第44話:アルタクレスタの戦い 其の1
濁った灰色の空から、狂風がアルタクレスタの廃墟を叩きつけていた。
町の入り口には、カサンドラ王女を護る百人の騎士たちが彫像のように沈黙して整列している。
夜明けの薄暗い光を浴び、彼らの鎧が重々しく鈍い金属光を放っていた。
最前線、愛馬に跨るアルウィンの隣にはエリックが控え、いつでも刃を突き立てられるよう剣の柄に不穏な手を添えている。
後方には、乗馬用に特別に改造された椅子に腰掛けたカサンドラ・ゼドリエル王女が静かに佇み、ローズと吉田の二人は彼女を護るようにすぐ近くに陣取っていた。
女騎士であるローズは軽装の戦闘鎧に身を包んでいる。
一方の吉田は鎧を一切着けていなかった。わずか数ヶ月前までは日本の普通の学生だった彼にとって、この血生臭い戦場は未だに現実味のない異質な空間そのものだった。だが、その背にはあの伝説の『天空の剣』が静かに収まっている。
軍勢の先頭、アルウィンよりも数歩前に出た位置には、シェイリーが立っていた。
若きエルフの少女は、無言のままゆっくりと自身の弓を引き絞っていく。
ミシッ……。
張り詰めた弦が微かに軋む音を立てた。
矢の先端がまっすぐに狙うのは地平線の彼方――敵の軍勢が迫り来る、その方向だった。
そして、ついに奴らが現れた。
ゴゴゴゴゴゴ……!
鼓膜を震わせる不気味な地鳴りとともに、大地が激しく揺れ動く。
丘を越えて視界を埋め尽くしたのは、地平線を覆う無数の軍旗だった。
数千もの兵士たちが、終わりのない鋼の津波となって押し寄せてくる。
連なる長槍、重厚な盾、地を響かせる重騎士、そして一斉に弓を構える弓兵。
アレッシオ王子の軍勢は、見渡す限りの大地を完全に支配していた。カサンドラ王女の元に集った百戦錬磨のベテラン騎士たちでさえ、その圧倒的な数の暴力に思わず生唾を飲み込む。
千人の大軍に対し、こちらはわずか百人。戦力差はあまりにも絶望的だった。
雪崩のように容赦なく進軍を続けていた敵の大軍だったが、そのリーダーが馬上で片腕を高く掲げた瞬間、一斉にその動きを止めた。
ザッ!
統制された合図一つで、背後に従うすべての兵士たちがピタリと足を止める。
世界にはヒョーヒョーと吹き抜ける風の音だけが残された。二つの軍勢が、互いをじっと睨み合い、力量を測り合っている。
不敵な笑みを浮かべたアレッシオは、恐怖を一切見せることなく、残虐な笑みを顔に張り付かせたまま愛馬を数歩前へと進めた。ゆっくりと、品定めをするようにこちらの軍勢へと近づいていく。
張り詰めた静寂を破るように、一本の毅然とした声が穏やかに響き渡った。
「従兄」
カサンドラが真っ直ぐに呼びかけた。
アレッシオは馬の上から嘲笑うような視線を向け、白銀の鎧を薄暗い光に反射させながら、目の前のあまりにも小さな軍勢を見下ろした。
「やはりここにいたか、従妹よ」
彼の冷酷な視線が、こちらの陣形をねめ回す。
アルウィン、エリック、そしてシェイリー。最後に、その目はローズのところでピタリと止まった。さらに、その隣にいる吉田へと視線が移ると、アレッシオの目がわずかに細められた。
「ほう……。噂は本当だったようだな」
ローズは敵の邪悪な注意を逸らすように、一歩前へと足を踏み出した。
「何の用だ、愚王の出来損ないが」
「……」
アレッシオ王子は、両腕を大げさに広げて見せた。
「実におもしろい」
それから再び、視線をカサンドラへと戻す。
「千人対百人だ。お前に勝ち目など万に一つもないぞ、愛おしい従妹よ。大人しく降伏しろ。さすれば、せめて苦しまずに早く死なせてやる」
王女はその冷酷な脅迫を、真っ向から見据え返した。
「感謝する。だが、その提案は拒否させてもらう」
アレッシオの笑みが、さらに醜く歪んだ。
「それは残念だ」
彼の底冷えする声が、戦場に響き渡る。
「これが終わった後、俺の千人の男たち全員にお前を抱かせよう。お前が人間であることをやめ、ただの物言わぬ肉切れになり果てるまでな……。お前が死ねるのは、その後だ」
周囲の空気が、一瞬にして凍りついた。
エリックはギリッ……と奥歯が砕けんばかりに歯を食いしばり、アルウィンの表情も険しい怒りに染まる。カサンドラ王女の背後に控える兵士たちも、激昂して剣の柄を強く握りしめた。
しかし、カサンドラ自身は微塵も動じなかった。
「たとえこの足が動かぬ不具の身であろうとも、私は戦って死ぬことを選びます。たとえこの歯を使ってでも、ね」
その言葉を聞いた王子は、堪えきれずに大爆笑した。
「ハハハハハハ!」
そして、その邪悪な目が再びローズへと向けられる。
「そして、お前だ……ロゼット・ベイカー。まさかこんな場所にいるとはな。かつての英雄が、今やただの裏切り者か」
ローズは深く眉をひそめた。
「言葉を慎め」
「慎まねばどうする?」
アレッシオはねっとりとした冷笑を漏らした。
「自分の祖国を裏切ったように、今度はその王女をも裏切りものにするつもりか?」
カサンドラの騎士たちの間にピリピリとした緊張が走る中、ローズはさらに一歩前へ出た。
「お前の首を撥ねてやる」
「できるわけがなかろう」
王子は再び彼女を値踏みするように見つめる。
「何しろお前は、この世界に『魔王』を連れてきた大罪人なのだからな」
彼の視線が、一瞬だけ吉田へと向けられた。
「まあ、正直なところ……俺の目には、どこにも悪魔など見えんがな」
吉田にはその言葉の意味が完全には理解できなかった。しかし、周囲の刺すような視線、この場の張り詰めた空気、そして異常なまでの緊張感は嫌というほど伝わっていた。それだけで、覚悟を決めるには十分だった。
アレッシオは再びローズへと向き直る。
「今のうちにこちら側へ寝返るなら、まだ間に合うぞ?」
「いいえ。ここには、すでに裏切りを終えた者がいるわ」
ローズの口から漏れたあまりにも奇妙で意味深な一言に、こちらの数人が困惑して眉をひそめた。
しかし、誰もその真意を問い質す暇はなかった。
敵陣から一人の騎兵が血相を変えて駆け込んできて、アレッシオの傍らに寄ると、その耳元で必死に何かを囁き始めたのだ。
王子の顔から、先ほどまでの余裕に満ちた笑みが完全に消え失せた。その表情が、驚愕と剥き出しの怒りで塗りつぶされていく。
「……それは確かか?」
「はっ、間違いございません、殿下!」
アレッシオは苦々しく目を閉じ、猛烈な怒りを押し殺すように拳を握りしめた。再び目を開けた時、彼は数秒の間、忌々しそうに空を見上げた。
「あの糞デブの老害め……」
吐き捨てるようにそう呟くと、地面にペッと唾を吐いた。そして、再びカサンドラへと冷たい視線を向ける。
「運の良い奴だ、従妹よ。俺たちの最愛の叔父上が、どうやら軍を動かし始めたらしい。どうやら、今日お互いに殺し合うことはできなくなったようだな」
兵士たちは困惑した様子で互いに顔を見合わせた。すべてが、戦いが始まる前に中止される方向へと動いているように見えた。ローズでさえ、張り詰めていた胸の空気をゆっくりと吐き出し、わずかに安堵した――その瞬間だった。
ヒュッ――!
短く、鋭い風切り音が響いた。
ドスッ!
ローズは自身の胸を何かが激しく貫通するような衝撃を感じた。彼女の目が大きく見開かれる。一瞬、何が起きたのか全く理解できなかった。
ゆっくりと視線を下に向けると、自身の鎧から一本の矢の矢尻が突き出ており、そこからどくどくと鮮血が広がり始めていた。
「え……?」
世界の時間が止まったかのように感じられた。周囲の悲鳴と怒号が響き渡ったのは、その直後だった。
ローズは信じられない思いで顔を上げた。視線の先にいたのは、シェイリーだった。エルフの少女は、すでに二の矢を番い、限界まで弓を引き絞っている。
ローズの瞳が、恐怖と絶望に染まった。
「シェイリー……?」
ベェェン――!
弦が激しく震え、放たれたもう一本の矢が猛烈な速度で大気を切り裂いた。その標的は――吉田だった。
少年は辛うじて身体を捻ろうとしたが、あまりにも遅すぎた。
ドスッ!
矢は彼の胸の真ん中へと正確に突き刺さる。その凄まじい衝撃に、吉田の身体は派手に後ろへと吹き飛ばされた。
カランッ……!
彼が背負っていた『天空の剣』が、無残な音を立てて地面へと転がり落ちる。
「吉田ーー!」
ローズが叫んだ。彼を助けようと必死に足を動かそうとし、剣を抜こうと試みる。しかし、それを嘲笑うかのように、さらに四本の矢が同時に彼女を襲った。
ドスッ、ドスッ、ドスッ!
一本が肩を貫き、もう一本が脇腹を抉る。残りの矢が鎧のプレートに直撃し、その凄まじい衝撃でローズは地面に激しく膝を突いた。身体中を耐え難い激痛が駆け巡り、金属の隙間から大量の血が溢れ出していく。
戦場は一瞬にして地獄の混沌へと叩き落とされた。
騎士たちは武器を掲げ、エリックは狂ったように剣を引き抜き、アルウィンは愛馬に拍車を当てて突撃しようとする。しかし、すべてが遅すぎた。
シェイリーはすでにこちらの陣営を離れ、アレッシオのすぐ隣へと移動していた。彼女は用意されていた馬に跨り、冷徹な目でこちらを見下ろしている。その瞳は微かに震えていたが、決して視線を逸らそうとはしなかった。
「なぜ……?」
カサンドラ王女が、悲痛な声を絞り出す。だが、エルフの少女はただ唇を白くなるほど強く噛み締めるだけで、何も答えなかった。
アレッシオ王子は、その光景を見て満足そうに高笑いした。
「面白い」
しかし、その娯楽に満ちた表情も、すぐに怪訝なものへと変わった。戦場で、明らかに異常な現象が起き始めていたからだ。
倒れた吉田の胸から流れ出る血は――赤ではなかった。それは、禍々しいほどに黒く、濁り、酷くドロリとした液体だった。
同調するように、同じことがローズの身体からも起きていた。彼女の傷口から滴り落ちる血もまた、漆黒の闇と同じ色をしていたのだ。
戦場に、完全な静寂が訪れた。敵の兵士たちでさえ、その異様な光景に身体を硬直させる。誰もが言葉を失い、息を呑む中、誰かが怯えたように呟いた。
「あれは、魔族の血だ……」
その囁きは、瞬く間に野火のように両軍へと広がっていく。
「魔族?」「どうしてそんなことが可能だ?」「あいつら、人間じゃないのか……?」
アレッシオ王子は、信じられないものを見る目でその光景を凝視していた。
「いや……」
彼は困惑を隠せない様子で呟いた。
「ベイカーの一族は、純血の人間のはずではなかったのか……?」
この場に現れて以来、王子がこれほどまでに激しく動揺したのは、これが初めてだった。
ローズは辛うじて意識を保つのが限界だった。吉田は血を吐きながら、苦しげに喘いる。二人は冷たい地面の上に横たわり、その不気味な黒い血がアルタクレスタの乾いた石を黒く染め上げていった。
アルウィン、エリック、そして数人の騎士たちが、彼らを救護するために必死に駆け寄る。
そんな中、アレッシオは再びカサンドラへと視線を戻した。
「どうやら、今日はお互いに、より重大な問題を抱え込んだようだな」
王子の声は、元の冷酷なトーンを取り戻していた。
「俺の愛する叔父上が俺の領地に迫っている。だから、休戦にしてやる」
王女は答えなかった。
「だが、よく聞いておけ」
王子は王女を激しく指差した。
「あの老害を片付けた後……必ず戻ってくる。その時は、お前の傍らにいる裏切り者どもを、一人残らず惨殺してやる」
敵の軍勢が、ゆっくりと撤退を開始した。数千の兵士たちが反転し、彼らの軍旗は地平線の彼方へと少しずつ消えていく。
ただ、シェイリーだけが数秒の間、その場に留まり、こちらを見つめていた。
カサンドラが彼女を見つめ、エリックが彼女を睨み、アルウィンが彼女を凝視する。全員が、彼女からの説明を、あるいは言い訳を待っていた。
やがて、エルフの少女は静かに視線を落とした。その声は、風にかき消されそうなほど小さな囁きだった。
「彼らは、私の家族を人質に取っているの」
誰も答えなかった。いや、答えるべき言葉など、最初から存在しなかった。
シェイリーはそっと目を閉じると、馬に激しく拍車を当てた。そして、引き揚げる敵の大軍の中へと消えていった。
最後の一兵が地平線の向こうへと消え去った時、勝利を祝う騎士は誰もいなかった。誰も喋らず、誰も動かない。
冷たい風だけがアルタクレスタの廃墟を吹き抜け、沈黙は一層重く、深く彼らにのしかかる。
その底冷えするような静寂の中――。
ローズと吉田の二人は、黒い血を流しながら、ゆっくりと意識を失っていくのだった。
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