第50話:戦いの準備
【吉田視点】
あの軍議が終わった後、すべての出来事が目まぐるしい速さで動き出した。
アルタクレスタの郊外にあるキャンプでは、近衛騎士たちが慌ただしく動き回っている。
新しい遠征の準備は、ほんの数分のうちに始まったようだった。
僕は、その圧倒的なスピードにただ付いていくのがやっとだった。
ほんの数ヶ月前までは日本にいたのに、今はこうして異世界にいて、王座を巡る戦争に参加している。
――そんな現実が、未だにどこか他人事のように思えてならない。
まだ信じられない気持ちはあるけれど、この戦いに加わると決めたのは僕自身の意志だ。
だから、天幕を出た後、防壁の近くに置かれた丸太に腰を下ろし、小さな街の広野を眺めた。
このちょっとした静寂が、今の僕にはとてもありがたかった。
不意に、隣にロゼット・ベイカーが腰を下ろした。
数秒の間、僕たちは何も言葉を交わさなかった。
心地よい風が僕たちの髪を優しく揺らす。その向こうで、兵士たちが武器や物資、鎧を運びながら忙しそうに行き交っていた。
不思議な感覚だった。
この世界に来てから、僕たちは多くの日々をずっと一緒に過ごしてきた。
なのに、ここへ来て初めて、僕たちは別々の道を歩むことになる。
それが、自分で思っている以上に僕の心をざわつかせていた。
「……ずいぶん静かだな」
最初に沈黙を破ったのは、ローズだった。
「……そんなに顔に出てた?」
「ああ、すごく」
彼女は小さく笑った。
それはとても優しい微笑みだった。普段、他の人の前では滅多に見せないような、そんな表情。
「そんなに心配しなくてもいい」
「簡単に言わないでよ。こっちは生きた心地がしてないんだから」
「本気で言っているさ」
ローズは腕を組み、遠い地平線を見つめた。
「お前はアルウィンと一緒に行くんだろう?」
「そうだけど……それが何か?」
彼女は、僕がとんでもない的外れなことを言ったかのような目で見てきた。
「アルウィンは騎士たちの間では伝説の存在だ。……この王国でも指折りの剣士なんだぞ」
「信じろ。あの老人と一緒なら、私といるよりも遥かに安全だ」
「それはちょっと、僕に対して酷くない?」
ローズは、くすくすと小さな笑い声を漏らした。
「私が言いたいのは、お前の任務の方が危険が少ないということだ」
「僕はそうは思えないんだけどな」
「私に確信がある」
彼女は小さくため息をついた。
「アレッシオの周囲には、怪物のように強い護衛たちが控えているはずだ」
「おそらく、何人かは『精鋭』だろうな。……奴を殺すのは容易なことじゃない」
ローズの声から、先ほどまでの柔らかさが消えていた。
一瞬にして、僕の知るあの真剣な騎士の表情に戻る。戦況を冷静に分析する、一人の戦士の顔に。
「そうだ、ちょうどいい」
ローズが、こちらに身体を向けた。
「お前にまだ、ちゃんと説明していないことがあったな」
「何のこと?」
「騎士の階級についてだ」
その言葉に、僕は興味を惹かれた。
ローズは、説明をしながら自分の指を一本ずつ立てていった。
「騎士団の中には、明確な強さの階級が存在する……」
「まずは『下級騎士』。訓練を受けた、いわゆる一般的な兵卒や民兵の類だな。その上が『上級騎士』。戦場を生き抜いてきた、一人前の騎士たちだ」
さらに指を動かす。
「……そして最後が、『精鋭』。文字通り、戦場における本物の怪物たちのことだ。普通の兵士数十人を容易に蹴散らせる。この国で言えば、二人の簒奪者に直属する最凶の精鋭――『代表騎士』たちがそれにあたるわ」
彼女は一拍置き、さらに言葉を重ねた。
「国によっては、その頂点たる最強の戦士に『魔導王』の称号を与え、女王と婚姻させる法があるほどの至高の領域さ」
彼女の言葉に、僕は純粋な好奇心を覚えた。
「そんなに強いの?」
「お前の想像を遥かに超えているさ」
「普通、そんな奴と正面から戦えば、待っているのは死だけだ」
僕は、彼女の横顔をじっと見つめた。
「……じゃあ、ローズは何なの?」
ローズは意外そうに眉をひそめた。
「私か?」
「うん。知りたいんだ」
彼女は数秒の間、何かを考えるように黙り込んだ。
「……このヘッセン王国での基準なら、私は『精鋭』だな」
その返答があまりにも自然で、僕は思わず目を見張った。
「そんなに強かったんだ……」
「おい」
「……あ、ごめん。ちょっと失礼だったね」
ローズはふんと鼻を鳴らした。
「ああ、そうだ」
「私はこう見えても『精鋭』だ。これまでに幾つもの死線を潜り抜けてきた。……まあ、この力のほとんどは『天空の剣』のおかげなんだけどな」
彼女は自嘲気味に、腰の鞘へ視線を落とした。
「……もっとも、夜よりも深い闇色をしているくせに、どうして『天空』なんて名前がついているのかは、私にもさっぱり分からないがね」
どこか誇らしげに、しかし複雑な表情で語る彼女を見て、僕は納得するしかなかった。
実際、彼女の戦う姿を僕は何度も見てきた。それは本当に、恐ろしいほどの強さだったから。
「じゃあ……」
僕は、少し気になって尋ねてみた。
「僕は、何に当たるの?」
ローズは少し考え込む仕草をした。
「そうだな……」
「うん?」
「――『下級騎士』だな」
胸にぐさりと見えない刃が突き刺さった気がした。
「それは酷いよ……」
「事実を言ったまでだ」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
ローズは、僕の反応を心底楽しんでいるようだった。
やがて、彼女は悪戯っぽく微笑んだ。
「だが、お前もそこまで弱いわけじゃない」
「この数週間、アルウィンに叩き込まれた成果を考えれば、普通の兵士相手なら十分に戦えるはずだ」
「それに……」
彼女の視線が、僕の腰に下がっている黒い剣へと向けられた。
「その剣も、多くの戦況を変える要素になる。……もし、数日前のあの狂ったような状態になれるなら、敵の軍勢ごと消し去ることだってできるかもしれないしな」
「そのことなんだけど……あの『魔王』について……」
僕が質問を最後まで口にする前に、小気味よい馬蹄の音が近づいてくるのが聞こえた。
二頭の軍馬が、僕たちの前に姿を現す。
アルウィンとエリックが、すでに準備を終えてやってきたのだ。
「いつまでそこに座っているつもりだ?」
エリックが不機嫌そうに声を荒らげた。
「動け。無駄にできる時間などないぞ」
アルウィンも静かに頷く。
「戦争は、誰の都合も待ってはくれんからな」
その言葉を聞いた瞬間、僕の胃がキュッと縮むような緊張感に襲われた。
ついに、出発の時が来てしまった。
ローズもそれを察したのだろう。僕たちは同時に立ち上がった。
一瞬の間、僕たちは互いを見つめ合った。
言葉もなく、動くこともせず。
これまでずっと一緒に危険を乗り越えてきたからこそ、いざ離れるとなると、何を言えばいいのか分からなかった。
ローズが、ふっと視線を落とした。
珍しく、彼女がひどく緊張しているように見えた。耳の先端まで赤くなっている。
「……吉田」
「うん?」
「お前が……無事に戻ってきたら……」
彼女の声が、少しずつ小さくなっていく。
「……お前に、言いたいことがあるんだ」
僕は困惑して、パチリと瞬きをした。
ローズの顔は、完全に真っ赤に染まっていた。
「……何か、大事なこと?」
彼女は小さく、しかし力強く頷いた。
「ああ」
「すごく、大事なことだ」
状況がいまいち掴めなかったけれど、僕は思わず笑みをこぼしてしまった。
「分かった。楽しみに待ってるよ」
その言葉に、ローズの緊張が少しだけ和らいだようだった。
「よし」
「……絶対に、死ぬんじゃないぞ」
僕がそれ以上何かを言う前に、エリックが手際よく愛馬に跨りながら、揶揄うように口を開いた。
「おいおい、別れの挨拶が済んだなら、そろそろ出発してもいいだろう?」
「黙れっ!」
ローズは危うく、足元の石をエリックに投げつけるところだった。
ローズもそれに続き、手綱を握り締める。
最後に、もう一度だけ僕たちの視線が交差した。
「サ、ヨナラ」
彼女は、不器用に僕の母国語を真似てそう言った。
「サヨナラ」
僕も、同じ言葉を返した。
次の瞬間、馬たちが力強く地を蹴った。
ローズとエリックの乗る馬は、小さな土煙を上げながら、一気に西の街道へと駆け抜けていく。
彼らの背中が、遠くの景色に溶けて見えなくなるまで、僕はその場に佇んで見つめ続けた。
なぜだか分からないけれど。
胸の奥に、奇妙なざわつきが残っていた。
これから、何かが始まってしまうかのような、そんな予感。
「行くぞ、少年」
アルウィンの重みのある声が、僕の思考を現実へと引き戻した。
老剣士は、僕にもう一頭の馬の手綱を差し出してきた。
「我々の任務も、決して容易なものではないからな」
僕は深く頷いた。
馬の背に跨り、僕たちもまた静かに歩みを進める。
朝日がゆっくりと地平線から昇り始める中、僕たちはアルタクレスタの街を通り抜けていった。
領民たちは、壊れた家々の再建に汗を流している。
兵士たちも混ざって、新しい柵を建てるのを手伝っていた。
生き残ったわずかな子供たちが、土の道路を元気に走り回っている。
この世界に来て以来初めて、この街が本来の『希望』を取り戻しつつあるのを肌で感じた。
進むうちに、正門の近くに見覚えのある人影が見えた。
カサンドラ王女だ。
彼女は車椅子に座ったまま、僕たちの旅立ちを静かに見守っていた。
視線が交わると、彼女はふっと微笑んだ。
それはとても暖かく、心からの優しい笑みだった。
僕は別れを告げるように、そっと手を挙げた。
彼女もまた、微笑みを返してくれる。
正式に出発し、僕たちは街を出た。
少しずつ遠くへ。
ヘッセン王国のさらに深い、闇の奥へと進んでいく。
この内戦の行く末を左右する、極めて重要な任務のために。
しばらくの間、僕たちは無言で馬を走らせていた。
だが、どうしても気になっていた疑問が、再び僕の脳裏に浮かんできた。
「ねえ、アルウィン。さっきローズから聞いたんだけど……『精鋭』って、本当にそんなに化け物揃いなの?」
老剣士は、喉の奥でくすりと低く笑った。
「お前の想像を遥かに超える強さだ、と言っておこう」
「現に、私の階級もそれにあたる」
「ローズもそうだ」
「そして、この王国で最も危険視されている数人の騎士たちもな」
僕は、目の前に続く果てしない道を見つめた。
「じゃあ……」
「僕でも、そんな相手に勝てるかな?」
アルウィンは、馬の上から横目で僕をちらりと見た。
それから、不敵な笑みを浮かべる。
「生き残るくらいなら、できるのではないか?」
「それ、質問の答えになってないよ」
「誰にも答えられん問いだからな」
老剣士は手綱を握り直した。
「だが、一つだけ言っておこう」
「お前は『精鋭』に鍛えられたのだ」
「それも、ただの精鋭ではない」
「この、私にな」
その言葉は、客観的に聞けばひどく傲慢に思えるものだった。
けれど、アルウィンという本物の生ける伝説が口にすると、それはただの揺るぎない事実として胸に響いた。
「もし、私が教えたことのすべてを出し切るならば……」
老人は言葉を続ける。
「戦うことくらいはできるだろう。……あるいは、持ち堪えることもな」
「……じゃあ、勝つのは?」
アルウィンは笑った。
それは静かで、絶対的な自信に満ちた笑みだった。
「そのために、私がいる」
老剣士は、僕たちの前に広がる道を力強く見据えた。
「だからこそ、王女殿下は我々を二人で行かせたのだ」
「単体でも十分に危険だが……二人揃えば」
彼の隻眼が、鋭い光を放つ。
「私とお前だ。並び立つ者がおらぬ最強の布陣よ」
ヘッセン王国の中心へと向かって馬を進める中、僕はふと思った。
この王国の人間たちは、これから思い知ることになるのかもしれない。
あの老人の放った言葉が、何一つ誇張などではなかったということを。




