第45話:アルタクレスタの戦い 其の2
アルタクレスタの平原は、不気味なほどの静寂に包まれていた。
ローズと吉田の身体から流れ出る漆黒の血が、草地を汚し、足元の緑をどくどくと黒く染め上げていく。
アルウィンは微動だにせず、その表情を怒りと驚愕で硬直させていた。シェイリー・ニンティネルが犯したあまりにも容赦のない裏切りが、その場にいた全員の思考を完全に麻痺させていたのだ。
エリックは今にも引き抜かんばかりに剣の柄を握りしめ、その指先は完全に白くなっている。カサンドラ王女の率いる百人の騎士たちもまた、想定外の事態を前にして武器を構えたまま立ち尽くしていた。
一方、アレッシオ王子は一瞬の好機を逃さなかった。すぐさま愛馬の手綱を激しく引き絞ると、背後の軍勢など知ったことかとばかりに、猛然と馬首を返してその場から離脱し始めた。
「あ……」
カサンドラ王女は驚愕に目を見開いた。
この泥沼の戦争が始まって以来、彼女は初めて、全ての希望が完全に潰えたという絶望のどん底を味わっていた。ローズの命の灯火は消えかけ、未来を託して『天空の剣』を背負わせた少年までもが、すぐ隣で無残にのどを鳴らしながら命を落そうとしている。
これ以上ない、最悪の戦況だった。
冷たい風が、にわかに吹き荒れ始める。最初はただの微風に過ぎなかったそれは、瞬く間に猛烈な突風へと変わった。
騎士たちの外套が激しくはためき、上空では分厚い雲が生き物のように急速にうねり始める。
その時、異常な現象が世界を襲った。
白昼の光が、急速に掻き消されていく。
異変を察した兵士たちが怯えたように上空を見上げた。灰色の空が、まるで墨を流したかのようにゆっくりと、だが確実に黒く染まっていく。まるで巨大な何かの影が、世界そのものを丸ごと覆い尽くそうとしているかのように。
「おい……何が起きているんだ……?」
一人の騎士が震える声で呟いたが、誰も答えることはできなかった。
大気が異常なほどに重い。肺を圧迫されるような息苦しさに、誰もが呼吸を忘れた。人間だけでなく軍馬たちまでもが本能的な恐怖を察知して暴れ始める。激しく蹄を鳴らし、狂ったように後ろ足で立ち上がった。
そして――。
吉田の目が、カッと見開かれた。
ドサッ!
横たわっていた彼の身体が、まるで目に見えない力で引き絞られたかのように激しく仰向けにのけ反る。
ゴフッ――!
口から大量の黒い血が噴き出した。指先が狂暴な力で地面の土を抉り、首筋の血管が今にも破裂しそうなほど太く浮き上がった。
その直後だった。
「あああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
凄まじい叫びが、世界の天蓋を突き破った。
それは断じて人間の声ではなかった。禍々しく、悍ましい、圧倒的な怪物の咆哮。遥か古代の深淵に眠り、決して目覚めさせてはならなかった『何か』の咆哮だった。
バリバリと空間を震わせるその音は、周囲の山々を越え、広大な森林を抜け、いくつもの都市を揺らし、荒れ狂う大海原を渡って、世界中のすべての大陸へと瞬く間に轟き渡った。
◆
遥か彼方、魔族の軍勢が支配する帝国の地。
漆黒の居城のバルコニーを歩いていた若き魔族の皇子が、その咆哮を耳にした瞬間にピタリと足を止めた。
彼の冷酷な瞳が歓喜に狂って大きく開かれ、その唇がゆっくりと吊り上がっていく。
「ついに……」
その声が、興奮で小さく震えた。
「我らの王が、御目覚めになられたか」
◆
また、そこから遥か遠く離れたミルバー共和国の島。
テラスで椅子に腰掛け、銀髪の妻をその膝に抱き寄せながら静かに海を眺めていた一人の男がいた。
二人は同時に顔を上げた。
先ほどまで青かった空が、見たこともない禍々しい赤色に染まっている。そして地平線を越えて届いたあの悍ましい咆哮が、彼らの耳を打った。
妻の身体が恐怖で小さく震える。
「あなた……今の音は、ヘセックス王国の方から……?」
男は何も答えず、ただ赤く染まる空を厳しく睨み据えていた。
◆
かつてローズが生まれ育った、ワーウィック王国。
兵士、商人、傲慢な貴族から貧しい民衆まで、その場にいた全員が一斉に天を仰いだ。
あの地鳴りのような咆哮は、この大都市にまで確実に届いていた。そして何故だか誰一人として、その不気味に赤く染まった空に対する本能的な恐怖を抑えつけることができなかった。
◆
アルタクレスタの平原。
少年の絶叫は未だに戦場に鳴り響いていた。
両軍の兵士たちは、蛇に睨まれた蛙のように完全に硬直していた。恐怖のあまり、その手から武器をポロポロと落としてしまう者さえいた。
アレッシオ王子は、自身の背中を冷たい脂汗がだらだらと流れ落ちるのを感じていた。これまでの人生で、ただの一度もここまでの底知れない恐怖を感じたことなどなかった。
「な、何なんだ……あの化け物は……!」
王子の声は情けなく震えていた。
真っ先に正気を取り戻したのは、百戦錬磨のアルウィンだった。
「王女殿下を退避させろ! 急げ!」
「ハッ!」
エリックが即座に動いた。数人のベテラン騎士たちがカサンドラを包み込むようにして護衛し、戦場の中心から猛スピードで引き離していく。虫の息だったローズもまた、別の騎士たちによって素早くその場から引きずり出された。
誰もが離れていく。その凄まじい威圧感から逃れるように。
だが、吉田だけは違った。
少年は未だに咆哮を上げ続けていた。
バキバキバキッ……!
音を立てて、彼の足元の地面が蜘蛛の巣状にひび割れていく。
彼の肉体から、生きている影のような禍々しい黒煙が噴き出した。その黒い影の一部が急速にローズの方へと伸び、瞳から光を失って死に沈みかけていた彼女の身体を包み込む。その闇は、周囲の光を全て貪り喰うかのように濃密だった。
突木として、吉田の叫びが止んだ。
世界の音が、一瞬で消え去る。訪れたのは、張り詰めた完全な静寂。
そして――ゆっくりと、少年がその場に立ち上がった。
彼の目は、もう以前の少年のものではなかった。そこには感情も、理性も、人間性も一切存在しない。
全身を漆黒のオーラに包まれ、その背では『天空の剣』が狂ったように不気味に振動している。
誰も指一本動かすことすらできなかった。恐怖が彼らの肉体を縛り付けていた。
だが、その圧倒的な重圧に耐えかねたアレッシオが、発狂したように叫んだ。
「殺せぇぇぇ!!」
その声は、完全に余裕を失った絶望の悲鳴だった。
「あいつを殺せ! 今すぐだ! 蜂の巣にしろ!!」
その命令に弾かれたように、数千の敵兵が一斉に足を踏み出した。
ジャキッ、と無数の長槍が下ろされ、ガシィン、と盾が隙間なく噛み合わさる。それは遮るもの全てを圧殺する鋼の津波となり、たった一人の少年に向かって襲いかかった。
吉田は、その大軍に向かって歩き出した。ただ、一人で。急ぐ風でもなく、恐怖も怒りも何の一切の感情も見せることなく、ただ淡々と。
――ドシュッ!
一瞬だった。彼の姿が文字通り戦場から掻き消えた。
兵士たちが困惑に目を見開いた、まさにその次の瞬間。
ズガァァァン!!
最前線の数十人の肉体が、まるで大砲の直撃を受けたかのように派手に宙へと吹き飛ばされた。内臓をぶちまけ、鎧を紙切れのように引き裂かれながら、無残な肉塊となって宙を舞う。
「ぎゃあああああああ!?」
「何だ!? 何が起きた!?」
悲鳴と怒号が戦場を埋め尽くした。あまりの衝撃に敵の堅牢な陣形が一瞬で崩壊する。
襲いかかる騎士たちが次々と叩き潰された。長槍はマッチ棒のように容易く圧折され、鉄の盾は粉々に爆散した。
吉田はまるで黒い暴風雨そのものだった。闇を纏った怪物が戦場を蹂躙していく。彼がただ腕をひと振りするだけで数人の兵士の首が飛び、胴体が両断されて地に転がった。彼が一歩前進するたびに、敵の戦列は恐怖で何十歩も後退していく。
ついに兵士たちが武器を投げ捨てて逃げ始めた。ある者は恐怖のあまり涙を流し、ある者はただ正気を失って絶叫しながら逃げ惑う。
「化け物だ! 奴は人間じゃない!」
「引け! 退却だぁぁ!」
アレッシオの無敵を誇った軍勢は、瞬く間に完全な烏合の衆へと成り下がった。規律などとうに吹き飛び、陣形も崩壊している。そこにあるのは、底知れぬ純粋な恐怖だけだった。
アレッシオは、その光景をただ呆然と、恐怖に引き攣った顔で見つめていた。目の前で起きている惨劇は、もはや戦争ではない。あれは『大厄災』だ。生きる悪夢。二本足で歩くただの天災だった。
「そんな……馬鹿な……」
恐怖で足がガタガタと震え、馬上で一歩後退する。
「あり得ん……こんなことが……!」
生まれて初めて、彼は心の底から「逃げたい」と願った。精度そのプライドをかなぐり捨てて、本当に逃げ出したのだ。
愛馬の脇腹を狂ったように蹴り、反転して逃走する。その姿を見た数千の敗残兵たちが、我先にと彼の後ろを追って雪崩を打った。
軍勢全体が敗走を始める中、吉田は未だに狂暴な旋風のごとく、残された敵の騎士たちを冷酷に屠り続けていた。
その凄惨な混沌の渦中。急いで撤退しようとしていたシェイリー・ニンティネルが、突如として馬から飛び降りた。
彼女の瞳は、狂気に狂う吉田の姿をじっと見据えていた。平原には切り刻まれた肉体から流れた血が川のように流れている。血生臭い暴風が彼女の美しい緑の髪を激しく揺るがしていたが、それでも彼女は逃げずに一歩前へと進み出た。
「やはり、本当だったのね……」
ぽつり、と場違いなほど静かな声で呟いた。
一本の矢を番う。太陽女神の加護を受けし者として、光を帯びたあの『光の弓』を、限界までギリギリと引き絞る。
そして、まっすぐに少年の心臓を狙い定めた。エルフの少女の瞳には、一切の躊躇いも罪悪感もなかった。ここ数日間の絆など最初から全て忘れてしまったかのように、その表情は冷酷に冴え渡っていた。
しかし。
彼女が引き絞った弦を放とうとしたまさにその一瞬、標的が視界から完全に消滅した。
――ガッ!!!
気づいた時には、吉田は彼女の目の前に立っていた。人間の動体視力を完全に超越した、文字通りの神速。
「がはっ……!?」
凄まじい衝撃がシェイリー・ニンティネルの腹部を直撃した。エルフの少女の華奢な身体が、まるで投げ飛ばされた石切れのように猛烈な速度で後方へと吹き飛ばされる。
世界の視界がぐるぐると激しく回転した。空が消え、視界の端で木々の緑が猛スピードで迫ってくる。
凄まじい風圧の中、彼女は意識を失いかける寸前、指先に残った最後の力で引き絞っていた弦をパッと離した。
――ヒュンッ!!
放たれた一本の矢が、狂暴な速度で大気を切り裂いて飛ぶ。それはあまりにも至近距離、かつ不意の一撃だった。
ドシュッ!!!
矢は吉田の胸の真んを正確に貫通した。
「……っ」
少年の動きがピタリと止まった。
遠く離れた場所で騎士たちに支えられていたローズの紅蓮の瞳が、驚愕に大きく見開かれた。しかし重傷を負った彼女の身体は、指一本動かすことすらできない。
「よ……し……だ……」
少年の巨躯がぐらりと不自然に揺らいだ。彼を包み込んでいたあの禍々しい漆黒のオーラが、嘘のようにサーッと霧散していく。
ドサッ、と彼はその場に膝を突いた。そして力なくそのまま青々とした草の上へと前のめりに倒れ伏し、完全に意識を失った。
ふたたび、平原に重苦しい静寂が戻ってきた。
一方、何本もの大木をその肉体でへし折りながら、シェイリー・ニンティネルは遥か後方の森の奥深くへと叩きつけられていた。
ズガァン! と地面に激しく激突した彼女の身体はボロ雑巾のように転がる。衣服は裂け、全身が自身の血で真っ赤に染まっていた。そして小さく喘いだ後、彼女もまた深い闇へと意識を失った。
戦いは終わった。
アレッシオの軍勢は、完全に統制を失ったまま這々の体で撤退していった。平原には無残に切り刻まれ、引き裂かれた八百人以上の死体が、物言わぬ肉塊となって転がっている。
カサンドラ王女の騎士たちは、五体満足のまま、ただただ恐怖に震えて立ち尽くしていた。勝利を祝う声などどこからも上がらず、言葉を発する者さえいない。
全員の視線が、戦場の中心でうつ伏せに倒れているあの奇妙な少年の身体に釘付けになっていた。
なぜなら彼らは全員、全く同じ悪夢を目撃したからだ。世界を震撼させたあの悍ましい咆哮を耳にしたからだ。
そして彼らは否応なしに、残酷な唯一の真実に辿り着いていた。
あの少年こそが――世界を滅ぼす『魔王』なのだと。
◆
アルタクレスタから遥か遠く、生き残った僅かな手下と共に馬を走らせていたアレッシオ王子は、怒りと恐怖で奥歯をガチガチと鳴らしていた。
彼の顔からは完全に血の気が引き、手綱を握る両手は未だにガタガタと震えが止まらない。この戦争が始まって以来、彼は初めて、骨の髄まで染み渡るような本物の恐怖に支配されていた。
「クソが……カサンドラの狂女め……!」
その声は惨めに掠れ、完全にひび割れていた。
「まさか、自軍の中に『魔王』を隠し持っていたなど……聞いていないぞ……!」
あと、これからの更新なんですが、日本時間の朝7時20分頃に投稿していこうと思ってます、うぇ




