第33話:二人の加護持ちと嵐の渦中
太陽が完全に地平線へと沈み込み、残された空を血のような、おどろおどろしいオレンジ色に染め上げていた。
一行は、風を浴びて物憂げに巨大な羽根を回す風車と、広大な田畑の間を縫うように続く、ひどく狭い小道を進んでいた。周囲の風景そのものは牧歌的で穏やかそのものだったが、彼らの間に流れる空気は、今にも爆発しそうなほど張り詰めている。
ローズは足取りも覚束ぬまま、今にも倒れそうな不安定な身体を吉田に預けて歩いていた。フード付きのケープの下でその華奢な肩は小刻みに震えていたが、布の隙間から覗く紅い眼差しだけは、依然として戦士としての鋭さを失っていない。
「……そもそも、どうして私がここにいると分かったの?」
ローズが痛みに耐えながら、鋭く、警戒を孕んだ声で問いかける。しかし、先頭を行く二人の高貴な騎士たちは足を止めようとはしなかった。
「手紙を受け取ったのだ」
老騎士が、振り返ることもなく重々しく答えた。
一行に再び重苦しい沈黙が降りる。しかし、それを木切れのように木っ端微塵に破ったのは、背後から響いたエレノアのあざ笑うような軽い声だった。
「アタイが少し前に『ちょっと狩りに行ってくる』って言ったのを覚えてるかい、お嬢ちゃん?」
海賊の女は赤くなった頭をガリガリと掻きながら、大したことではないと言わんばかりにさらりと言ってのけた。
「実はね、アタイはこの国の反乱軍(正統王家派)の連中と、裏でちゃっかり連絡を取り合ってたのさ」
ローズは衝撃に足を止め、怒りに燃える紅い瞳でエレノアを射抜いた。
「……何をしたの!? あなたにそんな勝手なことをする権利なんて――!」
だが、激昂の言葉は喉の奥で無残に止まった。蓄積された疲労と股間の激痛が、とうに彼女の肉体の限界を超えていたのだ。彼女の身体は糸が切れた人形のように前へと崩れ落ち、視界が急速に遠のいていく。
「ローズ!」
吉田が日本語で叫んだ。
彼女の身体が冷たい地面に叩きつけられるよりも早く、吉田はその細い身体を間一髪で抱き止めていた。荷物のように無骨に背負うのではなく、正面から彼女の身体を優しく、しかし確実に横抱きにし――いわゆる『お姫様抱き』の体勢で、自分の胸へと強く引き寄せたのだ。
ローズの柔らかな身体が、ぴったりと彼の胸に密着する。
吉田は彼女の身体からダイレクトに伝わる尋常ではない熱と、自分の首筋をかすめる熱く荒い吐息を生々しく感じていた。それはまるで微弱な電流を全身に通されたかのような、あまりにも過剰で親密な接触だった。ローズの腕は無意識のうちに彼の首へと回り、まるでこの見知らぬ異世界で唯一自分を繋ぎ止めてくれる『錨』であるかのように、必死にしがみついている。
ローズが、数ミリだけ重い目蓋を開けた。
二人の顔は、あと数センチで唇が触れ合うのではないかというほどの至近距離にあった。彼女の白い頬が異常なほど赤らんでいるのは、決して疲労による熱のせいだけではなかった。自分を微塵の揺らぎもなく支えている吉田の腕の、男らしい力強さを至近距離で実感し、彼女の紅い瞳が驚愕に大きく見開かれる。衰弱していたとはいえ、フル装備の自分をこれほど容易く、軽々と持ち上げる力を彼が秘めていたなど、彼女は露ほども知らなかったのだ。
吉田は、自分の心臓が肋骨を激しく叩くドクドクという音を必死に隠すようにして強引に視線を逸らし、無言で再び歩き始めた。
「おやおや、まぁまぁ……」
後ろからエレノアがいやらしそうに口笛を吹く。
「こいつはアタイの知らない間に、随分と面白くなってきたねぇ?」
その尋常ではない様子を見て、先行していた騎士たちもわずかに歩を緩めた。老騎士がようやく重い口を開く。
「ロゼット・ベイカー。君がミルバー共和国の一件で『世界公敵』の罪人として追われている身であることは百も承知している。だが、エレノアから事情はすべて聞き及んでいる。彼女は我々に一つの『取引』を持ちかけてきたのだ。君の持つ伝説の力を我々に貸し出す代わりに、彼女の望む頑丈な船を用意しろ、とな」
吉田の腕の中で、ローズの身体にピキリと明らかな緊張が走った。消えかけていた怒りの火が、瞬時に彼女の声へと戻る。
「……勝手なことを! 私がそんな取引に応じるはずがないでしょう、この泥泥海賊!」
腕の中から海賊に向かって必死に吠えるローズ。しかしエレノアは全く堪堪せずに肩をすくめた。
「必要な手段だったのさ。おかげでアタイらも、こっちの連中が死に物狂いで隠した安全圏へ逃げ込めるんだからね」
「相手の素性が誰であろうと、今の我々には関係ない」
老人が重々しい声で二人の言い合いに割って入った。
「たとえそれが本物の『魔王』自身であったとしてもだ。我々は、正当な女王が再び玉座を取り戻すための圧倒的な『力』を必要としている。このヘセックス王国は現在、血で血を洗う内戦の最中にあり、我が軍は圧倒的な劣勢に立たされているのだ」
吉田は彼らが交わす会話のすべてを正確に理解できたわけではなかったが、国や政治という名の目に見えない巨大な重圧が、自分たちのような余所者を容赦なく押し潰そうとしているのを肌で感じていた。若い騎士に背負われている緑の髪のエルフ――シェイリーが、底意地の悪い好奇心を隠そうともせず、じっと彼らの様子を観察していた。
「『魔王』っていうから、もっとこう、絶望的なやつを期待してたんだけどねぇ」
シェイリーが呆れたように、溜息混じりに零す。
「背が異様に高くて、不気味な白髪で、禍々しくて恐ろしい暗黒の鎧を纏っているような奴をさ。でも、蓋を開けてみれば、そこにいたのは国を追われたカタブツ騎士と、妙な顔した異界のガキ、それからラム酒臭い三流海賊だけじゃない」
「おい! ガキ! アタイは今、人生の中で完璧にシラフな状態だよ!」
エレノアが盛大に抗議する。老騎士はその騒ぎを完全に無視し、鋭い視線を吉田の顔へと固定した。
「その少年……なぜ、人間に扱えぬはずの『天空の剣』を使える?」
ローズは答えるのを一瞬ためらった。一歩歩くたびに、自分を抱きかかえる吉田の力強い胸の鼓動が、自分の身体の奥深くにまでドクドクと伝わってくるのを感じながら。
「……どうやら、彼も私と同じ『加護を受けし者』のようです」
老人の太い眉が、驚きに大きく跳ね上がった。その老いた顔に、一縷の希望か、あるいは恐るべき野心か、独特のギラついた光が走る。
「二人の加護持ち、か。ならば、我々の勝利の可能性は格段に跳ね上がるな」
吉田はその言葉の響きが、心底気に入らなかった。まるで、自分がルールも理解していない巨大な盤面の上に勝手に置かれた、ただの使い捨てのチェスの駒になったかのような、不快な気分だった。
一行は街道の小道を外れ、いよいよ森の深みへと足を踏み入れた。夕暮れの光は完全に遮られ、周囲は古の巨木たちの鬱蒼とした影に飲み込まれていく。数分が数時間にも感じられるほどの緊迫した行軍の末、巧妙に隠された巨大な洞窟の前で、不意に視界が大きく開けた。
そこを通り抜けた瞬間、周囲の風景は劇的に一変した。
生い茂る原生林の草木にカモフラージュされるようにして、そこには重装備の鋼鉄の鎧を纏った大勢の兵士たちが、まるで鷹のような鋭い目で辺りを厳重に警戒していた。
吉田は、恐怖のあまり自分にさらに強くしがみついてくるローズを腕に抱えたまま、その場に足を止めた。
ヘセックス王国の暗い影で、今、何かが巨大なうねりを上げて始動しようとしている。
そして今、俺たちはその最悪な嵐の中心へと、無理やり立たされているのだ。




