第29話:未知の海を越えて
(ローズ視点)
潮風が正面から頬を叩きつける中、小さなボートは広大な海の上を頼りなく滑っていた。
頭上では、つぎはぎだらけの帆が不格好に膨らみ、風を受けるたびに
ギシ...
ギシ...
と不安げな音を立てる。
布の色も統一感はなく、暗いものもあれば色褪せたもの、さらには古い袋や毛布の切れ端のようなものまで混ざっていた。
強い風が吹くたび、今にも裂けてしまいそうで見ているこちらの神経が削られる。
……本当に、これで良かったのか。
そんな考えが頭をよぎる。
けれど現実として、今はもう四方すべてが海だった。
どこまでも続く青。
頭上では太陽が強く輝き、その光が水面に砕けたガラスのようなきらめきを散らしている。
エヴァに来てから、初めて――ほんのわずかだが、安堵に近い感覚を覚えていた。
海は、まるで避難場所のように思えた。
……そう信じたい。
だが、進んでいるのは“間違った海”だ。
ミルバー共和国。
世界最強の艦隊を持つ国家から、今まさに逃げているのだから。
だからこそ、何度も振り返ってしまう。
船尾に立ち、視線を水平線に固定する。
空と海の境界を切り裂くような影――
マスト。
帆。
紫の旗。
そのどれかを、無意識に探していた。
……あの国の船乗りにとって、海は完全に“支配された領域”だ。
だが――
意識は、どうしても別のものに引きずられる。
耳障りな声。
甲高く、やたらと通る。
「おおお~深海のルイおじさん!」
「港の悪夢!ラム酒の破滅!」
エレノア・アラソーン。
“海賊”と呼んでいいのか疑わしい女が、舵の横で胸を張りながら歌っていた。
リズムに合わせて頭を振り、完全に自分の世界に入っている。
「船を百隻奪い~♪」
「さらに百隻奪い~♪」
「酒代は一度も払わない~♪」
……最悪だ。
思わず目を閉じる。
ボートは大きな波に乗るたびにぐらりと揺れ、ガコンッ、と船底が叩かれる。
そのたびに内臓が持ち上がるような感覚に襲われ、胃がじわじわと悲鳴を上げていた。
それでも、弱さは見せない。
騎士として。
そして――
吉田がいるから。
視線を横へ向ける。
そこには、無防備に眠る彼の姿があった。
巻かれたロープと布の山に身体を預け、即席の寝床で静かに呼吸を繰り返している。
その表情は穏やかで、この状況がまるで日常の延長であるかのようだった。
「うわ、ぐっすりじゃん」
いつの間にかエレノアが覗き込んでいた。
「完全に丸太だね、これ」
さらに、その場所を指差して言う。
「そこ、私のベストポジションなんだけど」
……苛立つ。
理由ははっきりしない。
だが、確実に神経を逆撫でされる。
「ねぇ!」
また声が飛んできた。
「ロゼット・ベイカー!」
ゆっくりと振り向く。
エレノアは舵から手を離し、箱の中を漁っていた。
やがて緑色の瓶を取り出し、歯で栓を引き抜くと、そのまま豪快にあおる。
「あぁ~!」
満足げに息を吐いた直後――
こちらへ瓶を投げてきた。
受け取らない。
身体をわずかにずらす。
ヒュッ――
瓶はそのまま海へ落ち、ポチャン、と静かに沈んだ。
……一瞬の沈黙。
「…………え?」
エレノアの目が見開かれる。
「はぁぁぁぁぁぁ!?」
次の瞬間、ドボンッ!!と派手な水音を立てて海へ飛び込んだ。
そのまま、しばらく水面を見つめる。
やがて――
「はっ!」
顔を出す。
しっかり瓶を握っていた。
……本当に馬鹿だ。
よじ登るのに何度か失敗しながら、ようやく船に戻る。
全身びしょ濡れだが、なぜか誇らしげだった。
「あんた、絶対友達いないでしょ」
そう言いながらまた飲む。
……無視する。
「どこへ向かう?」
問いかけると、彼女は妙に長く考え込んだ。
「うーん……」
空。海。水平線。
「流れに任せる!」
……真顔で見つめる。
「本当に海賊なのか?」
「それ失礼じゃない?」
だがすぐに肩をすくめた。
「まぁ、どこ行っても同じだけどね」
瓶を掲げる。
「どこでも――あんたたち、殺されるよ?」
背筋に冷たいものが走る。
五大王国すべてで、
吉田も――そして自分も――賞金首だ。
広がる海。
だが理解した。
逃げているのではない。
“次に追われる場所を選んでいるだけ”だと。
小さく息を吐き、舵へ戻る彼女の背後へ歩み寄る。
手をかざす。
風が、指先に集まる。
「……静まれ」
ふわり、と空気が渦を巻く。
彼女の身体を包み込むように風が回り、濡れた衣服の水分を一気に奪い去っていく。
バサァッ――
髪が激しく揺れた。
「ちょっ、先に言ってよ!」
笑いながら抗議するが、気にしない。
……そのとき。
ふと、視線が落ちた。
濡れて張り付いていた服のせいで、身体の線がはっきりと浮き出ている。
引き締まった脚。
無駄のない筋肉。
ただの酔っ払いではない。
……強い。
無意識に視線を逸らす。
吉田の方へ。
彼はまだ眠っていた。
なぜか――
胸の奥に、わずかな不快感が残る。
……気にする必要はない。
意識を切り替える。
「ねぇさ」
エレノアが言った。
「面白い話、聞いたんだよね」
黙って聞く。
「三週間前、メリディアンの酒場でさ」
にやりと笑う。
「まぁ、“転がってた”って方が正確だけど」
舵を切りながら続けた。
「ウォリックで大戦があったらしいよ」
視線が上がる。
「魔族の大群が突然現れてさ」
その声から、わずかに軽さが消える。
「数日間、地獄みたいな戦争」
「史上最悪レベルって話」
静かに聞き続ける。
「結果が面白くてね」
一本、指を立てる。
「ザリアス王朝、滅亡」
もう一本。
「エヴァ騎士団、壊滅」
そして。
「……引き分け」
眉がわずかに寄る。
「何百万もの魔族が追い返されたらしい」
「“何か”にね」
そして、こちらを見た。
「あとさ」
笑う。
「五大賢者が騎士を送り込んだって話」
心臓が、跳ねた。
「任務は単純」
瓶を掲げる。
「魔王討伐」
波の音だけが響く。
「でもさ」
ゆっくりと言う。
「その騎士、失敗したらしいよ?」
目が離せない。
「殺すどころか――」
にやりと笑った。
「連れて帰ってきたんだってさ」
……。
誰がそんな話を流した?
なぜ――?
胃の奥が重くなる。
「最高じゃない?」
エレノアは笑った。
「その当事者が、私の船にいるんだから」
風が吹く。
船が揺れる。
それでも――
生きている。
それだけは,確かだった。
……本当に。
とんでもない女だ。
だが――
だからこそ、信用できる。
◆ ◆ ◆
――その頃。
出発した浜辺。
一人の騎士が、海を見つめていた。
長い黒髪が風に揺れる。
その姿は、まるで動かぬ像のよう。
背には異様な長さの槍。
周囲では騎兵たちが砂を巻き上げながら動き回っていたが――
彼だけは、動かない。
視線はただ一点。
遠ざかる小舟の影。
「エレノア・アラソーン……」
隣の騎士が呟く。
「誰だ、その女は」
ケンの声は低く、冷たい。
「自称海賊の酔っ払いです」
「……そうか」
ザクッ――
槍が砂に突き刺さる。
「なら――」
その瞳に、殺意が宿る。
「次の首は、あれだな」




