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魔王に恋した若き女騎士が二つの世界の運命を変えた話 〜ロゼット・ベイカー戦記〜  作者: ケン・アラタカ
第五章:ヘッセン王国代表騎士《チャンピオン》との戦い
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第50話:戦いの準備

【吉田視点】


 あの軍議が終わった後、すべての出来事が目まぐるしい速さで動き出した。

 アルタクレスタの郊外にあるキャンプでは、近衛騎士たちが慌ただしく動き回っている。

 新しい遠征の準備は、ほんの数分のうちに始まったようだった。


 僕は、その圧倒的なスピードにただ付いていくのがやっとだった。

 ほんの数ヶ月前までは日本にいたのに、今はこうして異世界にいて、王座を巡る戦争に参加している。

 ――そんな現実が、未だにどこか他人事のように思えてならない。


 まだ信じられない気持ちはあるけれど、この戦いに加わると決めたのは僕自身の意志だ。

 だから、天幕を出た後、防壁の近くに置かれた丸太に腰を下ろし、小さな街の広野を眺めた。

 このちょっとした静寂が、今の僕にはとてもありがたかった。


 不意に、隣にロゼット・ベイカーが腰を下ろした。

 数秒の間、僕たちは何も言葉を交わさなかった。

 心地よい風が僕たちの髪を優しく揺らす。その向こうで、兵士たちが武器や物資、鎧を運びながら忙しそうに行き交っていた。


 不思議な感覚だった。

 この世界に来てから、僕たちは多くの日々をずっと一緒に過ごしてきた。

 なのに、ここへ来て初めて、僕たちは別々の道を歩むことになる。

 それが、自分で思っている以上に僕の心をざわつかせていた。


「……ずいぶん静かだな」


 最初に沈黙を破ったのは、ローズだった。


「……そんなに顔に出てた?」


「ああ、すごく」


 彼女は小さく笑った。

 それはとても優しい微笑みだった。普段、他の人の前では滅多に見せないような、そんな表情。


「そんなに心配しなくてもいい」


「簡単に言わないでよ。こっちは生きた心地がしてないんだから」


「本気で言っているさ」


 ローズは腕を組み、遠い地平線を見つめた。


「お前はアルウィンと一緒に行くんだろう?」


「そうだけど……それが何か?」


 彼女は、僕がとんでもない的外れなことを言ったかのような目で見てきた。


「アルウィンは騎士たちの間では伝説の存在だ。……この王国でも指折りの剣士なんだぞ」


「信じろ。あの老人と一緒なら、私といるよりも遥かに安全だ」


「それはちょっと、僕に対して酷くない?」


 ローズは、くすくすと小さな笑い声を漏らした。


「私が言いたいのは、お前の任務の方が危険が少ないということだ」


「僕はそうは思えないんだけどな」


「私に確信がある」


 彼女は小さくため息をついた。


「アレッシオの周囲には、怪物のように強い護衛たちが控えているはずだ」


「おそらく、何人かは『精鋭クラス』だろうな。……奴を殺すのは容易なことじゃない」


 ローズの声から、先ほどまでの柔らかさが消えていた。

 一瞬にして、僕の知るあの真剣な騎士の表情に戻る。戦況を冷静に分析する、一人の戦士の顔に。


「そうだ、ちょうどいい」


 ローズが、こちらに身体を向けた。


「お前にまだ、ちゃんと説明していないことがあったな」


「何のこと?」


「騎士の階級についてだ」


 その言葉に、僕は興味を惹かれた。

 ローズは、説明をしながら自分の指を一本ずつ立てていった。


「騎士団の中には、明確な強さの階級が存在する……」


「まずは『下級騎士』。訓練を受けた、いわゆる一般的な兵卒や民兵の類だな。その上が『上級騎士』。戦場を生き抜いてきた、一人前の騎士たちだ」


 さらに指を動かす。


「……そして最後が、『精鋭クラス』。文字通り、戦場における本物の怪物たちのことだ。普通の兵士数十人を容易に蹴散らせる。この国で言えば、二人の簒奪者に直属する最凶の精鋭――『代表騎士チャンピオン』たちがそれにあたるわ」


 彼女は一拍置き、さらに言葉を重ねた。


「国によっては、その頂点たる最強の戦士に『魔導王』の称号を与え、女王と婚姻させる法があるほどの至高の領域さ」


 彼女の言葉に、僕は純粋な好奇心を覚えた。


「そんなに強いの?」


「お前の想像を遥かに超えているさ」


「普通、そんな奴と正面から戦えば、待っているのは死だけだ」


 僕は、彼女の横顔をじっと見つめた。


「……じゃあ、ローズは何なの?」


 ローズは意外そうに眉をひそめた。


「私か?」


「うん。知りたいんだ」


 彼女は数秒の間、何かを考えるように黙り込んだ。


「……このヘッセン王国での基準なら、私は『精鋭クラス』だな」


 その返答があまりにも自然で、僕は思わず目を見張った。


「そんなに強かったんだ……」


「おい」


「……あ、ごめん。ちょっと失礼だったね」


 ローズはふんと鼻を鳴らした。


「ああ、そうだ」


「私はこう見えても『精鋭クラス』だ。これまでに幾つもの死線を潜り抜けてきた。……まあ、この力のほとんどは『天空の剣』のおかげなんだけどな」


 彼女は自嘲気味に、腰の鞘へ視線を落とした。


「……もっとも、夜よりも深い闇色をしているくせに、どうして『天空』なんて名前がついているのかは、私にもさっぱり分からないがね」


 どこか誇らしげに、しかし複雑な表情で語る彼女を見て、僕は納得するしかなかった。

 実際、彼女の戦う姿を僕は何度も見てきた。それは本当に、恐ろしいほどの強さだったから。


「じゃあ……」


 僕は、少し気になって尋ねてみた。


「僕は、何に当たるの?」


 ローズは少し考え込む仕草をした。


「そうだな……」


「うん?」


「――『下級騎士』だな」


 胸にぐさりと見えない刃が突き刺さった気がした。


「それは酷いよ……」


「事実を言ったまでだ」


「……ありがとう」


「どういたしまして」


 ローズは、僕の反応を心底楽しんでいるようだった。

 やがて、彼女は悪戯っぽく微笑んだ。


「だが、お前もそこまで弱いわけじゃない」


「この数週間、アルウィンに叩き込まれた成果を考えれば、普通の兵士相手なら十分に戦えるはずだ」


「それに……」


 彼女の視線が、僕の腰に下がっている黒い剣へと向けられた。


「その剣も、多くの戦況を変える要素になる。……もし、数日前のあの狂ったような状態になれるなら、敵の軍勢ごと消し去ることだってできるかもしれないしな」


「そのことなんだけど……あの『魔王』について……」


 僕が質問を最後まで口にする前に、小気味よい馬蹄の音が近づいてくるのが聞こえた。

 二頭の軍馬が、僕たちの前に姿を現す。

 アルウィンとエリックが、すでに準備を終えてやってきたのだ。


「いつまでそこに座っているつもりだ?」


 エリックが不機嫌そうに声を荒らげた。


「動け。無駄にできる時間などないぞ」


 アルウィンも静かに頷く。


「戦争は、誰の都合も待ってはくれんからな」


 その言葉を聞いた瞬間、僕の胃がキュッと縮むような緊張感に襲われた。

 ついに、出発の時が来てしまった。

 ローズもそれを察したのだろう。僕たちは同時に立ち上がった。


 一瞬の間、僕たちは互いを見つめ合った。

 言葉もなく、動くこともせず。

 これまでずっと一緒に危険を乗り越えてきたからこそ、いざ離れるとなると、何を言えばいいのか分からなかった。


 ローズが、ふっと視線を落とした。

 珍しく、彼女がひどく緊張しているように見えた。耳の先端まで赤くなっている。


「……吉田」


「うん?」


「お前が……無事に戻ってきたら……」


 彼女の声が、少しずつ小さくなっていく。


「……お前に、言いたいことがあるんだ」


 僕は困惑して、パチリと瞬きをした。

 ローズの顔は、完全に真っ赤に染まっていた。


「……何か、大事なこと?」


 彼女は小さく、しかし力強く頷いた。


「ああ」


「すごく、大事なことだ」


 状況がいまいち掴めなかったけれど、僕は思わず笑みをこぼしてしまった。


「分かった。楽しみに待ってるよ」


 その言葉に、ローズの緊張が少しだけ和らいだようだった。


「よし」


「……絶対に、死ぬんじゃないぞ」


 僕がそれ以上何かを言う前に、エリックが手際よく愛馬に跨りながら、揶揄うように口を開いた。


「おいおい、別れの挨拶が済んだなら、そろそろ出発してもいいだろう?」


「黙れっ!」


 ローズは危うく、足元の石をエリックに投げつけるところだった。


 ローズもそれに続き、手綱を握り締める。

 最後に、もう一度だけ僕たちの視線が交差した。


「サ、ヨナラ」


 彼女は、不器用に僕の母国語を真似てそう言った。


「サヨナラ」


 僕も、同じ言葉を返した。


 次の瞬間、馬たちが力強く地を蹴った。

 ローズとエリックの乗る馬は、小さな土煙を上げながら、一気に西の街道へと駆け抜けていく。


 彼らの背中が、遠くの景色に溶けて見えなくなるまで、僕はその場に佇んで見つめ続けた。

 なぜだか分からないけれど。

 胸の奥に、奇妙なざわつきが残っていた。

 これから、何かが始まってしまうかのような、そんな予感。


「行くぞ、少年」


 アルウィンの重みのある声が、僕の思考を現実へと引き戻した。

 老剣士は、僕にもう一頭の馬の手綱を差し出してきた。


「我々の任務も、決して容易なものではないからな」


 僕は深く頷いた。

 馬の背に跨り、僕たちもまた静かに歩みを進める。


 朝日がゆっくりと地平線から昇り始める中、僕たちはアルタクレスタの街を通り抜けていった。

 領民たちは、壊れた家々の再建に汗を流している。

 兵士たちも混ざって、新しい柵を建てるのを手伝っていた。

 生き残ったわずかな子供たちが、土の道路を元気に走り回っている。


 この世界に来て以来初めて、この街が本来の『希望』を取り戻しつつあるのを肌で感じた。


 進むうちに、正門の近くに見覚えのある人影が見えた。

 カサンドラ王女だ。

 彼女は車椅子に座ったまま、僕たちの旅立ちを静かに見守っていた。


 視線が交わると、彼女はふっと微笑んだ。

 それはとても暖かく、心からの優しい笑みだった。


 僕は別れを告げるように、そっと手を挙げた。

 彼女もまた、微笑みを返してくれる。


 正式に出発し、僕たちは街を出た。

 少しずつ遠くへ。

 ヘッセン王国のさらに深い、闇の奥へと進んでいく。

 この内戦の行く末を左右する、極めて重要な任務のために。


 しばらくの間、僕たちは無言で馬を走らせていた。

 だが、どうしても気になっていた疑問が、再び僕の脳裏に浮かんできた。


「ねえ、アルウィン。さっきローズから聞いたんだけど……『精鋭クラス』って、本当にそんなに化け物揃いなの?」


 老剣士は、喉の奥でくすりと低く笑った。


「お前の想像を遥かに超える強さだ、と言っておこう」


「現に、私の階級もそれにあたる」


「ローズもそうだ」


「そして、この王国で最も危険視されている数人の騎士たちもな」


 僕は、目の前に続く果てしない道を見つめた。


「じゃあ……」


「僕でも、そんな相手に勝てるかな?」


 アルウィンは、馬の上から横目で僕をちらりと見た。

 それから、不敵な笑みを浮かべる。


「生き残るくらいなら、できるのではないか?」


「それ、質問の答えになってないよ」


「誰にも答えられん問いだからな」


 老剣士は手綱を握り直した。


「だが、一つだけ言っておこう」


「お前は『精鋭クラス』に鍛えられたのだ」


「それも、ただの精鋭ではない」


「この、私にな」


 その言葉は、客観的に聞けばひどく傲慢に思えるものだった。

 けれど、アルウィンという本物の生ける伝説が口にすると、それはただの揺るぎない事実として胸に響いた。


「もし、私が教えたことのすべてを出し切るならば……」


 老人は言葉を続ける。


「戦うことくらいはできるだろう。……あるいは、持ち堪えることもな」


「……じゃあ、勝つのは?」


 アルウィンは笑った。

 それは静かで、絶対的な自信に満ちた笑みだった。


「そのために、私がいる」


 老剣士は、僕たちの前に広がる道を力強く見据えた。


「だからこそ、王女殿下は我々を二人で行かせたのだ」


「単体でも十分に危険だが……二人揃えば」


 彼の隻眼が、鋭い光を放つ。


「私とお前だ。並び立つ者がおらぬ最強の布陣よ」


 ヘッセン王国の中心へと向かって馬を進める中、僕はふと思った。

 この王国の人間たちは、これから思い知ることになるのかもしれない。

 あの老人の放った言葉が、何一つ誇張などではなかったということを。

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