第39話:複雑な感情
ローズたちがこの屋敷に到着してから、五日の月日が流れていた。
屋敷の日常は、軍隊さながらの厳格な規律とともに安定しつつあった。
兵士たちは夜明けから訓練に励み、鋼がぶつかり合う音が絶えず空気を満たしている。
定期的に森の小道を抜けてやってくる馬車は、前線からの緊急の伝令や馬、そして大量の物資を運び込んでいた。
そんな外の喧騒から離れた屋敷の奥深く、吉田は静まり返った書庫の机に向かっていた。
彼の前には、この世界の実録や言語が記された数冊の書物が広げられている。
その表情は真剣そのもので、ようやく意味を結び始めた未知の単語を一つずつ紐解こうと、一心に集中を傾けていた。
ほんの数日前までの、ただ困惑して立ち尽くすだけだった少年の姿はそこにはない。
ローズが根気強く、時には騒がしく叩き込んできた言葉の基礎が、少しずつ実を結び始めていた。
静寂の中、扉がそっと開く微かな音が彼の集中を破った。
顔を上げると、老騎士アルウィンに車椅子を押されたカサンドラ王女が室内へと入ってくるところだった。
若き王女は車椅子の上でありながらも、息をのむほど洗練された気品を纏って静かに進み、老将の手によって机の正面へと導かれる。
吉田は即座に席を立った。
今回は誰に指示されるでもなく、自然な動作で頭を少し下げ、敬意の礼を捧げる。
その様子を見たカサンドラは、ふっと微かな微笑を漏らした。
少年の見せたその小さな変化が、彼女にはひどく好ましく、心地よいものに感じられたのだ。
「おはよう、若者よ」
老騎士が静かな声音で、吉田が聞き取りやすいように一語一語をはっきりと区切って語りかけた。
「お、は……よう……ござ……います……」
吉田はたどたどしくも、懸命に言葉を返した。
その発音は、以前に比べて格段に明瞭になっている。
カサンドラは彼をじっと見つめた。
ただ言葉の習熟度を測るだけでなく、少年の仕草、佇まい、そして傲慢さを一切感じさせずに自分と視線を合わせるその真っ直ぐな瞳を観察していたのだ。
世間に流布している「魔王の手先」という禍々しい噂のどれもが、目の前の少年の本質とは決定的に噛み合っていなかった。
「アルウィン」
カサンドラが鈴を転がすような声で、静かに告げた。
「少し、お水を持ってきてはもらえないかしら」
老騎士はその意図を瞬時に察した。
それが単なる欲求ではなく、二人きりにしてくれという合図であることを。
「かしこまりました、殿下」
余計な言葉は一切挟まず、老将は一礼して部屋を退出し、背後で扉を静かに閉めきった。
残された室内に、短くも濃密な沈黙が降りる。
カサンドラは再び、その美しい紫色の瞳を吉田へと向けた。
「さて……」
彼女は小さく首を傾げ、優美に微笑んだ。
「これで、落ち着いて話ができますね」
吉田は頷いたが、その表情には微かな困惑が浮かんでいた。
「教えてくれませんか、吉田。……あなたは本当は、どこから来たのですか?」
少年は一瞬躊躇い、脳内にある数少ない既知の単語を探し求めた。
「遠い……ところ、から」
彼は動きを最小限に抑えながら、拙い言葉を絞り出す。
「とても……違う、世界」
カサンドラは沈黙したまま彼を観察した。
少年の瞳には、偽りや欺瞞の陰りは一切存在しなかった。
「では、ローズとの関係は?」
吉田が顔を上げた。
今度は、その瞳に一切の迷いはなかった。
「彼女が……助けてくれた」
絶対の確信を込めて、彼は言い切った。
「俺……死ぬところ、だった」
政治的な思惑も軍事的な誇張も一切排除されたその純粋な答えは、王女の予想を完全に裏切るものだった。
二人の間に、不意に静かな沈黙の空白が生まれる。
彼らは互いの目をじっと見つめ合った。
吉田は生々しいほどの誠実さでその視線を受け止めていた。
それは、裏切りと欺瞞に満ちた宮廷で生きてきた彼女が、これまで決して目にしたことのない種類の光だった。
「……どうしたの?」
カサンドラがあまりにも凝視してくるため、吉田は不思議そうに尋ねた。
王女は己の膝の上で組まれた指先へと視線を落とし、自嘲気味に、どこか苦々しい溜息を吐き出した。
「ただ……信じ難いと思っただけです。外の世界では、誰もがロゼット・ベイカーを大罪人として見ている。彼女は神聖な誓いを破り、魔王を討伐する代わりに、この世界に混沌をもたらすために連れ帰ったのだと噂されていますから」
吉田は即座に首を横に振り、膝の上で拳を固く握りしめた。
「それは……違う。ローズは……良い人だ」
王女がその言葉に反論を試みようとした、まさにその瞬間だった。
カサンドラの身体に、唐突な悪寒が駆け抜けた。
「クシュン!」
静かで、予期せぬ小さな制外の音が、書庫の厳かな空気を一瞬にして吹き飛ばした。
カサンドラは目に見えてきまずそうに眉をひそめ、その白い頬をたちまち鮮やかな朱色に染め上げた。
慌てて膝の上のハンカチを探そうと不器用な動作をした拍子に、薄い布地が彼女の指先から滑り落ち、車椅子の車輪のすぐ近くの床へと落下してしまう。
下半身の自由が利かない彼女は、それを拾おうとして前傾姿勢になりすぎ、危うくバランスを崩しかけた。
吉田は純粋な本能で動いた。
机越しに素早く身体を伸ばし、彼女の華奢な肩をがっしりと支えて転落を防いだのだ。
それから慎重な動作で身を屈め、床のハンカチを拾い上げた。
身体を起こした時、二人の距離は完全に消失していた。
王女の高貴で仄甘い香りが、吉田の感覚を優しく包み込む。
吉田は少し不器用ながらも、極めて紳士的な手つきでハンカチを彼女へと差し出した。
その際、彼女の冷え切った指先と彼の指が微かに擦れ合う。
至近距離で、二人の視線が真っ直ぐに交錯した。
あまりの近さに、少年はカサンドラの吐き出す少し乱れた息の熱さえ肌に感じることができた。
王女は完全に硬直したまま、その漆黒の瞳の近さに囚われていた。
自分をただの壊れやすい陶器の置物としてではなく、一人の血の通った人間として見つめてくる、その真っ直ぐな双眸に。
吉田はハッと我に返ると、非礼を詫びるようにゆっくりと身を惹き、微かに顔を火照らせながら自分の席へと戻った。
「す……すみません」
少年が頭を下げると、王女は静かに首を横に振った。
彼女の頬の赤みは、先ほどよりもさらに色濃くなっている。
「いいえ……ありがとうございます」
彼女はどこか儚げな微笑を浮かべた。
「何しろ……私は、自分では動くこともできない身ですから」
その言葉を聞いた瞬間、吉田は顔を上げた。
その瞳からは先ほどの気恥ずかしさが消え去り、代わりに酷く深く、臨場感のある重みを含んだ共感が宿っていた。
「俺……分かります」
吉田は静かに、しかし確確たる声音で呟いた。
カサンドラは好奇心を刺激され、僅かに眉をひそめた。
「なぜ、そんな風に言い切れるのですか?」
吉田は彼女の目を直接見ようとはしなかった。
彼の視線は、机のざらついた木目へと落とされ、膝の上の両手は固く握りしめられる。
「俺の、身体も……前は……同じ、だったから」
この世界の言葉を絞り出しながら、彼は自分自身の過去を説明するために途方もない労力を傾けていた。
「それは……牢獄、だった」
書庫の内に、石碑が落ちてきたかのような重苦しい沈黙が降りた。
カサンドラの紫色の瞳が、本物の驚愕に大きく見開かれる。
「誰かに……頼る、しかなかった」
吉田の声は、決して同情や憐れみを誘うためのものではなかった。
ただ静かで、成熟していて、それでいて圧倒的な現実の重みを孕んでいた。
「何も……できなかった。ただ……見てる、だけ」
王女は息を呑んだ。
一瞬、彼が自身の障害について語り始めた時、カサンドラの誇りは硬く身構えていた。
この異邦人から憐れみの目を向けられることを恐れたのだ。
しかし、彼の声音には同情など微塵もなかった。
そこにあったのは、純粋な「理解」だった。
同じ地獄を知る者としての、痛烈な共鳴だ。
「でも……」
少年は短い沈黙ののち、顔を上げた。
その瞳には、先ほどとは異なる新たな光が灯っている。
「俺には……光が、あった」
「光……?」
王女がささやくように繰り返す。
「俺の、兄。リュウジン。彼が……俺に、力をくれた。生きる、ための」
その言葉は、王女の胸の内にあった警戒を完全に打ち砕いた。
吉田の思考には、彼女を陥れるための戦術も策略も存在しない。
ただ、自分と同じ傷跡を魂に刻んだ者としての、飾りのない真実だけがそこにあった。
「あなたは……一体、何者なのですか、吉田……」
カサンドラは消え入りそうな声で問いかけた。
彼女の視線は少年に釘付けになり、何らかの企みや、政治的な裏の意図がないかを探ろうとしていた。
だが、どれほど見つめても、そこには何も見出せなかった。
その僅か一瞬の間に、王女が頭の中で描いていた冷徹なチェス盤は、音を立てて崩れ去った。
彼女は最初、彼を利用するつもりだったのだ。
素性の知れない異界の少年を操り、彼が聖剣を扱えるという事実を利用して、ヘセックスの王座を奪還するための、使い捨ての歩兵に仕立て上げるつもりだった。
しかし今、少年の顔を正面から見つめた瞬間、彼女の脳内で冷酷に回り続けていた歯車が完全に停止した。
若き王女の唇に、今度は本物の、どこか切なくも温かい笑みが刻まれた。
「私にも……兄がいました」
カサンドラの声音に、まるで極上の絹のような、柔らかく深い響きが混ざり合う。
「名はアーサー。この国で最も勇敢で、誰からも慕われる偉大な騎士でした」
吉田は真剣に耳を傾け、その名が持つ重みを正確に受け止めていた。
「実直で……強く……いつも私の傍にいてくれた」
彼女の瞳が、堪えきれずに溢れそうになった涙の水面を反射してきらめいた。
「彼が私の光だった。この動かない身体を抱えながらも、私が今日まで生きてこられた唯一の理由だったのです」
王女の声が、ほんの一瞬だけ、繊細なガラスがひび割れるように震えた。
「ですが……兄は殺されました。今、私たちの故郷を灰へと変えようとしている、あの悍ましい怪物たちの手によって」
吉田の胸の奥が、締め付けられるように痛んだ。
自分の最愛の兄、リュウジンの姿が脳裏を閃光のように駆け抜ける。
失った苦しみ、決して埋まることのないあの黒い喪失感は、二つの異なる世界であっても完全に同一のものだった。
カサンドラを見つめる吉田の目には、もはや没落しかけた王権の継承者の姿は映っていなかった。
そこにいたのは、自分と同じ喪を抱えた一人の同胞だった。
自分と同じ地獄の底を這いずり回っている、傷ついた少女の姿だった。
「俺……」
吉田は沈黙を破り、自分自身でも驚くほどの明確な決意を込めて言葉を紡いだ。
「手伝いたい」
王女は弾かれたように顔を上げ、その瞳を大きく見開いた。
「……たとえそれが、あなたを最前線に立たせることを意味していてもですか? 私のために、その手を血で染めて戦えと命じても?」
吉田は瞬き一つしなかった。
その瞳は、未だ戦いの技術においては未熟そのものであったが、そこには確かに、鋼のような揺るぎない輝きが宿っていた。
「あんたのため、なら……」
この世界の言葉の壁を完全に乗り越え、彼は真っ直ぐに言い放った。
「俺は……戦う」
古い書庫の中で、時間が完全に停止したかのようだった。
カサンドラは無言で彼を見つめ、己の胸の奥で、これまでの人生で一度も経験したことのない不意の激しい鼓動が跳ね上がるのを感じていた。
――あぁ、私はこの少年に、落ちてしまったのだ。
冷徹な戦略家としての彼女は、すべてを悟った。
いかなる防衛策も、政治的計算も、盤面を覆すための妙手もそこにはない。
自分の国の地理さえ満足に理解していない、あまりにも純粋な少年の存在に、彼女は魂を奪われていた。
それでも、ただ自分の微笑みを守るためだけに、世界中を敵に回してでも立ち上がり、鋼を握ると誓ってくれた少年の、その無垢な決意の前に。




