第51話:オークヘヴンへ向かう吉田の道筋
【吉田視点】
僕たちは何日もの間、馬を走らせ続けた。
最初は過ぎ去った日数を数えようとしていたけれど、途中で諦めてしまった。
果てしなく続く道。朝を迎えるたびに、景色はその姿を変えていく。
風に揺れる緑の草原は、僕にはまるで植物の海に広がる波のように見えた。
時には、太陽の光すら遮るほどに鬱蒼とした、狭い森の小道を突き進むこともあった。
日本にも山や森、自然公園はあったけれど、ここにあるものはそれとは根本的に違っていた。
ここは、未だ人類に完全に支配されていない、本当の意味での「野生の世界」だ。
遥か遠くには、雲に届きそうなほどに高い巨大な山脈が見える。
またある時には、空の色をそのまま映し出した、鏡のように美しい巨大な湖の側を通った。
その圧倒的な光景に、一瞬だけ自分たちが「王を暗殺する」という過酷な任務の途中であることを忘れそうになる。
しかし、すぐに残酷な現実へと引き戻された。
打ち捨てられた村々。
黒く焼け焦げた農場。
そして、わずかな荷物を背負ってトボトボと道を歩く、大勢の難民たちの姿。
戦争の爪痕は、いたるところに刻まれていた。
目に見える破壊だけでなく、すれ違う人々の怯えた表情が、何よりも雄弁に戦争の現実を物語っている。
旅の途中、僕たちはいくつかの大きな都市を通過した。
どこも高い城壁に囲まれ、武装した兵士たちが厳重に人の出入りを監視している。
最初に足止めをされた時、僕の心臓は破裂しそうなくらい激しく脈打った。
(ここで終わりだ……)
(正体がバレて、その場で殺されるんだ……)
恐怖で動けなくなる僕を余所に、アルウィンは平然と馬から降りた。
配置された兵士から奪った「徽章」を差し出したんだ。
「アレッシオ王子に仕える騎士だ」
彼は信じられないほど落ち着いた声でそう言った。
門番の衛兵たちは徽章をじろじろと眺め、二、三言の言葉を交わした後、あっさりと僕たちを通した。
そんな緊迫したやり取りが、その後も何度も繰り返された。
そのたびに僕は冷や汗で全身をびしょ濡れにしていたけれど、アルウィンはまるで自分の家の庭を散歩しているかのような顔をしていた。
(この老人は、本当に恐怖という感情を知らないのだろうか……)
そう疑問に思い始めた五日目、僕の確信を決定づける「恐ろしい事件」が起きた。
街道の脇道にある、小さな軍の検問所に差し掛かった時のことだ。
そこにいたのは、わずか五人の騎士。
それほど重要な拠点には見えなかった。
けれど、そのうちの一人が、僕たちの何かに違和感を覚えたらしい。
僕たちの話の辻褄が合わなかったのか、それとも、ただ彼らの運命が尽きていただけのか。
今となっては分からない。
僕の記憶にあるのは、その騎士がゆっくりと腰の剣に手を伸ばそうとした、その瞬間のことだけだ。
次の瞬間、すべてが終わっていた。
何が起きたのか、僕の目ではまったく捉えられなかった。
僕の隣にいたはずのアルウィンが、一瞬で掻き消える。
気付いた時には、五人の騎士が同時に地面に崩れ落ちていた。
誰一人として、まともに剣を抜き放つことすら出来ていなかった。
彼らの首筋には一本の鋭い斬撃が刻まれ、そこから大量の鮮血が噴き出して地面を赤く染めていく。
僕はただ、その光景を前に完全に硬直していた。
アルウィンは静かに刀身の血を拭い取り、何事もなかったかのように言った。
「行くぞ」
まるで、道の邪魔な枝でも払い落としたかのような口調だった。
その日、僕は理解した。
なぜローズがあれほどまでに彼を敬意を込めて呼ぶのか。
そして、なぜ王女殿下が、一国の王を殺すという狂気じみた任務をこの老人に託したのかを。
――そして、七日目の夕暮れ時。
僕たちは一本の小高い丘へと辿り着いた。
強い風が吹き荒れ、空を覆う雲がゆっくりと流れていく。
その丘の上から、僕は「それ」を目撃した。
地平線の向こうに、文字通り異次元の規模を持つ巨大な都市が姿を現したんだ。
僕はただ、目を見開いて立ち尽くすしかなかった。
これほど壮大な景色は、これまでの人生で一度も見たことがない。
都市全体を包み込むようにそびえ立つ、凶悪なほどに壮大な城壁。
天を突き刺すかのように立ち並ぶ、無数の見張り塔。
空間を圧するその防衛線の向こう側には、視界の果てまで埋め尽くすような無数の建造物が広がっている。
まるで映画やファンタジーゲームの世界からそのまま飛び出してきたかのような、圧倒的な王都。
「着いたぞ」
アルウィンが静かに呟いた。
僕は言葉を失ったまま、その光景を見つめ続けた。
「何ですか、ここは……」
老剣士は、不敵に口元を歪めた。
「オークヘヴン」
「ヘッセン王国の王都だ」
この世界に来て初めて、僕は「戦争」というものの本当の重みを肌で知った気がした。
これまでは村や、小さな砦、地方の街しか見てこなかった。
けれど、目の前にあるのは違う。
あれは本物の「国家」そのものだ。
丘の上から見下ろしていると、主要な街道の一つから、気の遠くなるような軍勢の列が進軍してくるのが見えた。
数千人……いや、万を超えるかもしれない騎士の群れ。
彼らの鎧が夕日に反射し、まるで鋼鉄の川のように輝いている。
部隊の頭上には無数の軍旗が翻り、遠くから地鳴りのような軍鼓の音が響いてきた。
その光景は、息を呑むほど恐ろしかった。
「あれは……王の軍勢ですか?」
「おそらくマクシミリアン殿下の兵だな。アレッシオの軍を迎え撃つために北へ向かっているのだろう」
「今となっては、彼らを見分けるのも難しくなってきたがな」
王都の境界に近づく頃には、僕たちは敵の軍服を脱ぎ捨てていた。
今の僕たちの格好は、裕福な商人か、地方のしがない小貴族のものだ。
目立たず、怪しまれない、ごくありふれた旅人の装い。
僕たちは、川に架かる小さな石橋の袂で足を止めた。
アーチ状の橋の下を、冷たい流れが静かに注いでいく。
主要な街道からは外れた、身を隠すには格好の場所だ。
そこで数時間、じっと息を潜めて時を待った。
やがて完全に夜が訪れると、満天の星空の下、オークヘヴンの巨大な城壁が何百もの松明の光で赤々と照らし出された。
アルウィンが立ち上がる。
「時間だ」
胃の奥がキュッと締め付けられる。
「正面の門から行くんですか?」
老剣士は、低く声を上げて笑った。
「まさか。正気の沙汰ではない」
彼は静かに、眼下の川を指差した。
「ここから入る」
最悪の予感が頭をよぎった。そして、その予感は完璧に的中することになる。
僕たちはその場に馬を残し、数分後には凍えるような川の中に身を沈めていた。
緩やかな激流に身を任せながら、王都に水を供給している巨大な「水路」へと向かって泳いでいく。
全身の感覚が麻痺しそうなくらい冷たく、僕の歯はガチガチと音を立てて震えっぱなしだった。
「こんなの……正気の沙汰じゃない……」
「優れた潜入作戦というのは、いつだって正気ではないものさ」
やがて、僕たちの前に侵入を阻む頑丈な鉄格子が現れた。
アルウィンはその仕組みをじっと観察した後、おもむろに一本の太い鉄骨に手をかけた。
そして――信じられない力で、それを強引に引き剥がしたんだ。
僕は暗い水の中で呆然とそれを見ていた。
「……何で僕は、未だにこの人に驚いてるんだろう」
「いい疑問だな。慣れろ、少年」
僕たちは壊れた鉄格子の隙間を潜り抜け、暗黒の石造りのトンネルをさらに進んだ。
どれくらい進んだだろう。冷たい闇の中を数分間泳ぎ続けた先で、ようやく出口の微かな光が見えてきた。
水路から這い上がり、目の前に広がった光景に、僕は再び言葉を失った。
王都の内側は、外から見た以上の狂気的な広さだった。
目の前には、木造の家々がひしめき合う、混沌とした街並みがどこまでも続いている。
無数の煙突から黒い煙が立ち上り、松明や篝火が夜の街を不気味に照らし出していた。
商人、労働者、兵士、富豪、路地裏の陰に潜む物乞い。
すべてが、一つの巨大な「混沌」の中に調和して存在している。
けれど、何よりも僕の目を釘付けにしたのは、城壁の姿だった。
首を吊られた、大量の死体が並んでいる。
多すぎる。
松明の光に照らされ、ゆらゆらと揺れる不気味な影。
数日前から吊るされているようなものから、完全に干からびているものまで。
背筋に、悍ましいほどの戦慄が走った。
この街は美しく、そしてそれ以上に、異常なほど恐ろしい場所だ。
「オークヘヴンへようこそ」
アルウィンが静かに言った。
(……こんな恐ろしい場所より、東京に帰りたい。今すぐにでも)
僕はアルウィンの視線の先を追いかけた。
街の中心部には、天を衝くような巨大な城がそびえ立っていた。
周囲のすべての景色を支配し、圧倒的な存在感を放っている。
石の山のごときその塔は、傲慢に周囲を見下ろしていた。
「あそこだ」
老剣士が、低く呪うように呟く。
「あの城の奥に、王を騙る、あの貪欲で狡猾な簒奪者が眠っている」
僕は無意識のうちに、腰の黒い剣の柄を強く握り締めていた。
アルウィンもまた、自分の剣を目立たないように布で包み、その存在を隠す。
「今日はここまでだ。まずは休むぞ」
「休む? どこでですか?」
「こういう場所には、昔からの知り合いが何人かいるものさ。……この街には、まだ私の友人が残っている」
彼は狭い裏路地へと足を踏み入れ、僕もそれに続いた。
「明日から動き出す。明日、本当の潜入が始まるぞ」
最後にもう一度だけ、あの巨大な城を振り返った。
遠くから見ているだけでも、まるで目覚めるのを待つ巨大な怪物のようで、酷く威圧的だった。
「吉田」
アルウィンの重みのある声が、僕の思考を引き戻した。
「はい?」
老剣士は城をじっと見つめたまま、いつも以上の真剣な表情を浮かべていた。
「マクシミリアンはアレッシオとは違う。……あの愚かな若き王子より、遥かに賢く、底知れず歪んだ男だ」
「そしてここは、ただの都市ではない」
初めて、彼の声に本物の「警戒」が混ざるのを僕は聞いた。
「あの城には、おそらく数十人の『精鋭』が護衛として控えているはずだ。……その中にはマクシミリアン直属の『代表騎士』たちも紛れている。これまでの戦いのようにはいかんぞ。何しろ奴らの中には、かつて私の教え子だった者も含まれているかもしれんからな」
夜の冷たい風が、オークヘヴンの不気味な路地を吹き抜けていく。
その闇の要塞を見上げながら、僕は確信していた。
ここに来るまでも地獄のようだったけれど。
本当の命懸けの戦いは――まさに、今ここから始まるのだと。




