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第41話:女騎士と魔王


夜の闇がすっかりと辺りを包み込む頃、ローズは山奥にひっそりと佇む隠れ屋敷へと戻ってきた。


森は完全な静寂に支配され、かすかに遠くで聞こえる虫の音と、風が枝を揺らす音だけが響いている。

松明の灯りに照らされた小道を、ローズはゆっくりとした足取りで進んだ。


あの剣を握っていた吉田の姿や、「戦いたい」と言った彼の言葉を思い出すたび、胸の奥が妙にかき乱される。

そして、そのことが彼女をひどく苛立たせていた。


ローズは吉田がすでに眠っていることを願いながら、小さな部屋の扉を静かに開けた。


だが、予想は外れた。


少年はベッドの上に座り、彼女を待っていたのだ。

ランプの淡い光が彼の横顔を照らし、その足元には黒い剣が立てかけられていた。


ローズは敷居の手前でピタリと足を止めた。


「……まだ、起きていたのね」


彼女が低く呟くと、吉田は緊張の入り混じった瞳で視線を上げた。


「……君と、話がしたくて」


その言葉を聞いた瞬間、ローズの顔に急激な熱が上った。

彼女は背後の扉をゆっくりと閉めたが、急にその部屋がひどく狭く、そして静まり返っているように感じられた。


この空間に二人きりでいるという事実だけで、すべてがいつも以上に気まずく思えてしまう。

ローズは彼と目を合わせるのを避け、ベッドの端へと腰を下ろした。

お互いの間に少し距離を空けたが――実際のところ、それほど離れてはいなかった。


吉田は少し緊張をほぐそうと、生唾を飲み込んだ。


「謝りたくて……さっきは少し、感情的になりすぎた」


少年の声はどこか不器用だったが、完全に本心からのものであることが伝ってきた。

ローズは視線を逸らし、深く長い溜息を吐いてから言葉を返した。


「私の方こそ、取り乱しすぎたわ……」


吉田は完全に彼女の方へと向き直った。


「分かってほしい。色々なことが起きすぎて、まだ自分の中でうまく整理できていないんだ」


「分かっているわ……本当に、あなたの気持ちは理解しているつもりよ」


ローズはそう言って、警戒を解いた。


部屋には再び沈黙が降りてきたが、今度の静けさは先ほどよりもずっと、親密な空気を孕んでいた。

お互いの呼吸の音さえも、はっきりと空気中に響き渡る。


その距離の近さは、どこか危険な気配を帯び始めていた。

ローズはすぐ近くにある吉田の体温を感じ取っていた。その引き寄せられるような感覚に、彼女の心臓は必要以上に早く、激しく鼓動を打つ。


吉田もまた、落ち着かない様子だった。ランプの光に照らされた彼の頬はかすかに赤らみ、両手は膝の上で硬くなっている。


張り詰めた緊張を和らげるため、ローズは少し唇を引き締めてから口を開いた。


「剣の調子は……どう?」


吉田は話題が変わったことに安堵したように、手元にある武器へと視線を落とした。


「アルウィンが少し教えてくれたんだけど……正直、かなり手こずっちゃって」


ローズは思わず小さく吹き出し、その場の空気が和らいだ。


「それは、想像がつくわね」


吉田は少し照れくさそうな笑みを浮かべて剣を握り、それを彼女へと近づけた。


「でも……本当に、使えるようになりたいんだ」


ローズは彼を支えるように、その剣へと手を伸ばした。


「この剣は、本当に手がかかるわね」


二人の手が、同時にその金属の肌に触れた――その瞬間だった。



ビチッ……!



激しい衝撃が二人の身体を駆け抜けた。


痛みはなかった。だが、それよりも遥かに奇妙な感覚――まるで氷のような冷徹な電流が、お互いの心臓を真っ直ぐに突き抜けたかのような衝撃。


ローズはカッと目を見開き、視界にあるすべての景色が歪んでいくのを感じた。


次の瞬間――世界が消失した。



周囲の景色は完全な闇へと変貌し、ローズは識別することすら不可能な黒い空間の中で、ガクリと膝を突いた。


(な、に……これ……っ!?)


自身の身体が、一糸も纏わぬ全裸であることに気づき、彼女の呼吸は一気に乱れた。

虚無の冷気が、剥き出しになった肌へと容赦なく打ち付ける。

彼女は本能的に両腕で胸を隠し、脚を交差させ、この何もない空間の中で必死に身を隠す術を探した。


「なんなの!? 吉田……っ!?」


しかし、完全な静寂が彼女の叫び声を虚しく飲み込んだ。返事はない。


その時、金属が擦れ合う残響が聞こえた。


――カラン……コロン……。


それは、重々しい鎖が床をゆっくりと引きずられる音だった。


ローズが視線を上げると、漆黒の闇の向こうから、圧倒的な存在感を放つ人影がこちらへと歩いてくるのが見えた。

その背丈は異常なほどに高く、一歩進むごとに虚無の空間に足音が響き渡る。


男が身に纏っているのは、まるでおぞましい黒骨を繋ぎ合わせて作られたかのような、漆黒の禍々しい甲冑。

腰や腕からは何本もの重い鎖が垂れ下がり、まるで金属の蛇のように地を這いながら背後へと引きずられている。


その場にいるだけで恐怖を植え付け、血を凍らせるほどの圧倒的な威圧感。

肩まで伸びた長く銀灰色を帯びた髪、そしてその瞳は、極彩色に燃え盛る真紅の輝きを放っていた。


ローズの背筋に、悍ましいほどの悪寒が走った。

まるで生き地獄の悪夢を見ているかのようだったが、それにもかかわらず――彼女はその男に、妙な既視感を覚えていた。


「あなた、は……」


ローズは恐怖を堪えながら、奥歯を噛み締めた。


「……あなたが、魔王なの……?」


その巨躯は彼女のすぐ目の前で足を止め、獲物を値踏みするように、ゆっくりと彼女の周囲を回り始めた。


「そうだ……」


地響きのように深く、重いその声は、虚無の空間全体を激しく震わせた。


魔王が周囲を徘徊する中、ローズは身動き一つできなかった。

パニックに陥りながらも、彼女の脳内は激しい混乱に満ちていた。なぜなら、その男が放つ存在感は、あまりにも「ある人物」に酷似していたからだ。


「どうして……」


彼女はゆっくりと視線を上げた。


「どうして、そんなに……吉田に似ているのよっ!?」


魔王は低く、愉しげな笑い声を漏らした。その声に、ローズの全身の産毛が逆立つ。


「彼が私であり」


真紅の瞳が闇の中で不気味に光る。


「私が彼なのだからな」


ローズは恐怖に目を見開き、這うようにして後ずさった。


「嘘よ……! あなたは化物よ! 吉田が、あなたみたいな怪物なわけがない……っ!」


瞬きをする一瞬の間だった。

距離が一瞬で無に帰し、魔王は彼女の目の前に立ち塞がって視界のすべてを遮った。

近すぎる。


「いかなる路を選ぼうとも、お前は変わらぬな……」


ローズは金縛りに遭ったかのように動けなくなった。

魔王は片手を上げ、その素顔を覆っていた黒暗の兜をゆっくりと外した。


彼女の息が、完全に止まった。


魔王は冷え切ったその両手でローズの頬を包み込み、自身の顔を近づけながら、彼女に強制的に目を合わせさせた。


そこにいたのは、確かに吉田の容姿だった。

しかし、彼よりも遥かに大人びており、尊大で、死の予言を告げるに相応しい、危険なほどに人を惹きつける妖艶さを纏っている。


銀髪がその完璧な輪郭を縁取り、真紅の瞳は化物じみた光を放っていた。

あまりにも圧倒的な距離の近さに、ローズの全裸の身体を熱波のような衝撃が駆け抜け、心臓が胸の内で狂ったように脈打ち始める。

先ほどまでの恐怖は、すでにどこかへ吹き飛んでいた。


魔王はさらに顔を傾け、ローズの唇にその冷たい息がかかるほどの距離まで迫った。


「なぜ、そこまで吉田・加藤を……いや、私を守ろうとする?」


その赤い視線はナイフのようにローズの瞳の奥へと突き刺さと、彼女のあらゆる秘密を暴いていく。


「最初から彼が何者であるかを知りながら、それでも本当に守るというのか?」


圧倒的な威圧感を前に、ローズの身体は激しく震えていたが、魔王はなおも彼女をじっと見つめ続けた。

やがて、彼の声は妙に優しく、まるで別れを告げる囁きのように変化した。


「彼の元へ戻るがいい。お前が私を目にしているという事実……それこそが、今宵、お前が死ぬという運命の証明だ」


ローズは限界まで目を見開いた。


「え……?」


「お前の最も得意なことをするがいい。……そして、運命を変えてみせろ」


その瞬間、空間全体がまるでガラスのようにひび割れ始めた。

闇が一気に崩壊し、突如としてローズの耳に現実の生々しい声が飛び込んできた。


「ローズ!」


「早く水を持ってこい!」


「姫殿下、下がってください!」


ローズはハッと目を開いた。息は荒く、身体は冷や汗でびっしょりと濡れている。

兵士たち、老いたアルウィン、そしてカサンドラ王女が、心配そうに彼女を囲んでいた。


「しっかりしろ、ローズ!」


その中心に吉田がいた。

少年は必死の形相で彼女の肩を掴み、何かを叫びかけていたが、ローズの意識が現実に戻るまでには数秒の時間を要した。


空間に焼き付いたあの真紅の瞳と、脳裏の言葉を思い出す。

――『今宵、お前は死ぬ』。


凄まじい悪寒が彼女の全身を駆け抜けた。


その喧騒の奥で、カサンドラ王女は密かに吉田の姿をじっと見つめていた。

ほんの一瞬、彼女もまた、その少年から溢れ出た化物じみた不気味な闇の気配を感じ取っていたのだ。だが、彼女はそれを口にせず、沈黙を守ることを選んだ。


ローズは差し伸べられた手を拒み、ゆっくりと立ち上がった。

信じられないほどの恐怖に身体を震わせながらも、彼女は確信していた。

何か恐ろしいことが、今夜、これから起こるのだと。



夜の闇がアルタクレスタの街を完全に呑み込んでいたが、その通りは激しい混沌の炎によって赤々と燃え上がっていた。


何頭もの黒馬が炎の中を進み、武装した兵士たちが民家を破壊し、目に付くものを略奪し、住民たちを力ずくで引きずり回している。

絶望に満ちた悲鳴が大気を満たし、立ち上る黒煙が星空を覆い隠していた。


その破壊の渦中で、一人の青年が漆黒の馬に跨り、静かにその光景を眺めていた。


アレッシオ王子。

容姿端麗で優雅、しかしその内面は完全なる怪物。


彼の澄んだ瞳は、兵士たちが英雄カマエルの像の前で一人の男を容赦なく痛めつける光景を見つめ、嗜虐的な愉悦に歪んでいた。


床に転がされているのは酒場の店主――数日前にシェイリーを接客した、あの男だった。

哀れな男はすでに血塗れで、その指の一本は無残にも引きちぎられていた。


「さあ……」


アレッシオは極めて穏やかな笑みを浮かべ、低く呟いた。


「ただ答えれば、これ以上苦しまずに済むのだよ?」


店主は激痛に耐えながら、挑発するように床へと血の混じった唾を吐き捨てた。


「この……簒奪者め……っ」


アレッシオは小馬鹿にしたような笑い声を漏らした。

そして、一切の躊躇なくナイフを抜き放つと、男の手の甲へと突き立て、そのまま木製の床へと深く突き刺した。


肉を裂く絶言が、広場全体に木霊した。


「エレノア・アラソーンはどこにいる?」


王子は傷口をさらに抉るように、ナイフの柄をわずかに左右へと揺らしながら問いかけた。

店主は激痛のあまり涙を流して激しく身悶えしていたが、ついに限界を迎え、精神が完全に崩壊した。


「シェイリー……っ!」


彼は必死に酸素を求めながら、途切れ途切れに叫んだ。


「ロゼット・ベイカー……だっ!!」


その瞬間、辺りに重苦しい沈黙が流れた。

アレッシオの瞳に冷徹な悪意が宿り、その唇が歪んだ笑みの形を作る。


「ほう……」


王子はナイフを一気に引き抜き、忌々しそうに血を拭い去ると、遥か遠方にそびえる暗い山々へと視線を向けた。


「あの裏切りの女騎士も、ここに潜んでいたか……。まさか、彼もそこに……?」

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