第40話:ローズの決断
書庫を出ると、屋敷の中の空気はいくらか軽くなったように感じられた。
ここ数日間にわたって蓄積されていた重苦しい緊張感が、ほんの一瞬だけ消え去ったかのようだった。
カサンドラ王女は、いつもとは明らかに違う表情を浮かべて車椅子を進めていた。
紛紛争が始まって以来、一度も見せたことのないような柔らかさがその顔にはある。
彼女の唇は、かすかではあるが絶え間ない微笑みを形作っていた。
普段の毅然とした計算高い眼差しは鳴りを潜め、今はもっと個人的な思考に没頭しているように見えた。
いつもと変わらぬ冷静さで車椅子を押していたアルウィンは、その変化にすぐ気がついた。
数十年にわたり王家に仕えてきた老将の目を盗めるものなど、ほとんど存在しない。
それでも、今目の前で起きている変化は、彼にとってひどく奇妙に映った。
「殿下……」
老騎士は慎重に声音を整えて話しかけた。
「少し……雰囲気が変わられたように見受けられます」
カサンドラはすぐには答えなかった。
自身の思考を明かすべきか迷うように少し視線を落としたが、最後には小さく溜息を漏らした。
「見つけた気がするのです……」
彼女は呟いた。その瞬間、白い頬がわずかに朱に染まる。
「……未来の王配を」
老騎士の足が、ぴたりと止まった。
長い年月の中で初めて、彼の冷静沈着な面持ちが完全に崩れ去った。
「……は?」
その驚きがあまりにも露骨だったため、王女さえも顔を上げて彼を振り返ったほどだった。
「本気で仰っているのですか、殿下」
カサンドラは迷うことなく頷いた。頬の赤みはまだ引いていない。
「至って本気です」
彼女の瞳に、新たな力強い光が宿る。
「あの少年は……平凡な器ではありません。もし物事がうまく運べば……」
彼女は一度言葉を切り、頭の中の思考を整理した。
「相応の教育を施さねばなりませんね。単なる騎士としてではなく……私の隣に座るに相応しい男として」
老将はその言葉を脳内で処理するまでに、数秒の時間を要した。
「それは……容易なことではありません」
老騎士はようやく言葉を返した。
「魔導王としての器を育てるには、長年の鍛錬、規律、政治的知識、そして魔力の制御技術が必要となります……」
「分かっています」
カサンドラは静かに、しかし拒絶を許さない断固とした声音で言葉を遮った。
「だからこそ、あなたの力必要なのです」
老騎士は沈黙したまま彼女を見つめた。
「あなたはヘセックス王国で最高の剣士です。もしあの少年を一流の騎士、あるいは魔導王に育て上げられる者がいるとすれば……それはあなたしかいません」
一瞬、老将は言葉を失った。
王女がこれほど情熱を滾らせている姿を見るのは初めてだった。
しかも、ほんの数分前に出会ったばかりの異邦人の少年に対して。
最後には、彼は小さく息を吐き出した。
「それが殿下の御心であれば……全力を尽くしましょう」
再び廊下を歩み始めると、老騎士の脳裏には拭いきれない疑問が浮かんだ。
あの中で、一体二人に何があったというのか。
新たな王配――彼がこれまでの人生で一度も想像したことのない未来だった。
「認めざるを得ませんな……」
老騎士は王女に向けてではなく、独り言のように呟いた。
「まさか、そのようなお言葉を聞くことになるとは」
カサンドラは微笑を浮かべたまま、何も答えなかった。
しかし次の瞬間、アルウィンの表情が険しいものへと変わる。
「……では、ロゼット・ベイカーはどうなさるおつもりで?」
室内の空気が一瞬にして凍りついた。
王女の唇から笑みが完全に消え去り、代わりに冷徹で底の読めない眼差しが戻ってくる。
彼女は、何も答えなかった。
◆
屋外の広い訓練場では、再び鋼がぶつかり合う音が空気を満たしていた。
兵士たちは休息も挟まずに剣を振り、その動きには避けられぬ戦争へと突き進む軍隊特有の規律が刻まれている。
その喧騒の中心で、一際際立つ存在感を放つ影があった。
ローズだ。
他の兵士たちから距離を置き、彼女の身体は視認するのも困難な速度で動いていた。
その刃は、空中に致命的なまでの正確さで軌跡を描いていく。
一見すると美しい舞踊のようにも見えるその動きは、本質的には人間を殺害するために洗練され尽くした完璧な技術の連なりだった。
一歩、一旋回、一太刀……そのすべてが冷徹な死の宣告だ。
猛烈な鍛錬の最中、彼女の視線が不意に一瞬だけ逸れた。
そして、見つけた。
吉田が屋敷から出てくる姿を。
腰に黒い剣を帯びたその姿は彼女が命じた通りだったが、その歩調には明らかな変化があった。
足取りは力強く、視線は真っ直ぐに固定され、その顔には以前にはなかった強い決意の光が宿っている。
ローズは不審に思い、わずかに眉をひそめた。何かが噛み合っていない。
深く考えるよりも先に、彼女は獲物を鞘に収めると、少年に向かって歩み寄った。
「なぜ勉強をしていない?」
声音はぶっきらぼうで、ほとんど条件反射のようなものだった。
しかし、返ってきた言葉は彼女の予想を完全に裏切るものだった。
吉田は彼女の目を正面から見据えた。
その瞳にあったのは、いつもの困惑ではなく、明確な「怒り」だった。
「なぜ……教えて、くれなかった?」
少年は、この世界の言葉をできるだけ明瞭に発音しようと、懸命に言葉を絞り出す。
「あんたが……戦う、戦争のこと」
ローズは一瞬、言葉を詰まらせた。
「お前が知る必要のないことだ」
彼女は冷淡に突き放した。
「お前には関係のない話だ」
「関係、ある!」
吉田は少し声を荒らげて反論した。
「俺も……戦う」
その一言の衝撃は絶大だった。
「……何だと?」
ローズの顔に、完全な困惑と動脳が走る。
「俺は、戦う……王女のために」
吉田はたどたどしくも、しかし一歩も引くることなく言葉を続けた。
ローズの内から、一気に激しい怒りが突き上げた。
「自分が何を言っているのか分かっているのか!?」
彼女は一歩踏み出し、少年に詰め寄った。
「まともに動くこともできず、剣の使い方も知らず、この世界の仕組みすら理解していないお前が、一体どうやって戦うというんだ!」
「覚える」
「そんな簡単な世界じゃない!」
「やるんだ」
二人の間の緊張感が急速に膨れ上がっていく。
ローズはさらに激しい言葉を浴びせようとしたが、その瞬間、ある感情が彼女の言葉を止めた。
兄の記憶。リュウジンの言葉だ。
『あいつ、一度言い出したら聞かないからな』という声が脳裏に響く。
それ以上に、最悪な光景が頭をよぎった。あの悪夢だ。
血に染まった戦場。自分の腕の中で冷たくなっていく、命を失った身体。
自分のせいで、吉田が死ぬ。
ローズの心臓が、強烈な恐怖で締め付けられた。
「お前は何も分かっていない……」
彼女の声が、かすかに震え始める。
しかし、その言葉を最後まで紡ぐことはできなかった。
「心配には及びませんよ、ロゼット・ベイカー」
二人が同時に振り返ると、老騎士アルウィンが静かな足取りで近づいてくるところだった。
「私に責任を持って、彼に叩き込みましょう」
ローズは耳を疑うように老将を見つめた。
「何を……」
「少年が戦うことを望むなら、それを無視することはできん」
老将は淡々と説明した。
「それに、十分な訓練も積ませずに前線へ放り出すような真似はせん」
「これは遊びじゃない」
ローズは鋭い声音で言い放った。
「私は、こいつがこれ以上巻き込まれるのを防ごうとしているんだ」
老騎士は静かに彼女を見つめ返した。
「そして私は、もし彼が戦場に立つことになった時、泥の中で無駄死にしないようにしようとしているのだ」
吉田が一歩前に出た。
「俺は……役立たずのままでいたくない」
老将は小さく笑みを漏らした。
「分かっている。だからこそ、私もお前をそのように扱うつもりはない」
彼の表情から笑みが消え、軍人の顔に戻る。
「私はこの陣営の最高責任者だ。貴重な戦力を無駄にするわけにはいかんのでな」
ローズは沈黙した。
彼女の頭の中で、バラバラだったパズルのピースが繋がり始める。
直接の訓練。保護。そして、もはや自分にはコントロールできない領域で下された決定。
王女が、自身の駒を動かし始めたのだ。
「彼には私が個人的に稽古をつける」
老将は言葉を重ねた。
「大義なき戦いに無謀に晒すことはせん」
ローズは奥歯を噛みしめた。
状況の主導権が完全に自分の手から零れ落ちたことを確信していた。
「……なら、誓え」
彼女は不意に一歩踏み出し、老将を睨みつけた。
アルウィンは彼女の目を見つめ返した。
「こいつが『恩寵を受けし者』だからという理由だけで、都合のいい道具として扱わないと誓え」
二人の間に、張り詰めた沈黙が降りた。
ローズの瞳には、大切な者を守ろうとする激しい憤怒の炎が宿っている。
老将はその意図を正確に汲み取り、静かに息を吐いた。
「いいだろう」
彼はようやく口を開いた。
「誓おう。ただし、一つ条件がある」
ローズは不快そうに眉をひそめた。
「もし私にその誓いを守らせたいのであれば、お前も誓うのだ。王女の勝利のために、一切の妥協なく戦うと。……もしお前が倒れれば、私の誓いも霧散すると思え」
完璧な罠だった。
ローズはそれを瞬時に理解したが、隣に立つ吉田の横顔を見て、もはや自分に選択の余地など残されていないことを悟った。
「……分かった」
言葉は、予想以上に早く彼女の唇から零れ落ちた。
取引は成立した。吉田の訓練が、ここから始まる。
ローズは乱暴に背を向け、もはや少年の顔を見ることも拒むように歩き出した。
「好きにしろ」
彼女は日本語で忌々しそうに吐き捨て、その場を離れた。
◆
一度も振り返ることなく、彼女はそのまま深い森の中へと消えていった。
キャンプの喧騒が次第に遠ざかり、代わりに木々を揺らす風のそよぎが周囲を満たしていく。
ローズは明確な目的地もないまま、視界に入ることすら危うい獣道を進み、ようやく人目のない開けた場所で足を止めた。
彼女の目の前には、立ち枯れた古い大木が一本、佇んでいる。
完全な静寂が彼女を包み込んだ。
そして――彼女は拳を突き出した。
渾身の力を込めた拳が、乾いた木肌へと叩きつけられる。
一撃。二撃。そして、さらに激しく。
「……チッ」
彼女の呼吸は荒く、激しく乱れていた。
自分自身でも意味が分からなかった。なぜ自分がこれほどまでに取り乱しているのか。
胸の奥を焦がすような、この耐え難い不快感の正体は何だ?
彼が「王女のために戦う」と言った瞬間、なぜ心臓の奥がこれほどまでに激しく軋んだのか。
彼女は歯を食いしばり、再び大木へと拳を叩きつけた。
しかし今度は、その拳が微かに震えていた。
堪えきれなくなった一筋の涙が、彼女の頬を伝って流れ落ちる。
ローズは完全に動きを止め、自身の拳から滲み出る紅い血をじっと見つめていた。
困惑し、苛立ち、そして今自分が抱いている感情の正体を、彼女は一言も説明することができなかった。
風が木々の間を吹き抜けていく。
しかし、彼女の問いに答えるものは何もなかった。
ただ、静寂だけがそこにあった。
私の作品を時間を割いて読んでいただき、本当にありがとうございます。ランキングの順位や数字、成功とか失敗なんて関係なく、ただ皆さんに読んでもらえるだけで私は本当に幸せです。




