。
共に旅をした日々。
命を懸けて自分を守ってくれた姿。
恐怖の中に、純粋な必死さが混ざり合っていく。
「あああああ!」
純粋な生存本能が、彼に空いている方の手を掲げさせた。
刹那、血管の中を激しい冷気が駆け巡る。マナが猛烈な勢いで肉体を循環し、手のひらの中で熱量へと大爆発を起こした。純粋なリフレックス(反射)が、魔法のトリガーを引く。
「何だとっ!?」
ゴォォォォ!
至近距離から火炎球が射出された。
フェドールは目を見開いたが、避ける時間はなかった。
「がぁぁぁあああ!」
至近距離での爆発が『代表騎士』の顔面を直撃した。
炎が回廊を赤々と照らし、肉の焦げる臭いが充満する。
後ろの兵士たちは恐怖で後退し、ニコラスでさえも一瞬だけ視線を奪われた。
「あの野郎、魔法を使ったのか……!?」
フェドールは激しく呼吸しながら、顔に当てていた手を下ろした。
頬の一部が赤黒く焼け爛れている。
先ほどまでの内気な表情は完全に消え失せ、冷徹な殺意へと塗り替えられていた。
「……よくも、よくもやってくれたな。絶対に許さない!」
両手で剣を握り締める。
周囲の空気が一気に重くなった。
次の瞬間、フェドールは再び消失した。
「速すぎるっ!」
ガキィィン!
防ぐことには成功した。
だが、凄まじい物理的な圧力によって、両足が床に沈み込む。
「ぐっ……!」
「はぁぁぁ!」
力任せに押し込んでくる。
ドカッ!
膝蹴りが肋骨へと突き刺さり、息の詰まった悲鳴が漏れた。
直後、怒涛のごとき連続の蹴りが襲いかかる。
バシッ!
バシッ!
バシッ!
痛めつけられた身体のまま床を転がった。
呼吸をするたびに胸が焼け付くように痛み、視界が霞み始める。
しかし、血を流し、身体を震わせながらも、彼は再び剣を握って立ち上がった。
フェドールはその姿を静かに見つめた。
「どうして……?」
「だって……負けるわけにはいかないんだ」
吉田は、掠れた、しかし確かな声で応じた。
「ここまで来て……ここで終わるわけにはいかないんだよ……」
◇ ◇ ◇
一方、中央の通路では、絶え間なく飛び散る火花が周囲を照らし続けていた。
アルウィンは三人の連携攻撃を辛うじて食い止めていた。
ガキィィン!
ガキィィン!
バキィィン!
数十年の経験から培われた最小限の動き。
美しい弧を描く剣。
ニコラスは刃が再び激突する中で笑みを浮かべた。
「ちっ! さすがは俺たちの師匠だ」
アルウィンは俊敏に身体を翻した。
ピシッ!
マティアスの頬に、一本の細い赤い線が走る。
『代表騎士』が驚きに一歩退く中、ダニッツが大笑いした。
「化け物め、この老いぼれが!」
ガキィィン!
老剣士の剣はさらに別の一撃を阻止した。
しかし、確実に疲労の色が濃くなり始めていた。
呼吸が重くなり、反射神経がほんの僅かに遅れる。
鋭い敵の刃が、彼の防御を突破した。
ザシュッ!
ザシュッ!
一太刀が肩を切り裂き、もう一振りの刃が腕を捉える。
鮮血が絨毯を汚した。
周囲の兵士たちは息を呑んでそれを見守る。
生ける伝説たちの死闘だった。
(……同時に三人の『代表騎士』か……。想定を超えているな)
手首が焼け付くように痛み、筋肉が限界を訴えて悲鳴を上げる。
それでも彼が動き続けたのは、自分の後ろに吉田がいることを知っていたからだ。
「フェドール!」
ダニッツが攻撃を繰り出しながら叫んだ。
「さっさとその間抜けを殺せ!」
「お前の力が必要なんだよ!」
ニコラスが歪んだ笑みを浮かべて同調する。
アルウィンの目が鋭く据わり、口元から一筋の血を吐き捨てて、再び構え直した。
「まだ……終わってはいない」
三人の『代表騎士』たちは互いに目配せを交わし、戦闘強度を極限まで引き上げた。
三振りの剣が、同時に一点へと収束する。
ガキィィン!
バキィィン!
ズドォォン!
アルウィンの目が大きく見開かれ、次の瞬間、激しく吹き飛ばされた。
身体が飾り机を粉砕し、石壁へと激突する。
衝撃で壁の破片が崩れ落ちた。
ガラガラガラ!
額から一本の血の筋が流れ落ち、回廊全体が墓場のような静寂に包まれる。
王国最強の剣士が、今、地に伏した。
ニコラスは冷酷な笑みを浮かべながら、ゆっくりと剣を下ろした。
「結局のところ……時間というものは、誰のことも許してはくれないのさ」
◇ ◇ ◇
別の部屋では、吉田が辛うじて別の一撃を防いだものの、その凄まじい重さに両膝が完全に屈して床についた。
フェドールが高速で反転する。
ドカッ!
拳が彼の顎を打ち抜き、口の中に鉄の味が広まった。
次の攻撃を防ごうと必死に剣を掲げようとしたが、あまりにも遅すぎた。
グサッ!
刃が彼の肩を深く切り裂き、少年は服を血で真っ赤に染めながら、よろめいて後退した。
フェドールは激しく呼吸し、その技を完璧に遂行していた。
一歩、一突き、一太刀。
無駄な動きは一切ない。
人を殺すために最適化された機械のようだった。
吉田はただ本能のままに防御し、数センチの差で致命傷を避けながら、辛うじて生き延びていた。
何度も躓き、そのたびに血を流して立ち上がる。
傷つき、疲れ果て、それでもまだ立っていた。
なぜなら、この不条理な戦いの中で、彼にはどうしても手放せない約束があったからだ。
生きて戻ること。
ローズと共に平穏に暮らすこと。
掴み取ろうとしたその未来を守ること。
だからこそ、敵の鋼が身体を切り刻み続けようとも、吉田は再び両手で剣を強く握り締めた。
そして、一歩前へ踏み出した。
例え恐怖に身を焦がし、自分が死ぬかもしれないと分かっていても、彼はまだ倒れるつもりはなかった。




