第42話:裏切り?
隠れ屋敷の内部を満たす空気は、ひどく重苦しいものへと変わっていた。
王女の私室は、壁に掲げられた松明の炎だけが怪しく照らしている。
部屋の奥では、カサンドラ王女が車椅子に腰掛け、老いたアルウィンの傍らに佇んでいた。
ローズは中央の机の近くに立ち尽くしたまま、数分前に見たあの悍ましい光景の残像に、激しく心を乱されていた。
少し離れた場所では、吉田が沈黙を保ったまま壁に背を預けている。
腰に黒い剣を帯びた少年は、飛び交う言葉を一切理解できぬまま、ただ皆の様子をじっと見つめていた。
彼らの近くでは、さらに三人の上級騎士たちが、険しい表情で深刻な面持ちで話し合っている。
突如として、その静寂は破られた。
――バンッ!!
扉が乱暴に押し開けられ、今にも外れんばかりの凄まじい音が響く。
部屋に飛び込んできたシェイリーは、肩を激しく上下させて息を切らし、服は泥に汚れ、その瞳には野獣のような怒りが宿っていた。
「姫殿下っ!」
エルフの少女が叫ぶと、室内の全員の視線が一斉に彼女へと集中した。
「アレッシオの兵どもが、アルタクレスタの街を蹂躙しました!」
部屋の空気が一瞬で凍りついた。
ローズの心臓がドクリと跳ね上がり、シェイリーは激しい憤怒に奥歯を噛み締めた。
「生存者は一人もいません……! 街の罪なき民やその家族さえも、容赦なく皆殺しにされました!」
その無慈悲な報告に、老いたアルウィンさえもその眼光を一段と険しくした。
「何があったのです……?」
カサンドラ王女が問いかけた。
冷静を装おうとしてはいるものの、彼女の白い頬を冷や汗が静かに伝い落ちる。
「王子は、私たちがここにいることをすでに察知しています」
シェイリーが言葉を繋いだ。
「奴らの拷問に屈し、領主様が情報を白状させられた後に殺されました……。そして今、軍勢はこの山へと真っ直ぐに向かってきています」
ローズは限界まで目を見開いた。
彼女の脳裏に、先ほど聞いた魔王の冷徹な声が再び木霊する。
――『今宵、お前が死ぬという運命の証明だ』。
悍ましいほどの悪寒が、彼女の背筋を駆け抜けた。
「そんな……まさか……」
ローズは力なく呟いた。
「この隠れ屋敷が突き止められるのも、時間の問題です」
シェイリーが険しい声で警告する。
室内の空気はさらに息苦しさを増していった。言葉の意味を理解できない吉田でさえも、周囲の張り詰めた表情から、事態が最悪の局面に陥っていることだけは察していた。
◆
アルタクレスタを焼き尽くす炎は、地獄のような狂気の色を帯びて夜空を赤々と染め上げていた。
破壊された街の通りでは、無残な骸と家々の残骸が激しく燃え盛り、黒い煙が立ち上っている。
その凄惨な破壊の渦中で、アレッシオ王子は極めて優雅に、そして平然とした足取りで歩いていた。
片方の肩に長剣を預け、もう片方の手には、引きちぎられた領主の首をその髪ごとぶら下げている。
滴る鮮血が地面に点々と黒い染みを作り、背後には兵士たちが、絶対的な恐怖と沈黙の中で静かに従っていた。
王子は足を止め、遥か彼方にそびえる暗い山並みを見つめた。
「ほう、あの哀れな王女め……あんな高い場所に身を隠していたか」
一人の騎士が、怯えるように慎重に彼へと近づいた。
「殿下、物見の報告によりますと、あの屋敷は百人以上の騎士によって護衛されている模様です。いずれも王国の反逆者たる近衛兵たちです」
アレッシオはフッと小馬鹿にしたような笑い声を漏らした。
「なるほどね」
「拷問された領主の白状によれば、敵の数は百を超え、それを率いるのは『嵐』のアルウィン、エルフのシェイリー、指示役としてロゼット・ベイカーがいるとのことです」
王子の瞳に、底知れぬ冷徹な悪意が宿った。
「なかなかに、煩わしい戦力だね」
その凍りつくような視線に、騎士は思わず生唾を飲み込んだ。
「……今宵、このまま総攻撃を仕掛けますか?」
「いや」
アレッシオはゆっくりと首を横に振った。この緊迫した状況を、まるで極上の娯楽のように楽しんでいる。
「我が五百の兵だけでは、容易に突き崩せまい。ロゼット・ベイカーという女一人だけで、凡百の兵数百人に匹敵する」
風が彼の黒髪を激しく揺らす中、王子は再び山へと視線を戻した。
そして、その唇に狂気に満ちた、歪んだ笑みを浮かべる。
「だからこそ、もっと面白い趣向でいこう……。我が軍が誇る精鋭の狙撃手を二人送り込み、あのワーウィックの雌犬騎士を確実に仕留めるのだ」
前触れもなく、彼は手にした領主の首を毬のように高く放り投げると、渾身の力で蹴り飛ばした。
首は広場の泥の中を無残に転がっていき、それを見た数人の兵士たちが、引きつったような笑い声を漏らした。
「あの女さえ死ねば、あとは大軍を呼び寄せるだけだ。明日の正午、必要とあらばあの忌々しい森ごと、すべてを焼き尽くしてやる」
アレッシオは冷酷に眼光を鋭くさせ、そう言い放った。
◆
隠れ屋敷の中の緊張感は、一秒ごとに高まり続けていた。
シェイリーは深く息を吸い込み、悲痛な面持ちでローズを見つめた。
「あの領主様は……私たちがここへ辿り着いた時、温かく迎え入れてくれたお方です。橋での死闘の後、私たちのために治療魔導士の手配を命じてくれたのも、あの方でした」
ローズは沈黙を守った。その脳裏には、あの穏やかで慈悲深かった領主の顔が鮮明に浮かんでいた。
「そのお方が……殺されたのよ」
エルフの少女は、絞り出すように結んだ。
カサンドラ王女は静かに目を閉じ、そして自身の老いた賢者へと視線を向けた。
「どうすべきですか、アルウィン」
老人はしばらくの間沈黙し、熟考した後、毅然とした態度で言い放った。
「この屋敷を動くべきではありません」
ローズはハッとして声を上げた。
「臨機応変に動かないと……っ!?」
「本気なの、老師……っ!? 屋敷の場所は割れているのよ!」
シェイリーが憤慨し、激しく抗議の声を上げる。
しかし、アルウィンはその厳しい表情を一切崩さず、静かに窓辺へと歩み寄って外の暗闇を見つめた。
「この地は険しい森と山々に囲まれている。防衛戦を繰り広げるには、これ以上ない格好の要害だ。我らの誇る百の騎士は精鋭中の精鋭、さらにシェイリーとロゼット・ベイカーの力があれば、数倍 of 敵をも容易に凌駕できる」
ローズは悔しげに奥歯を噛み締めた。
部屋の隅では、吉田が依然として壁に寄りかかったまま、その重苦しい会話を静かに聞き流している。その右手は黒い剣の柄の近くに置かれ、彼にとって未知の、そして異様な熱を孕んだ空間に囚われていた。
アルウィンは森から目を離さないまま、さらに言葉を続けた。
「奴らが攻め寄せてくるならば……『ザリアの一族』の戦術を用いる」
一人の騎士が、驚愕に目を見開いて顔を上げた。
「……森を、焼き払うのですか?」
「いかにも」
老人の瞳が冷徹に細められた。
「アレッシオがこの屋敷へ進軍せんとするならば……燃え盛る業火の渦を突き進まねばならんのだ」
しかし、カサンドラ王女は静かに首を横に振り、その過酷な策を制した。
「アレッシオは、自分が誰を相手にしているかを熟知しています……。彼は今夜、攻めては来ないでしょう」
室内に、墓場のような静寂が広がった。
王女は威風堂々とした、大人の風格さえ感じさせる眼光で一同を見据えた。
「奴はさらに強大な軍勢を募り、必要であればこの山全体を完全に包囲するはずです。それはつまり、私たちが望もうと望むまいと、明日にはすべてを決する野戦が始まるということです」
ローズの胃の奥に、抉られるような不快な空白感が広がった。
魔王のあの不吉な言葉が、再び脳内で激しく脈打ち始める。
――『今宵、お前は死ぬ』。
恐怖のあまり、彼女の呼吸が徐々に乱れ始めた。
「そんな……っ……」
彼女は辛うじてそれだけを呟いた。
彼女のすぐ隣で、吉田は両手をかすかに震わせながら、ゆっくりと目を閉じた。ローズから溢れ出る圧倒的な恐怖の波動が、言葉の壁を越えて少年をも侵食し始めていたのだ。
その極限の緊張が満ちた瞬間、再び部屋の扉が開け放たれた。
飛び込んできたエリックは激しく息を切らし、その甲冑には生々しい鮮血がべっとりと付着していた。
「王子の軍勢が撤退を開始しました!」
彼は叫ぶように報告した。
「アレッシオは領主様を殺害し、引き揚げていきます!」
室内は再び張り詰めた沈黙に包まれた。カサンドラ王女は痛ましい損失に静かに視線を落とし、エリックは呼吸を整えながら、真の「爆弾」を投下した。
「しかし……それよりも最悪な事態が起きています」
全員の視線が、一斉に彼へと突き刺さった。若い騎士は、無念さと屈辱に唇を血がにじむほど強く噛み締めた。
「我らの陣営の内部に……裏切り者がいます」
ローズは驚愕に目を見開き、シェイリーは激しい怒りに眉を釣り上げた。
「な、んですって……っ!?」




